幹部幹部怪物絶望
最後の取引場所は葦原京でも有数のこの繁華街から北に延びる子猫通りという、人がふたりようやく肩を並べて歩けるほどの小さな小路を、少し上がったところにある猫天神という祠の前であった。
相手は外国人である。ふたりがやって来た時、客たちはすでに待っていた。酔っているのか、大きな声で騒いでいる。
「嫌だな」と言って、雨の丞が顔をしかめながらも、見張り役として上条通と交わる角に立った。
「気をつけろよ、奴がまだ、うろついているかもしれない」
春道が南瓜を持って、売りさばきに行く。
春道の存在に気付くと、酔った客はまた、フォーウ!と声を張り上げたり、ハイタッチをしたりして騒いだ。静かに、素早く、と言っても聞こうともしないで、大声をあげながら、リュックの中の商品を物色し、この生の葉はどうして用いるのだ、この菓子の効果はいかほどか、この場ですぐに酒肴できるお手軽商品はどれか、モーガマンデキナイ!などと英語で色々聞いて来る。
春道は、手軽なのが葉巻きや種、チップスは作用が弱く初心者向け、生は調理か加工を必要とし、ツルは噛みしだいてうんぬんかんぬん、片言の英語で端的に説明した。ここ最近は外人客も多いので馴れたものだ。ある意味、特定分野におけるビジネス英会話をマスターしていると言ってよい。
「おい、早くしろ!」と雨の丞が睨んできたので、春道は繰り返して催促した。
ようやく、商品選定が終わった。春道が電卓を叩いている横で、外国人たちは「ディスイーズ、ヅリームパンポキーン!フォーッ!」と叫びながら、カボチャチップスの袋を天に掲げて叫んでいた。
しかしその時すでに、電卓を叩いていたはずの春道が、疾風のごとく子猫通りを上条通に駆け抜けていた。外人たちは目の前にいた男が突然消えたことで、商品を抱えたままキョトンとしている。眼前、白い残像が僅かに揺らめいていたかと思う間もなく、今度は数個の陰が一瞬にして駆け抜けた。
春道は雨の丞の作務衣の袖を思いっきり掴んで引きつつ、角を曲がって東へ走る。それで雨の丞は全てを理解し、春道に続いて上条通を全力で走った。後を北から南へ軍緑色の法被を着た一団が、獲物を狙う猛獣のように追って行く。うち、ひとりは法被の袖に、白の二本ラインが入っている。幹部の目印だ。
「藤田翔だ!」と、上条通の歩道から若い男の声が上がり、行き交う人々は足を止め、走り去る者たちを目で追った。
春道と雨の丞は上条通と交わる、これもまた大きな甲羅町通りの交差点を一気に駆け抜けた。
その時、運よく南からやってきた三両連結トロリーバスが追っ手との間を遮らなければ、確実に追いつかれ、ひっ捕らえられていただろう。
観光協会はバスが通過するまで暫く待たねばならない。
それでも藤田は諦めず、低い体勢から地面を蹴って、小柄ながらも鍛え上げた、まるで肉団子のような体を空中に浮かせてトロリーバスにしがみつき、屋根に駆け上った。が、その時すでにふたりの聖女無天村民は、向うに流れる清水川を渡る上条大橋の彼方にいた。
藤田翔は舌打ちをしながら屋根の上に胡坐をかいて座り込み、そのまま甲羅町通りを北上して行った。
上条大橋を渡った那智の春道と天空雨の丞は、はあはあと息を切らせながら、路地に身を潜めた。見たところ、藤田が追って来る気配は無かった。
やがて呼吸も落ち着いてきたので、脇の東に延びる、民家が並ぶ細い通りを歩き始めた。このまま行くと東京極通りに交わり、北に東谷神社の石段がある。そこから更に通りを北上し、山中に入ると聖女天村にたどり着くが、まだかなり距離がある。
いくつかの交差点を越えるとやがて、料亭や舞妓、芸妓の置屋が点在する石畳の美しい一角に差し掛かった。そこで再び、春道が雨の丞を押しとどめた。
土塀の陰から覗くと、いくつもの提灯がぶら下がった風流な料亭の前で、観光協会の幹部、沢井宗八が観光客との写真撮影に応じているのが見えた。どこから持って来たのか、模擬刀を振り上げたり、構えたりしながらポーズを取っている。
「今日はツイていないな」春道はそう言いながら、北へ進路を変えて足を踏み出した。
