最後の盃
重田屋という料亭の畳の間で、有沢は上機嫌であった。呑んだ酒はすでに一升は越えている。体の小さい人間はよく酔うという俗説があるが、有沢は普段よりもよく笑っているものの、背筋も伸びていて、しっかりと杯を握り続けていた。
上座で横に並んでいる幸村はすでにこうべを垂れて、時折ふがっ!と、鼾を発している。
「有沢さん、さあさあ」と高山紫紺が寄ってきて、酒を勧めた。有沢は喉仏を大きく一度動かして、それを一気に呑み干すと自分の杯を高山に渡し、「高山くんも呑みたまえ」と酒を注いだ。
呑み終えた高山から有沢へと返された杯に、隣に正座している碧小夜が徳利を傾ける。「しかし、有沢さんたちに隊規を尊重してもらえて助かっていますよ。下にも示しがついている」
「すぐにボロを出すと思っていただろう」
「正直申し上げて!」
「正直すぎるぞ、馬鹿め」
有沢は大きな口を開けて笑った。
下座の者の顔がぼやけて見えるほどの広い和室の座卓で囲まれた中を、紅金魚らが酒を持ち、杯の空いた部員を見つけてはたどたどしく、酒を注いだ。このような行為に馴れていない。むしろ、本来ならば無礼千万たる行いであり、西院熊二郎あたりが見れば日本刀を持って暴れ回るべき光景であるが、そもそも観光協会にとって、高天の宮の宮女は崇拝の対称ではないので、もはや無礼講といった様相である。
高天の宮でも屈指の美女の接待に、若い部員などは杯を持って呆然と見惚れたり、目を伏せたまま、「すんません」と赤くなる者もいたが、無理やり酒を勧めたり、手を掴んだりする行儀の悪い者はいなかった。事前にしっかりと高山が教育している。そんな中、若い部員とは違い、酒で顔を赤らめた鈴方祀は宮女が近づく度にちょいちょいと突くようになり、それもだんだん酒が入るに従って言動も荒くなり、とうとう紅金魚の肩を抱き寄せ、懐に手を入れようとした。
堀川清介が重田屋の暖簾をくぐったのはその頃だ。続いて犬若も玄関に入った。奥から主人の文四郎が出てきて、「いらっしゃいませ」と膝をついて頭を下げ、顔を上げると「観光協会のお方で。宴会は奥の石楠花の間でございます」と、手を廊下の奥を指すように伸ばした。
堀川は靴を脱ぎながら軽くお辞儀しただけで廊下に上がると、ずんずん奥へ進んで行く。そんな老人を他所に、主人は顔を正面に向け、後ろにいた若者の顔を認めると「これはこれは、犬若様」と目を細めた。
「大変ご無沙汰しております。たまにはお顔を出してくださいな。女将も喜びます」
「私はお酒を呑みませんので、なかなか寄せて頂く機会がないのですよ」
「そんなことおっしゃらずに。お料理も最高のものを用意しております。食事だけでもいらしてくださいな」
犬若は、おかしいな、とは思わなかった。この後のことで頭がいっぱいになっていてそれどころではなかったのだ。
犬若が堀川に続いて分厚い板張りの、年期の入った廊下を奥へ進むと、やがて石楠花の間にたどり着いた。しかし、宴会にしてはいやに静かである。襖を開けた堀川に続き、宴会場に入ると、何やら楽しい慰労会とは思えぬ殺伐とした空気が肌を撫でた。
開けた襖の脇で胡坐を掻きながら呆然と上を見上げている鈴方祀がいる。視線の先には仁王立ちした有沢獅子が一升瓶を肩に担いで鈴方を見下ろしていた。その横には腰に手を当て立っている高山紫紺と、鈴方の隣で着物の裾から白い脚を投げ出し、怯えた顔をして座り込んでいる宮女。床の間の前では口を真一文字してその様子を静観している幸村朱鷺がいる。
「鈴方よ、俺が何も知らねえと思っているのか。お前、方々から金を借りまくってんだってな。全部、情報は入ってるんだよ」
言われた鈴方は両膝を立てて、むやみやたらに弁解を始めたが酔っている為、言葉にならない。
有沢はその場にしゃがむと、鈴方に顔を近づけ、ゆっくりと胸倉を掴みながら、静かな声で、
「それに南瓜の売人の店に出入りしてるって話も聞いている」
と囁いた。すると鈴方は目を見開き、大きく何度も首を横に振って、「それはねえ、それはねえ」と野太い声で吠えた。
「それはねえってことは、金を借りってるってのは本当なんだな。勝手に金策することを禁ず。隊規の法度だ。知っているよな」
追い詰められた鈴方はまた、わけのわからない言葉を発しながら立ち上がると、そこにいた堀川と押しのけ、ドタドタと廊下を出て行った。
