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欲望のカボチャ村と古都の荒くれ観光協会  作者: 源健司
ワールドスポーツフェスティバル葦原京
120/125

無能男、美しき愛の苦悶を捧ぐ

 葦原京の極東では、那智の春道が道すがら乗っ取ったトロリーバスから飛び降り、そのまま聖女無天村へ続く山道を駆けあがった。後に犬若、岡莉菜が続く。運転席から降りた大山大和も後ろを走った。観光協会佐藤派、警官、警備員らの防衛網を突破し、すでに疲弊しきっているが、休んでいる暇はなかった。


 犬若は一言も発しない。このような形であるにせよ、久方ぶりに聖女無天村のゲートを潜る。もう二度と、戻ることはないと思っていた。春道や碧小夜と駆け回った大通り、獏爺に甘えたパンプキンバー、近くて遠い高天の宮。


 ―自分の居場所―


自分が望む居場所が聖女無天村なのか、観光協会青年部なのか、それはわからない。しかし、どちらにせよ、今はその居場所が奪われようとしている。それを阻止する為には、戦うしかない。


 やがてゲートが見えてきた。犬若は飛び込むようにゲートを跨いだ。


 村は妙に静かだ。


「しまった。手遅れか!」


 背中にほとばしる悪寒を感じながら春道の視界に、数人の村人が松明に照らされたパンプキンバーの前にしゃがみ込んでいるのが見えた。何かを覗き込んでいる。

 何事かと、春道が何も言わずに人々を押しのけると、そこには、大きな水たまりほどの夥しい量の血を流した柘植重衛が倒れていた。


「何があった!」


「拳銃で撃たれて、バーの屋根から転落したんだ」


 撃ったのは署長の島田という男だと聞いた。聖女無天村と幸村派が死にもの狂いで防衛し、一進一退の硬直状態に陥ると、痺れを切らした島田が、とうとう銃口を、盾も無い屋根の上で無防備に叫んでいた柘植の向け発砲した。

「それで奴らはどこへ行った!」


 村人のひとりが大通りの北を指さす。


「高天の宮か!」


 四人は北へ向かって全力で走った。

 高天の宮の大門を固めていた警官をまず、岡莉菜が投げ散らかす。そのまま速度を緩めず、靴も脱がずに宮へ入ると、破れた襖の奥の大広間で藤田翔ら幸村派の部員が警官相手に暴れている。そのまま左に折れ、渡り廊下を行くと沢井宗八が庭の池にかかる橋に仁王立ちし、順番に掛かってくる警官をひとりずつ、池に放り込んでいる。

 また、脇にある宮女の部屋からも敵味方が襖をなぎ倒しながら転がり出て来る。


 まず、岡莉菜を大広間から中庭の援軍としてここに残るように命じると、階段状に奥へ行く廊下を進んだ。三つほど曲がると碧小夜の部屋がある。そこで先頭を行っていた春道の脇を、犬若がすり抜け、前へ出た。春道は再び、抜き返そうとはせず、彼の後ろにピタリと着き、三つめの廊下の角を折れた。


「幸村さん!」


 犬若が叫んだ。


 碧小夜の部屋が開かれ、両隣の悪党子の部屋と紅金魚の部屋がぶち抜かれ、宮女たちが奥の隅に一塊になり、頭を下げて震えている。唯一、頭を上げて戦況を凝視する碧小夜を除いては。彼女の表情に犬若は恐怖を感じ、一瞬、足を止めた。笑っているように見えたからだ。この状況を、明らかに大きな興味を抱きながら見つめているのは明らかだった。


 しかし直後、犬若ははっとして、戦況を瞬時に認識した。

 その宮女たちを守るかのようにして立ちはだかる幸村朱鷺と二人の部員が、取り巻く警官と戦っていた。背後から襲い掛かかろうとする警官を、犬若が得意のフランケンシュタイナーで鮮やかに処分し、今度はふたまわりほども大きい警官を立て続けに、軽々と裏投げで投げ、最後は地面を蹴って飛び上がると踵落としで脳天を割った。


 そこへまた、警官が入ってくる。追って来たのではない。逃げて来た。廊下に穴が空かんとするほどの地響きと共に岡莉菜が追い迫り、警官たちは悲鳴を上げながら我先に飛び込んで来た。


