死に証人
以蔵は、ただ毎日を家族のためだけに生きてきた。
早くに両親を亡くした以蔵にとって、今ある家族というものはかけがえのないものであり、命をかけても守らなくてはならないものでもあった。
年齢も遅くに若い嫁をもらった以蔵には一人息子がいた。
以蔵にとっては遅くにできた子供であるために、目に入れても痛くないほどに愛しく大事に育てた。息子の名前は伊作と名付けた。
男の子の父親でありながらも百姓であった以蔵は、温厚で大人しく物静かな男だった。
どんなに年貢が重くなっても、そのせいで生活が苦しくなったとしても、以蔵は愚痴をこぼすこともなく淡々と毎日田圃へと出向いては米作りをしていた。
一人息子の伊作は、そんな以蔵を冷たい目で見ていた。
米が不作の時でも年貢は納めなくてはならない。村の中には生きていくためにはと、収穫をごまかす者もいたが、以蔵だけは真面目に決められた分の年貢を納めており、そのおかげで以蔵の家の台所事情は、ひどい時には何日も米が食べられない年もあった。
伊作はそんな以蔵を見続けていたためなのか、父親と同じような百姓になりたいとは微塵も思うことはなかった。
伊作は小さい頃からやんちゃな子供で、村一番の暴れん坊だった。母親は伊作が村で問題ばかり起こすことや、あまりにも以蔵との生活が苦しかったことに嫌気がさし、何も言わずに二人が寝静まった夜中に静かに村を出て行った。
両親がすでに亡くなり実家もない妻がどこにいったのかなど、以蔵にも息子の伊作にも見当がつかなかった。
伊作はこのことでひどい衝撃をうけたが、以蔵は妻を探すことはせずに、いつも通り淡々と貧しい百姓を続けていた。
そんな伊作も成長し、偶然にも村を訪れた浪士に惚れ込んでしまい、翌日には浪士と一緒に村を出て行ってしまった。
以蔵は伊作が出て行ってもいつも通り百姓を続けていた。
そんなある日のこと、以蔵の下に役人が訪れた。それは年貢を確認するときに来るような役人ではなく、腰に刀を携えた役人というよりは侍というような男達だった。
男達は田圃で稲を刈っていた以蔵を見つけるなり、すぐに両脇を抑えた。しかし、鎌を持った以蔵は暴れることなくその役人に両脇を抑えられたまま連れていかれてしまった。
以蔵が役人に捕らえられたことは、あっという間に村中に広まったが、村の者たちはなぜ以蔵が捕まったのかわからないままだった。そして、月日は流れて以蔵のことは誰も話さなくなり、以蔵のいた田圃は荒れたまま放置された。
奉行所へと連れていかれた以蔵は、そこで自分の身に何が起こったのかを初めて知った。
一人息子である伊作が、一緒に連れていた浪士達と共に大名を暗殺しようと夜襲を行ったという。しかし肝心の大名には傷の一つもつけられないまま大名の護衛に捕まってしまい、暗殺未遂の実行犯として伊作は捕らえられてしまった。
物静かで大人しいさすがの以蔵も驚いて声を上げた。
こんなことならば、怒鳴りつけてでも伊作が出ていくのを止めるべきだったと思うが、大人しい以蔵にはそれができるわけがなかった。
すでに伊作は捕らえられており、数日後には死刑が執行されるという。以蔵は事件とは無関係でありながらも、主犯格の家族ということで捕らえられてしまい、重刑が言い渡される予定であった。
数日後、伊作の刑が執行されたと役人に言われ、以蔵はひどく落胆し食事も喉を通らなくなっていた。
ただでさえ痩せこけていた以蔵であったが、さらに痩せ果ててしまい、その姿は地に埋まる草の根すら食べ尽くして飢えを凌いでいた大飢饉の時の百姓のような姿になっていた。
そして、以蔵の死刑が執行されることになった。
以蔵は目隠しをされ外に連れ出された。目は見えないために、どこを進んでいるのがわからないが、耳に入る音で河原に近づいているとわかった。水の音が徐々に大きくなっていた。
百姓であった以蔵にとって、水というものは切っても切れない縁であることから、水の音は聞き慣れていた。
水の流れる音を聞きながら、自分の田圃はどうなっているのだろうかとふと思う。自分はこれから処刑される身であるというのに、よくもこんなのんきなことを考えられるなとおかしくなり、心の中で小さく笑った。すでに手塩をかけて育てた田圃に戻れるわけがないことなどわかっていた。
やがて以蔵は背中を木の棒で強く押されその場で正座をさせられ、前かがみになるように頭も強く抑えつけられた。
首のあたりがとても冷たく感じた。
処刑に対して何も知識がないわけではない。以蔵はこの時になって初めて自分は打ち首になるのだと知った。
さらに首を下に向くように抑えられ、うなじの辺りに糸のように細く冷たい金属が触れたのがわかった。
