面影を宿す人
一歩、また一歩と足を前に出す。
ここ数日のキアラは、恋人であった人の逢引き現場に遭遇してしまったせいで心がざわつき、眠りも浅く頭がぼんやりとした状態で、意識して土を踏みしめなければ倒れてしまうのではないかといった具合だ。
国の将来の為に別れることになったけれど、キアラとカイザーは愛し合っていたはずだ。それなのに――と、時間が経つにつれ悲しみ以外の感情が湧き上がって来る。
王が両足を失い戦場に立てなくなると、第一王子と第二王子が出陣し、遅れてカイザーが戦場に立った。
カイザーを守るために与えられたキアラは、共に十年の月日を過ごし、ただの王子と魔力なしではない関係を築いたはずである。
二人の関係を終わらせなければならなくなったのは、戦場で身勝手な我儘を貫いた二人の自業自得。大切な命を失わせた罰だ。
カイザーは、東の大国カラガンダ王国の威を借りるため、王女を正妃として迎え入れるのが決まっている。
大国の王女を妻に迎えるカイザーは、身の回りを綺麗にしておく必要があるからこそ、キアラはカイザーとの関係をあきらめさせられた。
それなのにカイザーはいったい何をやっているのか。
あんな誰にでも見られてしまうような場所で、情事に耽るのはとんでもないことである。
見えなくてもカイザーの側には護衛の騎士が必ずいるのだし、城勤めだってうろついているのだ。
キアラは魔力なしの特性をいかして、不要な魔法を無効にする役目を担い、必要な仕掛けが記された地図を片手にそれを避けながら、庭園や滅多に人が行かないような場所をうろついているのである。
カイザーとてそれを知っているはずなのだ。
知られる危険を考えていないのか、もしくは考えるに値する存在でもないというのだろうか。
「あんなのカイザー様じゃないわ」
子供のころに戦場に立たされたカイザーは、自分の能力や立場をよく理解していた。
共に戦う騎士や魔法使いに対して身分を問わず敬意を払い、払われる彼らはそれ以上の敬意をカイザーに返して仕えていたのだ。
キアラを守る護衛騎士には、最も信頼の置ける実力のある騎士を指名し、その何人かは命を落としているが、彼らの遺族にもカイザー自ら手紙をしたため、働きを湛えて哀悼の意を示した。
王子である人がするべき事ではないが、カイザーは共に命をかける人々を同じ立場の人間として扱い、己に足りない部分を補う者には、躊躇なく頭を下げる人だった。
そんなカイザーが公ともいえる場所で、若い娘と戯れるなんて誰が想像できただろうか。
大国から妻を迎えるのに、噂が広まっては悪い印象を与えてしまう。庭園の東屋で戯れるなど、誰にも隠すつもりのない気持ちのあらわれだ。カラガンダの王女が知れば深い溝が生まれてしまうかもしれない。
あんな人ではなかった、絶対に見間違いだとひたすら前に突き進むキアラの腕が不意に引かれる。
「あっ!?」
「おっと、私だ」
突然腕を掴まれ、逃れようと相手に向かって足が出てしまう。
身を守るために体が勝手に動いたが、ここが城であるのを思い出し、慌てて距離を取った。
「申し訳ございません!」
さっと身を引くと、膝をついて首を垂れる。
ここは戦場ではない。この城で魔力なしに危害を加える人間はいないのだ。しかもキアラは相手を確認せずとも声だけでラシードだと分かり、不敬を深く詫びる。
「顔を上げろ、不用意に触れた私が悪かったのだ。魔力なしなのだから、人から触れられるのには慣れていないだろう。なのに不意に腕を掴んだ私の責任だ」
魔力なしに触れる者などいない。
身に着けている魔法が壊れないよう、護衛騎士ですら戦いの最中で必要に駆られなければ触れないのだ。
キアラに何の思惑も戸惑いもなく触れてくれるのはカイザーだけだったと思い出すと同時に、彼が貴族娘と絡み合う姿が蘇り、逃れるようにきつく目を閉じた。
「キアラ、私に膝をつくなと何度も言っているだろう。戦場で命を預けた相手に、正式な場所以外で過剰な礼を取られるのは好きではない」
「――申し訳ございません」
キアラにとってラシードは第二王子であると同時に、ヴァルヴェギア王国騎士団を預かるとても高い位置にいる人だ。
許されても気軽な態度を示せるようになるのは難しい。
謝罪すると溜息を吐かれてしまう。
キアラは迷いながら、ゆっくりと立ち上がって顔をあげた。
真っ先に目に飛び込んだのはカイザーと同じ翡翠色の瞳だ。
母親を違えても兄弟ゆえか、同じ輝きを宿した色を目にする度にカイザーを想う。
金髪だったカイザーと異なり、ラシードの髪は明るめの茶色で、意識を反らそうとキアラは、少し癖のあるラシードの前髪に視線を向けた。
ラシードを前にすると、いつもカイザーを思いだし重ねてしまいそうになる。
生まれも、身分も立場も、何もかもが異なる人だ。カイザーの恋人になれたのは夢のような出来事だった。辛い場所に身を置いた中の幸運だったと思うしかない。
けれど、別れても気持ちがなくなってしまうわけではなかった。
他の娘と戯れ、蔑みの言葉を向けられても、カイザーに恋する気持ちは今も続いている。
悲しいのは、戯れの相手にもしてもらえないことだろうか。
愚かと言われようと、キアラは今もカイザーが好きだった。