フーザー事件
続きは16時投稿予定
犬若は隣の部屋の騒がしい物音で目が覚めた。時折聞こえて来る男の声で、「ああ、そういえば今日だったか」と思った。自分で手配しておいたのだから仕方がないが、如何せん、今朝は調子が悪かった。
彼の調子は目覚めた時に自覚する。
良い時はもう少し眠りたいと思う。悪い時は死にたいと思う。
俺はここで何をしているのだろうと、布団の中で考える。今日も一日、この組織に身を置くことになる。さらに明日も明後日も。このループを繰り返していて意味があるのだろう か。俺に生きている価値はどこにあるのか。出口の見えない日常が、調子の悪い日の彼にとっては苦悶の闇の中にいるようで、このまま消滅しまうことが最大の幸福なのではないだろうか、と思う。しかし、今日と言う日は現実として存在している。
仕方なく布団から這い出て廊下に出た。隣の部屋を除くと、大山大和が除湿機を分解しながら喚いていた。
「あの幸村っちゅう男の体はどうなっとるんじゃ。発汗作用の病気と違うか!まるで雑巾みたいな奴じゃ!見てみい、吉田くん。真っ黒な水が溜まっとる。ああ、臭い!おえっ!」
「静かに仕事はできないものですか」
犬若が嫌味たっぷりに言うと、大山が可愛げのある大きな瞳を向けて来た。
「何ちゅう理不尽な言い種じゃ、お前に呼ばれて来たんじゃろう!」
「私は呼べと言われたから呼んだだけです。本当は来てほしいなんて思っちゃいない」
「見たか、島田くん。こいつがさっき言うた犬若じゃ。しかも見たところ今日はどちらかというと悪いほうじゃ。近づくと殺されるぞ」
「何を訳のわかならないことを」
犬若は大山の脇でぽかんとしている若い学生風の男に会釈すると、彼も少し照れたような顔でお辞儀した。
犬若はふらふらと洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗い、歯磨きをしていると、庭のほうから賑やかな子供の声が聞こえて来た。
歯ブラシを咥えながら、庭のほうに行くと、近所の子供らと一緒に、守が紙飛行機を飛ばしていた。その向こうで小さく背中を丸め、ぬれ縁を机代わりにして、紙飛行機を折っている有沢の姿が見える。彼に気づいた有沢は一瞬、折り紙を折る手を止めたが、気にせぬ素振りでまた手を動かし始めた。
葦原京今昔祭の一件依頼、ふたりが落ち着いて顔を合わせるのは初めてだった。
まだ、意地の欠片が火の粉のようにくすぶっている。だが、少し時間が経ったせいか、互いに得も言われぬ恥ずかしさのようなものも芽生えていて、非常に気持ちが悪かった。かといっていそいそと立ち去るのも、逃げるような恰好になるので嫌だ。
「守もここに慣れてきたようで」犬若が、よかったですね、と声をかけると有沢はぶっきら棒に「ああ」と返事し、また子供の声だけが辺りを包む。犬若は更に激しく手を動かし た。口が聞けぬほど歯磨き粉の泡が溢れ出てくる。
ふいに顔を上げた有沢は、作り上げた飛行機を掴んだ手を空に向かって翳すと、片目を瞑って三転ほど眺め、小さく頷きながら駆け寄ってきた守に渡した。守はそれを小さな手に持って、嬉しそうに他の子どもたちのほうへ駆けて行った。
平素、こうやって会館にいる時、有沢はむしろ寡黙であった。洛中で何事にも傍若無人に振る舞い、民衆の注目を集める派手な行動をとる男とは打って変わり、一組織の首領として非の付け所の無い佇まいでいる。犬若にはそれが、普段は演じている有沢獅子という男の姿から解放された本来の姿であるように思えた。
守が会館に住むようになって半年が経つ。
去年の秋の日にこの庭で、今日のように犬若が歯ブラシを加えながら行くと、有沢が幼児を抱いて立っていた。幼児はまるで何日もジャングルを彷徨って来たかのようにぐっすりと眠っている。それが守であった。
子供を抱く有沢という光景は、あまりにも不自然で可笑しかった。
「何ですか、その子は?」
訊ねる犬若に有沢は「ああ」とだけ返事したまま、熟した柿の生った木を見あげていた。
守の細い腕に、丸い青痣があったのを覚えている。