捕らえれた日からさらに痩せ細ったため、突き出ているであろう首の骨にすぅと横に繊細で冷たい感触が走り、さらに鎖骨のあたりに生温かい液体が滑り落ちるのを感じた。それが自分の血であることくらい、百姓である以蔵にもわかった。
この世と別れるのも、もう少しだと思った。以蔵は自分の人生とは何だったのかと今までのことを呪った。
ただ真面目に生きてきただけだった。
早くに家族を失った以蔵にとって、家族というものは自分に幸福を与えてくれるものだとずっと信じていた。しかし、その家族によって自分の人生は不幸にも終わろうとしている。これほどに自分が思い描いていた家族というものに、ひどい憎しみを感じるものなどない。
出来ることならば、ここから逃げ出し新たに妻を娶り、新しい家族を作って素晴らしい人生を送りたかった。しかし、すでに両手を後ろできつく一つに縛られ、両足すら太い縄で一つに縛られている非力な以蔵には、逃げ出すことなどできるわけがなかった。
背中の方から空気を切り裂くような小さな音が聞こえた。それは百姓である以蔵でもわかる、刀が力強く下に降られる音だった。
ここから逃げ出すことができないのならば、次に生まれ変わる時こそは幸せな人生を送りたい。
死ぬ瞬間に思い描いた世界が次の人生になるかもしれないと思った以蔵は、食い物にも家族にも困ることはない、以蔵が考えつくす幸せな人生を頭に思い描いていた。
しかし、その思いは途切れることはなかった。
いくら時間が過ぎても、以蔵の意識が途切れることはなかった。
確かに首の後ろからすり抜けるような刀の冷たい感触もあるし、刀の切り傷から流れ出るであろう生温かい血の感触もある。その血が首筋を流れ落ち瘦せ細った以蔵の鎖骨の窪みにたまるのを感じるが、以蔵は生きていた。
目隠しをされている以蔵は、自分の身に何が起こったのかを理解することが出来なかった。刀が空を切り裂く音も、振り落とされた刀が首を通り抜ける感触も、そしてその切り口から流れる血の生温かさもある。だが、それでも以蔵は生きていた。
確かに自分は首を切り落とされ死んだはずで、処刑は間違いなく行われいるはずだった。しかし、自分を処刑する役人の声も聞こえず、耳に入る音は目の前にある川の音しか聞こえてこない。
以蔵は恐怖を覚えた。もしかしたら、自分はこの世にとり残されてしまったのかと。
再び以蔵は首に冷たい刀が通り抜ける感触を感じ、その切り口から流れ出る血の生温かさを感じた時、そこで初めて以蔵は自分の身に起こっていることを理解した。
自分は死んだというのに、この世に取り残されている。
昔、村に来た寺の住職から、この世に未練があるとあの世に行けないという話を聞いたことがあったのを思い出した。
以蔵は不幸なこの世に未練などなかった。以蔵にとってこの世は地獄以外何ものでもない。まして、処刑が繰り返し行われるのならば、さっさとあの世に連れて行ってほしい。
そう考えている間も、以蔵の処刑は繰り返し行われていた。何度も首を切られ何度も血を流しても、それでも以蔵があの世に行くことはなかった。
そして、何百回とも何千回とも処刑が繰り返されていた時、ふと以蔵の目を隠していた白い布が剥がれ落ちた。その時になって初めて、以蔵は自分の身に何が起こっているかを知った。
以蔵は自分が処刑場でもある河原にいると思っていたが、目の前には以蔵が全く知らない風景が広がっていた。
四角く大きな黒い箱がいつくも繋がっており、ものすごい速さで以蔵の前を通り過ぎていく。その箱にはたくさんの人が乗っており、その箱の先頭の上からは黒い煙がたくさん出ていた。
不思議なのは以蔵の耳に入る音は、全て川の流れる音と刀の空を切り裂く音だけだった。だが、そんなことを気にしてる場合ではなかった。
以蔵は首を動かして辺りを見回した。少し痛みを感じたが、それよりも見たことのない風景の方に夢中になり、無理やり首を横に回すと、そこには川にかかる大きな橋があった。その橋も以蔵が見たことがないほど色鮮やかなもので、その橋を渡る人の姿も以蔵が見たことがない服を着ていた。
痩せ細った者や着物を来た者などいなかった。
女は裾が広がった異様な服を着て歩き、男は見たことのない格好をしている。だが、誰一人として河原で処刑をされている以蔵には気づかない様子だった。
以蔵は自分は死んで成仏することなくこの世に留まっているのだから、誰も気づかないのは当然だと思った。そして、自分はいつまでこの世に留まり続けるのだろうとも思った。
