高山紫紺の手紙
那智の春道はあれ以来、何度か高天の宮に足を運んでいる。
祭の夜のもどかしい気持ちも今は綿毛が喉の小骨が抜けたように、吹っ切れてしまっていた。
無論、宮へ行くということは桃龍の誓約を受けるということだ。しかし彼の楽しみはもはや、誓約よりもその後、碧小夜が廊下の縁に腰かけているかどうか、というところにあっ た。普通、母親に凛辱された直後、淡い恋心を抱きながらその娘と星を見上げて語り合うなど、神経の構造を疑うべきところだが、現実問題、この村の男の神経は本当にどうかしていて、ここのところに一切の負目はない。誓約とはこの村では飯を食うほど日常的当たり前の行為であり、羞恥の対象ではないのである。
夕刻、桃龍からの誘いがあった。
畑作業を終えて準備をしたが、約束の時間まではまだ少しあったので、先に夕食にしようとパンプキンバーに入った。客が多い。それもそのはずで、今夜は南極亭常夏の高座の日であった。
カウンターで豆腐ステーキのプレートを喰っていると、背中のほうから出囃子が聞こえてきた。春道はプレートを持ち上げて丸椅子を半回転し、舞台のほうに体を向けながらソースの染みた玄米を掻き込んだ。
常夏が舞台に出て来て持ってきた座布団を置き、柱のようにまっすぐとした姿勢のまま膝を曲げて正座すると深く頭を下げ、「えー、たくさんのお運び、ありがとうございます」と始まった。演目は「佐野川市松」だった。女形の役者が、旅の途中の山中で泊めてもらった家の娘と母を、自分が男であることを隠して抱いてしまい、翌日、麓まで送ってくれた亭主にも抱かれてしまうという話である。
落語を聞きながら、ふと桃龍の亭主で碧小夜の父親は誰なのであろうかと考えた。
高天の宮で産まれ育った子供は幾人かいる。しかし、父親が誰であるのか、わからないし気にする人間もいない。単なる村の子供である。皆で適当に育てるが、かといって誰も責任は持たない。男も女も、愛情という概念が欠落している。いや、あえて愛情という感情を無視していると言ったほうが適格である。
高座が終わると拍手喝采、やがて観客は各々立ち上がり、帰って行く者、別の席に移動して飲食するものなどてんでに散らばって行く。
春道も約束の刻限が迫っていた為、その場を去ろうと準備していると、「少し時間をもらえますか」と声を掛けてくる者があった。振り向くとそれは今まで舞台でしゃべくっていた着流し姿の南極亭常夏である。
職業柄、舞台では雄弁かつ滑稽に流々話を語るこの男であるが、平素は寡黙で、他者と雑談している姿を見ることは少ない。演目が終わった後も、バーに居残ることはない。
他の村民に比べて、村にいる時間も少ない。というのも彼は生活は一風変わっていて、夢南瓜の営業に出ることはなく、その代わり、西京府や近隣の府県へ出張して舞台に立っている。遠方での仕事の時は三、四日、長ければ一週間ほど泊まり込みになることもあり、村には月の半分いるかいないかという程度である。それも誰にも何も告げずに、ふらりといなくなっては、忘れた頃に戻って来て、バーの舞台でしゃべっている。で、高座が終わるとさっさと立ち去る。
だから普段は春道と会話する機会もあまりないので、不意に声を掛けられたことに驚い て、これは尋常なことでは無かろうと思い、彼はその場に座り直すことを余儀なくされた。
話は逸れるが、彼もそこはちゃっかりしていて、ひとりの宮女の筆頭氏子という立場にある。主人は悪塔子という若い宮女で、彼女が村に来た時期は、犬若がいなくなった頃だった。悪党子が、いったいどんな環境で育ってきたのかは謎である。外界から来たわりには世の中の事が良く分かっていないような節であり、精神的な問題があるようにも思えた。髪を溶くこともせず、化粧も半端、廊下ですれ違う時でも春道の存在などどこ吹く風で、浴衣の帯も片端をだらりと床に引きずりながら去って行くような娘である。
話をしても支離滅裂である。
「今日は寒いな」と声を掛けると、「暖かい南の島で白人さんと大根を齧った夢を見た」と言う。「今日はいい着物を着ているな」と言うと「お宮様が美味しい葡萄を食べさせてくれるから、朝顔の浴衣を着ることにしたの」と答える。しかし、着ているのは薄いピンクのワンピースであったりする。
そんな悪塔子が南極亭常夏を氏子に従えたとなった時、村中の者たちが首を捻った。どのような経緯でそうなったのか、誰も想像がつかない。はっきり言って自意識があるのかどうかも怪しい娘とこちらもまるで野良猫のように勝手気ままで、考えが判然としない落語家がどのように結びついたのか、いつどのような接点があってそうなったのか、誰にもわからなかった。
話を戻す。
南極亭常夏は一通の手紙を春道に差し出した。常夏は無言のまま、とにかく読んでくれ、というような眼差しで春道に向かって頷いた。
春道は手紙に目を落として黙読し始めたが、読み進むに連れてその尋常ならぬ内容に理解が及ばなくなってきた。彼は読んでは戻り、読んでは戻りして、ようやく最後の行までたどり着いた時には目が眩んだような気分になった。
「昨夜、西京府での営業の帰り道にこの手紙を渡されました。観光協会の男でした」
「気味の悪い目つきをした色白で長身の男だったか?」
「はい、まさに」
末尾に記された名前と合致する。
観光協会青年部 高山紫紺
そうあった。
「しかし、何故これを俺に?」
「余計な輩の目に触れさせず、単刀直入に大宮様へ伝えるのか懸命かと。そうするにはまず氏子筆頭であるあなたを通すのが最短の方法」
「正解だ。一緒に大宮様のところへ来てくれ」
春道が言うと常夏は「わかりました」静かに言って立ち上がった。
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