 幸村が叫ぶ。


「犬若、奥へ行け!高山に加勢しろ」


「は、はいっ」


 犬若は廊下を出て、更に奥へ行く。春道も後に続こうとした時、そよ風が通りすぎるようにして、さわりと横を抜けた者がいる。淡い空色の浴衣を着た女が、足を摺りながら犬若の後を追う後ろ姿が見えた。


(碧小夜)


 春道は碧小夜の肩を掴んだ。


「どこへ行くつもりだ」


「母上の部屋」


「危ないからここにいろ!」


「離して。行かないと」


「何の為に!いいからここにいろ!」


「嫌よ!放して!」


「何をしとるんじゃ!碧小夜は危ないからここにおれ。ここにいれば岡莉菜が守ってくれる」


 大山はそう言うとさっさと奥へ走って行ってしましった。


「絶対について来るな!」


 春道は最後に釘を刺すと、自分も大山の後を追った。


 中庭の向こうに見えるスタジアムが淡い光を放ち、丸い屋根が浮かんでいる。作戦が上手くいっていれば、今頃はあの中は事後処理に追われているだろう。聖火台の火は鎮火されたであろうか。或は開会式が中断し、櫓が撤去されている頃合いかもしれない。いずれにせよ、天空雨の丞らが逃げられるとは思えず、成功したにせよ、失敗したにせよ、身柄は拘束されているはずだ。さすがに世界中にテレビ中継されている中で、射殺されるようなことはあるまい。


 先は桃龍の部屋に通じている。最後の廊下の角を曲がった。そこでまず、見えたのは入り口を越えて、奥の襖の陰に潜む犬若と、数珠を握りしめて顎をガクガクと震わせる旦国寺猫の坊の姿だった。ふたり共、部屋を伺いながらも足を踏み入れることが出来ずにいる。


「気をつけろ!」


 犬若が叫んだ。まさか、春道自身、彼が自身の身を案じてくれるとは思わず、喜ぶというよりも、一瞬怯んだ。

 猫の坊は「大宮さまあー、大宮さまあー」と叫びながら、青筋を立てている。口元から垂れた涎が床に落ちた。その時、一発の銃声が鳴った。銃弾が直撃した庭の石灯籠から、乾いた音とともに火花が散った。春道は大山と共に、入り口手前の襖の裏に身を潜め、室内を伺った。ちょうど犬若と襖を隔てたところにあるソファーの裏で、裸体に桃龍の絢爛雅な打掛を羽織っただけの高山紫紺が動きを止められている。そして自身がいる襖の向うを覗くと、拳銃を構えた坊主頭の男、その奥に一糸纏わず乳房を露わにした桃龍が目を閉じて正座していた。そのこめかみ辺りにも、斜め上から木村という刑事によって銃口が向けてられている。


「あいつは本気で撃って来るぞ。威嚇では済まん。すでにひとり殺している」


 錯乱した猫の坊の忠告の声に、倒れた柘植重衛が脳裏に蘇った。あれはすでに亡骸だったのだ、と思うと、さすがの薄情な聖女無天村で育った春道にも、悲しみや遣る瀬無さ、屈辱感、無力感と言った感情が、混ざりあいながら湧き上がってきた。


 幸村朱鷺もやって来て、春道のそばに身を隠した。


 春道は単身突入し、自力で島田、木村をねじ伏せ、桃龍を救出しようと逸る無謀な気持ちを、大きな深呼吸をして脳に酸素を巡らせることで、押し留めた。拳銃の前では人間の身体は無力だ。それよりも賢い方法はある。ここはまず、交渉からだと口を開いた。


「あんた等が夢南瓜を根こそぎ持って行こうが、誘拐まがいに宮様たちを連れて行こうが、骨折り損だぞ。今、葦原京はそれどころじゃないからな。ワールドスポーツフェスティバルの開会式会場に俺たちの仲間が乱入して、議会の横暴を全世界に向けて暴露した!今頃はマスコミも殺到しているし、有る事無い事が世界中に発信されている。議会は南瓜だと女なだの、言っている場合じゃない。火消しに奔走しているぞ」