以蔵はそれからもこの河原に留まり続けた。相変わらず処刑は繰り返され続けていたが、ある日ふと横にまで動かしていた首をさらに動かしてみる。すると、不思議なことに以蔵の首はぐるりと真後ろへと周り、自分を処刑する役人の姿を初めて見ることができた。
そこには刀を振り上げた首のない役人がいた。ゆっくりと両手で刀を上げたかと思うと勢いよく振り下ろし、そして再び刀を上げる。
寸分変わらぬ動作を繰り返す首のない役人の着物は返り血で汚れている様子もなく、ただ同じ仕草を延々と続けていた。
その役人の姿を見ても、以蔵は特に驚くことはなかった。
この名前も顔も知らない役人も、この世にいないはずだった。きっと、あの世へとすでに向かっており、今頃は生まれ変わって幸せな人生を送っているのかもしれない。そう思うと、自分を処刑している相手とは言え、以蔵にはあの世へと向かったこの役人が羨ましく思えた。
以蔵はこの後もずっとこの場所で処刑されていた。何千回、何万回とも首に冷たい感触を感じても意識がなくなることもなく、以蔵も変わることはなかった。だが、周囲の風景は変わり続けていた。
ある時は、空からたくさんの燃えた炎のようなもの落ちてきて、河原のずっと奥が真っ赤に燃え上がった。そして、以蔵の近くにある橋を渡ってたくさんの人が逃げてくる様子や、中には橋から川に向かって身を投げる人間も見られた。そして、一晩中燃え続けた後に夜が明けると、明るくなる頃にはたくさんのひどい火傷を負った人間が河原へと来て息絶えて行った。
その中には年端もいかない子供もいいれば、生まれたばかりであろう乳幼児を背負った若い女性もいた。背負っていた乳幼児も息絶えている様子だった。
その様子を見ながら、以蔵は心の中で念仏を唱え続けていた。自分のように苦しみを続けることなく、あの世に行けますようにと。その間も、以蔵の処刑は続けられていた。
そしてその跡は焼け野原となり、何もなくなった場所に再び人が集まりだして家が建てられていき、人々の往来も増えていった。
時々、以蔵の姿が見える者がいるのか、不思議な格好をした人間と目を合わせることが多くなったが、人間は驚く様子を見せるだけで何もしようとはしなかった。
自分はもうこの世の人間ではない。死んであの世に行きそびれた魂であるのだから、生きているこの世の人間には何もできないと思った。
空が真っ赤になるほどに川の向こう側が燃えがったあの日、この川でたくさんの人が死んでいくというのに、自分はただただ首を切られ続けていくだけで、誰も助けることができなかったのだから自然とそう思った。
やがて、河原に沿って美しい桜の苗木が植えられていった。苗木は年を追うごとに成長し、満開の美しい桜の花を咲かせるようになった。
春にでもなれば、綺麗な薄桃色の小さな花を咲かせ、やがては桃色の花弁が川に落ちていく。そして、川は本来の水の色から美しい桜色に染まり下流へと流れていった。
桃色に染まるその川が美しいと以蔵は思った。処刑されてから初めての感情に、自然と涙があふれ膝頭へと落ちて行った。
同じ自分の体からでた体液でありながらも、傷口からあふれて流れ落ちる血の不気味で生温い感触とは違い、目から膝に落ちた涙はとても温かく澄んだ透明で、膝についた汚れを洗い落としてくれているようだった。
処刑の日から以蔵はこの河原にずっといて、目隠しが落ちた日からこの場所の歴史をずっと見続けていた。
歴史の生き証人という言葉があるが、自分はすでに死に絶えながらもこの場所でずっと歴史を見続けてきた。そんな自分は歴史の死に証人とでも言うのだろうかと、そんな言葉が頭をよぎった。
もちろん、処刑は繰り返し行われていたが、今はそれも気にすることもなくなっていた。
「もういいよ、お役人さん」
首もなく同じ動作を繰り返し続けていた役人に以蔵は声をかけた。
首もないのだから自分の声が届いているのかはわからない。しかし、その言葉を発した時、首のあたりに感じていた冷たい刀の感触はなくなった。真後ろを見ると、役人の姿は消えていた。
首を元の位置に戻した。目の前にある川は美しい桜の花びらの色に染まり穏やかに流れていく。
以蔵は空を見上げた。雲一つない青空の向こうに、とても眩しい小さな光が見えた。やがてその光は徐々に大きく、そして眩しくなっていくが、以蔵はその光から目を逸らすことはなかった。
その光の中に、とても懐かしい人の姿が見えるような気がした。
空一面が黄金のように輝き、その中でもさらに美しく輝く光が以蔵を包み込む。すでに手足は自由の身となっており、以蔵は立ち上がるとゆっくりとその光に溶け込むようにして消えていった。




