古都のアイドル
観光協会青年部とは、語るにはほどほどに遠い昔まで遡らなければならない。
当時、「都」と言えば誰しもが現葦原京界隈を指した。現世を生きる者の先々代、或は先先々代の時代に革命が起こり、古今東西南北老若男女様々な事情が重なって、東に遷都されることになった。関東にある現在の首都である。
ところが、昨日まで帝を奉ずる「都」人だった住民が、今日からここは地方の一都市になりますよ、と言われて、はいそうですか、承知いたしました!と易々と受け入れられるはずもない。
如何せん、千年の都である。
千年分のプライドは、一晩寝ただけで捨てられるものではない。当然、大いに反発し、革命政府に対して更なる革命軍を組織して立ち上がろう、或は、いざとなれば島国のど真ん中で独立国家を樹立しようと、大半の住民が本気で考えた。
困ったのは革命政府である。
ようやく内戦を終息させたばかりで、これから国政に着手しようという最中、間髪入れず歯向かおうと息巻く勢力が現れたのである。首脳陣も軍も体力的には疲弊しきっていて、地方一揆レベルとは言え、鎮圧する余力がもはや無かった。
革命政府は思い切って、この旧都「葦原京」に自治権を与えることにした。政府内の反対を唱える者には、「自治権と言っても自ら国を治めたことのない輩の集まりで、そのうち破たんし、泣きついてくる」と宥めたが、実際のところもはや手の打ちようもなく、半ばやけくそで成立させた革命政府樹立後初めての政策がこれであった。名称も地方行政を中央集権管理下の府と県に一元化する制度に従って「西京府」と名付けた。
が、これがまた、元「都」住民の怒りを蒸し返した。この地は依然として我が国唯一の都である、馬鹿にするのもたいがいにせい!と主張したのだ。
その葦原京の南西に痩せた土地をせっせと耕し、僅かな作物を育てて生計をたてていた萎びた村があった。名称すら現代に伝わっていないようほどの小さな村である。葦原京の民は持て余した西京府という名称を、この村に無理やり擦り付けた。鶏が地を啄み、牛が糞を落としながらモウモウと鳴いている限界集落が「県」よりも規模の大きな「府」と行政区画化されてしまったのだ。そして元「都」は何となく曖昧なまま葦原京の呼称を保ち続けた。厳密に言えば、「西京府葦原京」という住所になる。
その後、国は文明開化の一途をたどり、世界レベルの大戦を経て一度はボロボロになったのち、高度経済成長をとげたが、この葦原京だけは自治権を有したまま独自の保守的進化を遂げた。
とにかく、「葦原京」という「都」としての威厳を未来永劫残してゆこうと人々は躍起になり、あらゆる文明を、特に景観を損ねるものを疎外した。自動車が発明されても乗り入れを許さなかった。鉄道など以ての外、ビルも高さを制限し、瓦屋根にすることを義務付け た。看板の類は派手なものは許さず、煌びやかなネオンの灯りも区画ごとに制限した。
総合病院、大学、警察署など大規模建築物が必要な組織は西京府へ移動させ、果ては都議会および役所までをも西京府に放り投げた。その結果、西京府の方がある意味、現代的な 「都」たる要素を十分に取り入れた国際都市に変貌した。
一方、葦原京は不要要素を西京府へ、まるでゴミのようにどんどん投げ捨て、伝統文化、建築物のみで構成した結果、革命時代の町並みをそのまま残した。やがて、世の中が豊かになり、世界からにわかに注目されはじめると、住人たちの意に関さぬところで葦原京という場所は丸ごと世界遺産に登録され、その木造和風建築物が立ち並ぶ、独特かつ風流で厳か、さらにはノスタルジックで幻想的な街に世界中から観光客が押し寄せるようになった。
当初、この保守的かつ閉鎖的な葦原京が、易々と外部からの観光客受け入れるのか、と心配されたが、当の葦原京民はどこ吹く風で、むしろ経済効果が現れはじめてからは餌に群が池の鯉のごとく客を奪い合い、衣食住あらゆる商売を展開するようになった。
しかし、あまりにも節操が無かった。