「それは本当か?」今まで萎びた沢庵のように沈んでた幸村の目が、輝きを取り戻した。


「ああ、本当じゃ!これは、儂の作戦じゃ!ワーシの!」


 大山がしてやったりとがははと笑う。


 無論この時、場にいる人物は皆、スタジアムで起こっている騒動の結末がどうなったかは、知らない。櫓がゲートに侵入したところまで見て、村に駆け戻って来たからだ。しかし、客観的に見なくとも、事態は絶対絶命、もしも雨の丞らが失敗したとしたら、スタジアムの警察戦力を更にここへ向けられるかもしれない。今集められる戦力を全て集結させてようやく五分の戦況。これ以上、相手の戦力が増せば、終戦である。そうなる前に、痛み分けでも、事態を終結しなければならない。


 また乾いた銃声がして、皆が一斉に目を閉じ、頭を伏せる。今更、頭を下げたところで、本当に狙われていたならば、銃弾はすでに額を貫いているはずだ。銃弾は、歴史を刻みに刻んで黒ずんだ天井の梁に当たった。


「馬鹿め。国家の威信をかけた大会だぞ。そう易々と不審者が侵入できる警備網だと思ってか。ハッタリかましたところでお前等はもう終わりだ。どれだけの公務の執行を妨害した?全員まとめて死刑だ、死刑!まずは白い服の奴らを片っ端から撃ち殺してやる。元々存在しない奴らなど、いくら殺しても、咎めはない、うわはっはっは!」


 初夏のような湿っぽさが、部屋中を包み込んでいる。ここにいる誰もが、この蒸し風呂のような空間で、気持ちの良くない汗を流しながら、理性を保つことに努力しつつ、混乱した思考を何とか無理矢理に、こめかみ辺りについたレバーを回すかのようにして、回転させた。論破するにせよ、力でねじ伏せるにせよ、多大な時間と体力を消耗するかに思われた。


 その時、皆がひとすじの心地よく吹き込んだそよ風を感じた。本当に、風が吹き入ったのだと思った。それが部屋の真ん中で立ち止まらなければ、人間だということをいつ認識できたか知れない。


「碧小夜、戻れ!」


 春道の叫び声と向けられた銃口の狭間で、碧小夜は腰帯を解くと、真っ白な透けるほど厚みが無く、少し左右に尖るように上がった肩を露わにした。そうして畳にひらめき落ちた淡い紫色の浴衣の上に、片手で掴めそうなほどの華奢な裸体をさらけ出して立った。体形にほどよく不釣り合いな大きな乳房に、正面にいた島田は目を奪われ、引き金にかけた人差し指から力が抜けて行くのが見てとれた。

 全ての意識を彼女に奪われたのは何も島田だけではない。

 ひとりを除いて、ここにいる男は皆、呼吸をするのも忘れたかのように、その美しき形体に心奪われている。まるで金縛りにあったように、時が止まっていた。


 唯一、止まった時の中、この排除し難い誘惑を排した男は犬若である。


 島田の眼前、碧小夜をふわりと飛び越えるようにして降り立った彼は、角度の下がった拳銃を蹴り落とし、島田はそこでようやく「あっ!」と我に返るも、すでに丸腰。犬若の渾身の頭突きを額に喰らって蹲る。


 その時、その背後でも激しい動作が起こった。こちらも意識を碧小夜に奪われた木村刑事の傍らで正座していた桃龍が、いくなり股座に手を入れると何かを引き出し、狙い処が逸れた拳銃を握る腕を掴む。

 パンッと銃声がして畳に硝煙が上がった時、桃龍のもう片方の腕に握られた注射器が彼の腕に打ち込まれていた。木村は「はえっ!」と驚愕、ショック、絶望、怒り、悲しみといった感情が複雑に入り乱れた何とも言えない声を発したまま、なだれ込んで来た幸村朱鷺のラリアットを喰らってひっくり返った。


「何てことをしやがる、高山よ。お前の仕込みだろ!」


 幸村は油を被ったように汗でテカらせた顔に、邪悪な笑顔を作って叫んだ。


「ああ、打合せ通りだよ」


「全く、どんな格好で打合せたか知らねえぜ」


「体と体の打合せか!」嫉妬に狂って数珠を噛みながらむせび泣く旦国寺猫の坊の横で、大山が笑った。


「しかしまあ、何というか、ええものも見れたし」


 ほうっとした顔で、横眼で見た時、碧小夜はすでに何事もなかったかのように浴衣を羽織り直している。その碧小夜の様子が気に入らない男がいた。


 何を大団円でめでたしめでたし、みたいになっていやがる、と、ひとり心情穏やかでないのは那智の春道だ。

 碧小夜の裸体をタダで拝謁された挙句、当の本人も恥じらう様子もない。いつからそんなに淫乱な女になったのだと、惚れた自分にも情けなさを感じた。

 