だが、そこに大きな壁があった。こんなところに壁など有るはずがないと思ったらそれは、壁ではなく、とても大きな人間であった。
肌色が異様に黒い為、顔が判然としないが、紺色のジャージに鶯色の法被を着こんでいる。その、まるでヘビー級レスラーを凌ぐほどの大男がふたりの前立ちふさがり、次の瞬間、無言のまま殴りかかってきた。
春道の頬を、男の鉄球のような拳が掠めた。のけ反った春道だが、大男は攻撃を休めず、その胸を押し蹴ってきたので、彼の体は宙を飛び、石畳の路地に転がり出た。
突然、何かが転がってきたのに驚いた観光客の悲鳴によって、沢井宗八が「うん?」と視線をこちらに向ける。
春道はゆっくり立ち上がった。が、まだ呼吸ができずにいる。
「おお!」と、屈託のない、嬉しそうな顔を浮かながらゆっくりと歩み寄って来る沢井に向かって雨の丞が苦し紛れに叫んだ。
「俺たちは何もやってねえぞ!」
沢井は、ははっと笑った。「じゃあその鞄の中身を見せてみろよ。南瓜が入って無ければ通してやる!」
儘ならなかった春道の呼吸がようやく戻った。
「鞄の中は南瓜だが、それがどうした?禁止薬物でもねえんだ。何の問題もない」
後ずさりながら言う春道に沢井は困ったような顔をした。
「合法とか禁止とか関係ねえんだよ。わかるだろ?俺たちが許さねえって言ってるんだから、許せねえんだよ」
観光協会の沢井宗八というとかなりの有名人である。逆立てた髪がトレードマークの、明朗で剽軽な男として、人気がある。その男の捕り物だと聞いて、多くの観光客が集まって来た。沢井は模擬刀をスーツのズボンのベルトに刺して、抜刀の構えを取った。どこまでもサービス精神が旺盛な男である。
「さあ、行くぜ!」と、言ったかと思うと、地面を踏み込み、模擬刀の先端で雨の丞の鳩尾を突いた。
歓声に包まれた路上で、雨の丞は声も出せず、地面を転がる。
沢井がもう一太刀、浴びせようと刀を振り上げたところを横から虚を突いた春道のタックルが入った。彼もまだ、若い。運動神経も悪くない。が、相手が悪い。細身だが、日ごろから鍛錬を行っている沢井に対して、肌艶だけは良いが、モヤシのような春道の貧弱な体では、勝ち目がないのは明らかである。
立ち上がって、間合いを取ったが、もう二度目は無いと思って間違いない。
「大丈夫か?」
よろよろと立ち上がった雨の丞は「大丈夫なもんか」と言いながら咳き込んだ。そこへ突如、脇の群衆を掻き分け、先ほどの大男が濁流のごとく向かって来て、怒号を発しながら片膝をついたまま立ち上がれないでいた雨の丞を持ち上げたかと思うと、力いっぱい投げ飛ばした。
「岡莉菜!テメエ馬鹿野郎!投げてどうするんだ!捕まえるんだよ!」
沢井が叫ぶ中、雨の丞はそのままうまく着地して、よろめきながら北へ向かって走った。その後ろから春道も続く。
すかさず沢井が後を追おうと体制を立て直した時、不意に彼の腕を掴んだ者がいた。
「おう、ちょうどええとこにおった!」
「ちょっとおい、てめえ放せ!」と喚きながらもがく沢井に大山大和はすました顔で言う。
「昼間にお前んとことの犬若から連絡があっての、加湿器を修理してほしいというんじゃが、儂も忙しいての。来週になっても構わんか?」
「いい!来週でいいから放せ!」
首に青筋を立てる沢井だが、大山はなおも放さない。普段から力仕事で鍛えられた大山の握力はなかなかのもので、さすがの沢井でも簡単に抜けられなかった。それどころか、大山はまだ飄々としている。
「代金じゃがな、たかが加湿器の修理だと思わんでくれよ。如何せん、街はずれくんだりまで出張するんじゃ。日当もそれなりに」
「わかったから放せ!払う!協会が払わないなら俺が自腹で払ってやる!」
その言葉をきいて大山が安心したように、はっと手を放すと、勢い余って沢井は前につんのめる形になった。すでに、春道らは彼らの手の届かない遥か彼方を走っている。
「お前のせいで!」と怒り狂う沢井を後目に、大山は何食わぬ顔で反対方法に立ち去りながら、「駄賃は生の南瓜を三玉ってところじゃな」とひとりでうひひっ、と笑った。
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