会場はしんと静まり返った。下座の者などは何が起こったのかわからず、とりあえず黙って様子を伺っている。
「失礼をした」
高山が座り込んでいた紅金魚に向かって頭を下げた。
やがて店の者が入って来て、散らかった膳や徳利を片付けていると、有沢が太川浩市山、劉陽之助らに向かって「さあ、そろそろ撤収するか」と声を上げた。
「おい、岡莉菜、お前も行くだろう?」
声を掛けられた岡莉菜は珍しく頬を緩め、立ち上がった。立ち上がると、頭が天井にまで届きそうだ。
「鈴方が抜けたから人数が丁度になった。なあ、お宮様方」
立ち上がる有沢に、対面に座っていた沢井宗八が「話が違うぞ!」と慌てて詰め寄った。
「どこへ連れて行く気だ?」
「会館だよ。賑やかなのはもうこれくらいでいいだろう。あとはゆっくり静かに楽しませてくれ」
「さっき宴会が終わったら、お宮様は速やかに帰すと約束したでだろう!」
「馬鹿が!あそこの村人は人であって人ではない。法治国家に属することを放棄した上に、夢南瓜で葦原京を汚染する犯罪集団だ。そんな輩との口約束を律儀に守る必要がどこにある?」
そう言って有沢は沢井の肩を引き寄せ、「お前も俺がすんなりと女を返すなんて思ってねえだろう」と小声で囁くと、「あとの尻ぬぐいは任せた」と言って立ち上がった。
太川、陽が紅金魚らを連れ出そうとする。有沢が上座から碧小夜の手を引いて、座敷を出ようとした時、脇にいた犬若に碧小夜の体が、綿毛が掠めるほどに触れた。その瞬間、衝動的に犬若の腕が、脆い飴細工のような彼女の肩に向かって伸ばされた。が、それよりも早く「待ってくれ」という声が割って入り、高山紫紺の細長い体がふたりの間を切り裂いた。
高山は碧小夜には目もくれず、その先にいた悪塔子の体を掴むと関東派の連中から強引に引き離し、自分のほうへ手繰り寄せた。
「有沢さん、すまないがこの女は俺にくれ」
微笑しながら、そんなことを言う高山の顔を有沢は面白そうに覗き込んだ。
「おう、そりゃあちょっと都合が良すぎるんじゃねえか?俺たちがわざわざ辺鄙な山奥まで行って連れてきた女だぞ。飲み食いだけして、良い想いしようというのは虫が良すぎるんじゃねえか」
太川が踵を返しながら文句を言うが、有沢は「いいじゃねえか」と吐き捨てた。そして高山の顔を除き込み、「お前も好きだな」と言って笑った。
「俺もこっちにはだらしがないほうでね」高山も照れたように言う。
「知っているさ。葦原京中にお前が囲っているのはひとりやふたりじゃないだろう」
「まあ、そこはそっとしてもらいたいところだ」
「構わねえよ。楽しみな。しかしそうなると、人数が足りないな」
有沢はそう言うと岡莉菜に向かって「すまんが、今日のところは我慢してこっちに残ってくれ」と言い残して出て行った。
取り残された岡莉菜は、まるで、餌を奪われた犬のように呆然としていたが、やがてその大きな目で高山を睨み付けた。その殺気を感じて、藤田翔を筆頭に、幹部らが立ち上がり、高山と悪塔子の前に立って身構えた。
平部員らは未だに何が起こっているのかわからない。幸村朱鷺を見ても天ぷらを齧っているだけで、事を収拾する様子もない。
店の者が慌てて廊下に飛び出し、主人の文四郎を連れて来た。何かただならぬ状況だと聞いた文四郎は汗水を垂らし、「勘弁しておくれやす」と目じりをたれ下げながら跪いた。
「皆さまに暴れられたら店が目茶目茶になります!」
しかし岡莉菜は構わず、今にも殴り掛からんと、額に血管を浮かび上がらせながら、奥歯をギリギリと言わせている。そんな岡莉菜も見ても、高山は顔色ひとつ変えず、落ち着いていた。
「おいおい、俺を責めるなよ。お前を除け者に選んだのは有沢さんだ」
高山は挑発するように言いながら幹部たちを掻き分けて岡莉菜に歩み寄り、
「俺はこの女を抱くつもりはない。この女だけは駄目なんだ」
と言いながら、彼の耳元に顔を持って行き、なにやらこそこそと囁くと、岡莉菜は怒らせていた肩を下げ、また呆然と立ち尽くした。
「では俺も先に失礼する。皆々、気を取り直し、今宵はゆっくり楽しんでくれ。ゆっくりとだ」
高山は座敷を見渡すようにして声を張り上げると、魂を抜かれたように目を泳がせている悪塔子の手を引いて出て行った。
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