 それに何より重大なのは、己はこの形成を大逆転した刹那に、この場を一歩も動いていないという事実だ。


 裸体をさらけ出して男どもの視線を引きつけた碧小夜、それに惹かれることなく息を合わせたように呼応した犬若、桃龍は木村に致命傷を与え、その策を授けた高山、トドメを刺した幸村、そして一本締めでもしてこの場を締めようという勢いの大山に泣き喚く猫の坊、この場で空気となっていたのは己ひとりである。情けない。


 なるほど、碧小夜に袖にされた理由もわかるような気がした。

プライドばかり高くて、どこかで恰好をつけようとしているばかりで、別段、容姿も平凡で、超人的な身体能力も無く、単細胞で単純馬鹿にもなり切れない隠れドスケベなど、碧小夜の眼中に入っていないのだろう。


 春道が自己嫌悪に苛まれている中、廊下からどたどたと無数の足音が押し寄せたかと思うと、ボロボロになった数人の警官が雪崩れ込んできて、倒れた島田と木村を認めると、「あっ」と言って身構えた。ひとりは廊下に駆け出ると大声で援軍を呼んだ。


 すると、大勢の警官がぞわぞわと集まってきて、とうとう渡り廊下に溢れ始めた。それがスタジアム方面から新たに投入された援軍だとわかったのは、観光協会佐藤派がその中に交じっていたからだ。これだけの人数を相手にしては、さすがの岡莉菜や沢井でも遮ることはできなかった。


「貴様ら!観光協会の本分も忘れたか‼恥を知れ!」


 幸村の怒鳴り声が、宮中に響いた。


「あなたの本分は南瓜の殲滅でしょう、幸村さん。今、誰を守ろうと戦っているか、顧みてから言ったらどうです?」


 犬若に殴られ頬を腫らせた佐藤果花が勝ち誇ったように言う。


「佐藤よ、お前は最初からこのつもりだったのか」


「言ったはずですよ。私は夢南瓜が葦原京にとって有益ならば、活用も否定しないと。それを承知で私の入隊を認めたのでは?観光協会の本分は、葦原京の活性化。夢南瓜が葦原京の経済を潤すならば、流通を促進するのが観光協会の本分でしょう?」


「そんな汚水で潤った街など、何の魅力もない!規律正しい秩序と伝統を保った美しさがあれば、自ずと街は潤うのだ」


 怒りに任せて論戦に挑んだ幸村は、熱くなるほど彼らしくもなく流暢になった。


「もういいです。まるで子供と話をしているようだ。状況を見てください。時間の無駄なので、言いたいことは後でゆっくり聞きますよ」


 そう言って佐藤が右手を上げると同時に、警官や佐藤派が突撃姿勢を取った時、「お待ちなさい!」という桃龍の声に、今にもぶつかり合おうという両軍とも、踏み出そうとする踵を押し留めた。


 桃龍は裸体に乳頭が隠れる程度に深紅の打掛を羽織った姿で、素足のまま仰向けになった木村の顔を踏み付け、彼の胸に銃口を向けていた。吹き入る風に、長い黒髪と打掛がなびいている。その姿はこれから天罰を下そうかとする荒ぶる女神のようだ。


「お前たち、この場を何と心得る!」


「大宮様はじめ、宮女様が住み給う聖なる宮殿、高天の宮なり!」


 威風堂々と宣言する旦国寺猫の坊に「違う!」と桃龍は一喝した。猫の坊は「はっ?」と言って口を開けた。


「この宮はいにしえより、真の高天の宮、聖高天原への入り口にして、外界からの守護を仰せつかる外宮だ。いくら聖女無天村を制圧したとて、思い通りになると思うな」


 「仰せの意味がわかりませんが?」佐藤が問い返した。


「この外宮を乗っ取っても、お前たちは夢南瓜を手に入れることはできないということだ」


「そんなこの場凌ぎの言い分など信じるわけはないでしょう。もはやこの地は西京府の土地の一部、あなた方は不法占拠しているに過ぎないのです。大人しくしていれば生活は安堵するつもりでしたが、こうなってはもう強制的に立ち退いてもらうしかない。なに、すぐに戻れますよ、この土地には。夢南瓜栽培の労働力としてね」