西京府の議会から有沢獅子に対して謹慎が言い渡されたのはそれから間もなくのことだった。
犬若は井戸の水をくみ上げ、口を濯いだ。
そこへ守がやって来て、自分も水を飲みたいとしがみつくので、柄杓を渡してやると、嬉しそうに口を付けた。水を飲むことよりも、柄杓を使いたかったのだろう。何度も何度も、汲み直しをせがんでくる。やがて有沢に、「いいかげんにしろ」と注意され、守はわっと泣き出した。有沢は面倒くさそうに歩み寄ってきて、守を抱き上げ、ぬれ縁に腰かけた。
何でも卒なくこなす有沢とはいえ、子供まで馴れた感じで扱うので、犬若は感心した。
しかし。
葦原京市街から聞こえてくる有沢の動向は、庭で守を抱いている人間とは、まるで別人のように苛烈だった。大きな事件が起こったのはその数日後である。
スマートフォンの画面を見た高山が、それを幸村に押し付けた。
「有沢さんがまたやっている。東谷神社の近くのフーザービルだ。厄介なところに手を出したな」
二人は法被を着こんで会館を飛び出す。犬若も後から続いた。しかし、この日も彼は調子が悪かった。しばらくは部員たちに紛れて駆けていたが、幸村らの背が小さくなるに連れて足取りが重くなり、とうとうあ歩き始めてしまった。結局、通りかかったトロリーバスに乗り込んで後を追う。
現場は、東谷神社前の東京極通りを少し南に下ったところにある、フーザーという建築デザインと施工を生業とする会社のビルであった。まだ真新しいそのビルは明るい紫色と黄色が混じった外壁の、好みの別れるタイプの建築物だ。
犬若が人混みの中からビルの入り口に分け入って行くと、幸村派と関東派、それに西京府の警察とフーザーの社員と見られる人間たちがごった煮のように入り乱れていた。
幸村が木村刑事と問答しているのが見えた。
その脇で高山が有沢と何かを言い合っている。フーザーの社員と見られる輩や警官らは各々、言葉にならない事を叫びながら建物を出たり入ったりしている。そんな怒声に交じって建物の中からはガラスが割れる音や、ハンマーが何かを叩き付ける音が頻繁に聞こえた。
「有沢っちゅう男はやっぱり滅茶苦茶な奴やで。見たか、真田くん」
犬若の傍にいつの間にか、大山大和があの日一緒にいた学生と立っていた。
「大山さん、何があったんですか?」
「まるで他人事じゃなあ、お前とことボスが全ての原因じゃ。有沢の奴が急にビルに押し入ったかと思うと、暫くしたら打ちこわしを始めたそうじゃ。しかし、この会社はアレじゃ ろ?議会と癒着して利権を貪っているという噂の設計会社じゃろ。葦原ワースポの会場建設にも仰山関わってるっちゅうさかい、ちとマズいんとちゃうか?」
「私は難しいことはよくわかりません」
「お前は止めに行かんでええのか?」
「幸村さんが止めろと言うなら止めに行きますよ。有沢さんがやれと言うならやります。私は指示に従うまでです」
大山は何か言おうとしたが、溜息のような息を鼻から漏らして、そのまま黙った。
その時、不意に、背後から人々の、悲鳴を超えた絶叫が聞こえたかと思うと、クラクションを鳴らしながらトロリーバスが近づいて来た。バスは一旦、速度を緩めると、野次馬が道を開けるのを確認して、アクセルを吹かし、そのままフーザービルの玄関に突っ込んだ。砕けたガラスが更に砕け、バスは噴煙の中、半分建物に突っ込んだ形で止まった。
あまりの事に静まり返る群衆の中、突っ込むすんでのところで、バスの運転席から転げ出して来た鈴方祀が、犬若の足元から満足そうな笑みを浮かべながら立ち上がった。
それが合図だったかのように、有沢獅子が「引き上げだ!」と叫ぶと、ビルから大槌や金属バットなどを持った関東派の面々が出て来て、口々に何やら悪態を叫びながら、有沢の後に続いて去って行った。
騒ぎの後、会館へ戻った幸村は腰を下ろす間も無く、ばたばたと支度を整えると、高山紫紺およびふたりの平部員を伴い、西京府へ向かった。早速、議会から呼び出しがかかったのだ。
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