解けてしまったあの日
碧小夜とは長い間、会話をしていない。
三年前の事件の前夜、春道は犬若が正式に彼女の氏子に認められたことを知った。そして自分は桃龍の氏子となるよう言い渡された。
そのことを桃龍自らに告げられた後、彼女の部屋を出ると、今夜と同じように花の香のする風が吹いていたのを覚えている。
廊下を歩いて行くと、蝋燭の光に照らさながら、薄いピンクのワンピースを着た碧小夜が歩いてきた。あの頃、彼女はワンピースが好きで、毎日のようにパステルカラーの色違いのものを着ていた。
小さな笑みを浮かべながら、何かたわいもないことを話しかけて来たような、うっすらとした記憶がある。今思えばその時、彼女はまだ、彼が桃龍の氏子となることを、知らされていなかったのかもしれない。春道は彼女の言葉に返すこともせずにすれ違い、その場を去った。故意にそうしたのか、あるいは何もできなかったのか、今は判然としないが、以来今日まで彼女との間に分厚く冷たい壁で隔てられたような距離ができた。恨み合っているわけではないのは互いがわかっているし、何か漠然としてどうしようもない負い目を感じ合っているのも分っている。しかし、時間が経てば経つほど、その壁は硬くなり、高くなって、砕くに容易ではなくなってゆく。
翌日は朝から雨が降っていた。
昼を過ぎた頃、村のゲートに祭具を置き、周りに村人たちが集まった。中心には真新しい作務衣を纏い、頭巾を被った犬若がいて、額に南瓜の葉をあてて目を閉じている。やがてその葉を額から離すと村人から拍手や「頑張ってこいよ!」といった歓声が上がった。彼は売り物の入ったバッグを背負い、手を振りながら葦原京の方へ道を下って行った。そういえばその時、彼の目付け役として同行したのは獏爺だった。
春道は犬若の背中を、皆から少し下がったところから見送った。
―俺はこれから、今までのように、あいつを受け入れられるのだろうか。今、頭上や体の奥底にありながらもありありと見える、黒々と渦巻く嫉妬心を現さぬまま、この村で生活することができようか。大通りの向う、視界に捉えられる高天の宮という場所で、夜毎犬若と碧小夜が、痴情の舞に耽るのを、俺は日常と認められるのか―
今夜、仕事から戻った犬若は高天の宮へ行くのだろう。そうして、碧小夜との初夜を迎える。
春道は炎に包まれたような感覚で、その日を過ごした。このまま灰も残らぬまでに焼けつくして無くなってしまいたいとさえ考えた。
日が暮れた。
そろそろ犬若が戻ってくる。
春道はパンプキンバーで初めて、夢南瓜を口にした。頭の中が煙で充満したようになり、尻が椅子に埋め込まれてゆくような感覚。目の前の柱時計の針が逆回転しているようにも見えた。本当に時が戻ってくれないか。三人で小唄を唄っていたあの頃まで。春道は南瓜の煮物や南瓜ライスに南瓜スープを暴食し、ドリンクを三杯ほど飲んだところまでは覚えている。
気が付くと、春道はベッドで寝ていた。彼の住処である。すでにお日様が上っていた。
外へ出た後、西院熊二郎からバーでぶっ倒れてそのまま住処に運び込まれたことを聞いた。初めて南瓜を味わう人間には珍しいことではないが、やはりそれとは別に、彼自身知らぬ間に現実からの逃避を測ったのだろう。
通りの北に高天の宮が見える。
(犬若はまだ、朝寝をしているのだろうな)
そう思いながら住処へ戻り、ベッドに潜り込んだ。眠ってしまいたかったが、眠れなかった。
何度も唸りながら寝返りをうったり、唐突に半身を起こしてまた、バタンと仰向けになるようなことを繰り返した。果ては枕に口を押し付けて大声で喚いてみた。息が続く限り声を出した。くぐもった声が地を這って行く。
そのうち、意識が遠のくような感覚がやってきた。このまま力尽きてもいいと思いながら、馬鹿馬鹿しさに苛まれるまで耐え、ようやく枕から顔を上げて反転すると、朦朧する視界に天井がゆらゆらと揺らめいて見えた。そうしているうちにようやく、さほど心地の良くない浅い眠りについたようだ。
春道が、犬若が戻っていなかった事実を知ったのは、更に一夜を明かしたあとのことだった。
そして今日に至るまで、彼は村には戻っていない。
ふたりの間を隔てる壁を、或は深い海溝のような隔たりを、
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