「ここで夢南瓜は育たない」


「はっ?」


「残念だったわね」


 「黙れ!」と佐藤が凄んだ瞬間、「碧小夜!」という春道の叫び声と共に銃声が鳴り、現場はにわかに騒然となった。


 部屋の中央にいた碧小夜は奥の隅まで飛んで倒れていた。犬若が言葉にならない声を上げて駆け寄り、彼女を抱え上げて傷口を探した。しかし、どこにも撃たれた後は無い。ともかく、僅かに胸を撫で下ろしたのも束の間、碧小夜がぼうっとした表情のまま、大きな瞳を先ほどまで自分が立っていた部屋の真ん中に向け「春くん・・」と呟いた。「那智っ!あほっだらあ!!」という大山の声も聞こえた。犬若は彼女の視線と大山の声のほうを見た。そこには夥しい血の池の中で蹲る、春道の姿があった。


「ぐおおおおおおおお!」と叫んだ犬若は、硝煙を吹き上げた拳銃を春道のほうに向けたまま、薄気味悪く笑っている島田の首に飛びかかり、そのままなぎ倒したかと思うと、馬乗りになって顔面を殴りつけ、そのまま両手で首を絞める。島田は目を見開いてべえと舌を出し、剃り上げた頭に無数の血管を浮き上がらせながら足掻いた。


 絶対、殺す!


 犬若は心に決めた。微塵の躊躇いも無く、決定した。


 幸村、大山、それに踏み込んで来た警官によって、体を引きはがされても尚、島田に手を伸ばし、殺す!殺す!殺す!と念仏のように唱えた。顔中の、目、鼻、耳、口、全ての毛穴から血を吹き出さんばかりに真っ赤になり、悪鬼の形相で執着した。


 岡莉菜が飛び込んで来る。沢井宗八も続いた。藤田翔は佐藤果花を殴り付けた。再び乱戦となり、いよいよ他の警官らも警棒を捨て、拳銃を握って威嚇射撃を始めた。


 碧小夜は、その混沌とした部屋の真ん中へ這って行った。赤い水たまりがキラキラと輝いていて、その中に作務衣を赤く染めた身体が横たわっている。彼女は自ら進んでその水たまりに飛び込んだ。そうして前へ前へと進んで行くと、水たまりは大きな赤い海のように大きくなり、やがて、首まで浸かっているような感覚になった。赤い水平線に、春道の身体が浮かんでいる。彼の元にたどり着くまで、長い時間が経ったように感じた。そして、彼の体に触れた時、何かが決壊して赤い水が引いて行き、自分の身体も畳の上に露わになった。


 春道の首の側面に開いた穴から、壊れた水道のように、血がごぼっと噴き出したり、だらりと垂れ流れたりしていた。それは彼の呼吸に合わせるようにして、緩急つきながら流れている。


 春道は夥しい量の汗を顔から垂れ流しながら、うっすらと目を開けた。その目がぼんやりと碧小夜の表情を捉えた。優しい微笑に包まれた、美しい顔だった。声を出そうとした。最後に想いを伝えたかった。だが、撃たれた場所が悪かった。声を出すことはおろか、呼吸も出来なかった。しかし、碧小夜がまるで暖かな毛布のように、包み込んでくれている。それだけで不思議と何の苦しみも感じなった。


 碧小夜は青ざめて小刻みに震えている春道が無性に愛おしかった。彼の血と汗が混じってドロドロになった顔を何度も撫でた。撫でる度に、春道から腹を撫でられる猫のような快感と喜びが伝わってくるように感じた。もっと、もっと、と何度も求められている。欲しいならいくらでもあげる。永遠にこうしていたいなら、ずっとそうしてあげる。彼女は彼をもっと喜ばせてあげたいと思った。


「私だけを愛して。私の狂気をあなたひとりで受け止めて」


 ゆっくりと顔を近づけて、唇を吸ってあげた。血の味がした。舌を入れて、口の中を舐めてあげた。その血をごくりと飲んだ。もっと欲しい、この味をもっと堪能したいと思った。美味しいの?美味しくはない。でも気持ちいい味。そう思った。


 春道はそのまま幸せそうな顔をして、死んだ。


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