市中で観光客が歩いているのを見れば追い回して葦原京饅頭を無理矢理買わせ、「根性」「神風」キーホルダーを法外な値段設定で売りつける。あるいは腹も減っていない客の手を強引に引いて己が飯屋へ引きずり込んでは美味くもない丼を無理矢理喰わせたり、旅館の客間に呼ばれてもいない娼婦を乱入させて金銭を要求したり、果ては物乞いも横行し、みるみる評判を落としていったので、方々からの苦情に対応を迫られた西京府議会は改善を余儀なくされた。
そこで組織されたのが葦原京観光協会である。行政管轄の元、土産物屋から宿、寺社仏閣ポン引きまでもを加盟させ、秩序を乱さぬよう懸賞金や罰金を駆使して、互いを見張り合いながら健全な商売を働きかけた。ところが、そうすると今度は総体的に、収入が不足し始めた。今まで強引な手段で貪っていた暴利分のお金が回らなくなり始めたのである。それだけのことでこのような打撃を受けるということは、よほど強引な手段で、金を巻き上げていたということである。
ここでようやく、観光協会青年部が登場する。
発端は協会会議で、何か更なる観光客誘致の方法が無いかという議論をする中で、今日では陰で「魔女」とか「メデューサ」とか「邪悪な干芋」とか、呼ばれている、当時まだ美人若女将として勇名を馳せた、「亀屋」という旅館の女将が、若い男を使ってはどうかと提案したのが最初であった。
幸い、西京府周辺には革命後から乱立して今に至る大学が多数あり、アルバイトで募集をかけると、大いに集まった。まさにより取り見取りで、亀屋の女将の限りなく独断に近い形で二十人ほどが選ばれた。
選ばれた者は皆、旦那との関係が倦怠期に入ったことで欲求不満な女将の餌食となったとかならないとか、そんな噂もたったが、今となってはどうでもいい。ともかく彼らは洛中の市中警護を行う団体という名目で、道案内から清掃運動、喧嘩の仲裁から観光客との写真撮影に応じるといった活動を行っていた。ほどなくして、紺のジャージに鶯色の法被、頭に白い鉢巻を巻くという、微妙ながらも目立つスタイルのユニフォームで統一。
その目論見通り、観光客は増加した。何せ女将の趣向もあるにせよ、顔で選ばれているから人気は出る。ひと昔前には、葦原京外でもテレビや雑誌にも取り上げられ、全国から彼らを目当てに婦女子が押し寄せた時代もあった。土産物屋には隊員の生写真やプロマイド、サインやバッジ、文房具などなど、グッズも販売されるようになった。
現在、青年部員の数は百人を超える。人数が増えたことによって、よく言えば個性的な面子が揃っている。
女将も悋気失って久しく、欲情対象も若い男から短歌の会で出会うやもめに移り、今ではどちらかというと、そちらの純愛に勤しんでいるようであるが、今はどうでもいい。が、その結果がこれである。部長の幸村が、フェチ好みの毛深いマッチョマンであり、高山も顔は良いが陰気臭い。関東派というと、有沢獅子を筆頭に揃いも揃って人相が悪く、二枚目と言えば犬若他、数えるほどしかいない。
しかし、かといって人気が完全に衰えたわけではなく、むしろ近年の近隣諸国の発展によって外国人観光客が増え、彼らにとってはこの異質な集団は、ある種、独特の魅力があったようで、舞妓や芸妓と並ぶ人気を誇っている。葦原京を訪れたら観光協会青年部と一緒に写真を撮るというのが、ひとつの観光ステータスとされている。
更には国内の人気もにわかに再燃しつつある。むしろ、昔のように顔で客を呼んでいてはすでにこの集団は無かったかもしれない。
幸村らが入隊した頃から、その空気が変わり始め、関東派が幅を利かせるようになってから、活動内容が大幅に変化したのだ。その主たる活動とひとつが夢南瓜の取締である。観光客は、鍛え上げられた鋼のような肉体を持つ彼らが、市街地で聖女無村の透き通るような美しい姿をした売人を追い回し、ねじ伏せる光景を追い求めている。
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