千回転扇飛
毎年、遊郭の演目が始まるのは日が沈む頃で、今年も日が沈むと同時に舞台がライトアップされた。
多くの観客が見守る中、素早く襖と障子のセットが組まれ、数枚の畳が敷かれて、火を入れた行灯が置かれたところに、若旦那風の衣装を着た男が数人、座る。
例年なら春道らがこの役を担うことになっていたが、彼らは有沢らによって退場を余儀なくされたので、代わりに他の演目を担当している葦原京の男どもに入ってもらった。
その中に車夫姿で鉢巻を巻いたままの、大山大和がぎょろきょろとしながら、厭らしそうな笑みを浮かべて座っている。
「なぜあの男が舞台にいるのだ」
幸村が不満げに言うと、高山紫紺は鼻で笑った。
「どうしても出してくれと言って聞かないので出してやった。いいじゃないか、ただ座って手を叩いているだけの役だ。猿にでもできる」
「しかし、あの恰好はないだろう」
「浮いてはいるが、確かに和服を着た車夫だ。当時もあんなのは沢山いただろう。時代的考証に差し支えは無い。仕事帰りの車夫が呑みに来たという設定でいいんじゃねえか?」
「遊郭ってのは金持ちの遊び場だろう?そこにあれはちょっとなあ」
「このご時世、幸村さんは職業差別をするのか?」
「いや、そういう意味じゃねえが」
幸村持ち前の、どうでもいいところで発揮される神経質さが出たなと思い、高山は可笑しかった。
「本当に、変なところにこだわる人だ。まるで暇な爺さんみたいだな」
「もういい、好きにしろ」
幸村は腕組みをして下唇を突き出した。
舞台の上の大山は花魁の登場を今か今かと待ち望んでいた。もっと厳密に言えば碧小夜を待っていた。
「こんな特等席で碧小夜さんの踊りを見られるなんて、儂は幸せ者じゃ」と、こちらも暇な爺さんのようなことを言っている。
ライトが薄暗くなって、行灯に火が灯された。
そして襖が開き、絢爛豪華な衣装に身を包んだ花魁が、扇子を片手に入場して来た。舞台の下から大きな歓声と拍手が湧き、フラッシュの光が一斉に光った。
三味線の音に合わせ、大山が阿呆のように、にやけ顔で口を大きく開けながら、ぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽん、と手拍子している。
多くの宮女が舞台に現れ持ち場に着いた後、いよいよ碧小夜が空色の打掛を着て登場し た。顔も白塗りし、小さな口に淡い朱色の紅をしている。
大山が「うおっ!」と立ち上がろうとしたのを、隣の若旦那役が「こら、立つな!」と制した。
最後に長細いキセルを持った桃龍が登場する。
彼女は深紅の紅を指し、立派な伊達兵庫に誰のものよりも派手な簪を刺していた。襟元は肩が出るまで肌蹴ていて、乳房の上部が見えている。しかし、それが決して下品ではなく、一際妖艶な雰囲気を醸し出しているので、観客も口をあけて見とれるだけで、とうとうフラッシュの光も止んでしまった。
スピーカーから三味線の鳴り響く音に合わせて、花魁たちは舞台中を縦横無尽に舞う。
不意にまた、襖が開き、小柄な和装姿の男が扇子を振りながら入ってきた。見事な舞っぷりである。本当にその時代に生きて、日々、遊郭に通い詰めいた豪商の放蕩息子が舞い込んで踊っているのではないかと思うほどまでに完成されている。
大山が、その男が有沢獅子であるということを認めるまで、いくらかの時間がかかった。
有沢は暫く、花魁に交じって舞台を行ったり来たりしていたが、そのうちおもむろに碧小夜に近づくと、彼女の周りを蝶が舞うがごとく、扇子をはためかせながら回った。
そうして、ふっと彼女の手を取り、まるでふたりで何度も練習を重ねてきたかのように、ぴったりと呼吸を合わせて踊り始めた。碧小夜も自身の体が、有沢の動きに勝手に反応しているかのような感覚に囚われ、当惑したような表情を浮かべている。
ただ、碧小夜はひとつ、自分自身で確信したことがあった。
いくら素晴らしい踊りが完成していたとしても、この男は自分には相容れない。その根本において、求めているものが違う。彼を受け入れる為には、まず、彼がその心に着込んだ漆黒のマントを脱ぎ去らなければならない。
しかし、そのマントは固く結ばれていて、容易に解くことはできないように思えたし、そのことは彼自身も承知の上であろう。あるいは逆に、彼が碧小夜を取り込む為に、彼女の皮を剥ごうとその気になれば、果たして自分は彼に取り込まれてしまうのか。
それは碧小夜にもわからない。
次に有沢は小川に流されるかのような穏やかな動きで、桃龍の元へ寄って行き、碧小夜と同じように、相手をエスコートする。
桃龍はさすがである。
入場して来た時からの余裕を持った表情を変えず、とろけるような視線と笑みを絶やさない。
しかし、内心は穏やかではない。
自らが有沢にコントロールされていることはわかっていた。完全に主導権を握られ、自分は彼の僅かに発する自然な合図に答えているだけで、舞が完成するのである。
彼女は幾度となく、逆に主導権を握り返してやろうとした。
咥えたキセルを有沢の口元へ持って行ったり、不意を取って素早く背後に回ったり、真正面から対峙したりと試行錯誤したが、相手は先手を打ってきて、逆らえば自らがリズムを崩し、大衆の面前で大恥をかくとも限らない。
だが桃龍にも意地があった。
扇を開き、要を三つの指で掴むと、指先を捻りながら放り投げた。
扇が宙をくるくると回転しながら舞った。
あまりの回転の速さに、残像が真っ白く孤を描いて、まるで本物の毬が投げられたかのように見えた。そして落下してきたその毬は吸い込まれるように、彼女の手に収まった。
千回転扇飛。
客席が騒めくと同時に、桃龍は初めて、目を見開き、視線を有沢に投げた。それは、どうだ、言わんばかりの視線ではなく、むしろ驚愕の意味を含んで彼にその意味を問いかけるような視線であった。
こめかみに一線の汗が流れたのが、自分でもわかった。
だが、有沢は閉じた口の端を少し上げただで、涼やかな顔をしている。もはや舞台は彼の結界の内と化していた。
これには袖で見守っていた幸村や高山も驚かされた。
「伊達に遊びまわっているわけでないな」
幸村に至っては感心している。「これだけの観客を沸かせているのだ。観光協会としては見事なまでの御役目達成だ」
「何を甘いことを言っている。ここのところ、有沢のやりたい放題ではないか。しかもこの舞台で奴の名はまた売れる。このままでは青年部を奴らに乗っ取られるぞ。我々も何か手を打たないと」
「よし、俺も行こう」
「踊れるのか、幸村さん」
「いや、だが何とかなるだろう」
「やめておけ。笑いものになるだけだ。万事休してしまうぞ」
その時である。
高山が言っているそばを、ひとりの男がすっと通り過ぎ、ためらうことなく舞台に上がった。
もしよろしければ、ブックマークや評価をお願い申し上げます!