期間限定の恋
エルフの寿命は長い。
ユリンにセオドリクの気持ちが伝わらなかったとしても、彼は再び新しい恋をするのだろう。
敵わぬ恋に七十年苦しんでも、エルフである彼には再び恋する時間が十分残されている。
そう思いながら、キアラが顔をあげた先には沢山の人がいた。
騎士や兵士、従軍する彼らの面倒を見る見習いの少年はまだまだ子供だ。
フィスローズとの戦いは決着したはずなのに、国境はくすぶり続け、だからこその出陣となった。
同じように戦場に立つ人たちの中には、この任務を最後と決めている者もいるだろう。
ヴァルヴェギアは多くの国に狙われているが、間もなく大国カラガンダより王女が輿入れしてくる。それにより情勢は良くなっていくはずなのだ。
沢山の人間が命を落とす戦いもなくなるはずだ。
そうなれば、キアラが目に止める人たちは戦場から離れ、安全な任務に就いて、毎日家族のもとに帰ることが出来るようになる。
けれどキアラが生きるために用意されているのは戦場だ。
戦争がなくなっても、ヴァルヴェギアを守るために危険な場所へ向かわされて死ぬ定めにあった。
生き残って天寿を全うした魔力なしなどどこにも存在しないし、キアラには悲しんでくれる家族もいない。
生まれると親から引き離され、接触を持たれないために名前すら変えられてしまうのだ。
魔力なしは邪魔にされても貴重ゆえに戦場では重宝される。国の「物」として、家族から引き離されて生きていくしかない。
過去には一度離れた家族が迎えに来て、別の国に売るという事件が起きたのをきっかけに、魔力なしとその家族は完全に引き離されるように決められていた。
キアラ=シュトーレンとの名は、育ててくれた施設で与えられたもので、生まれた時に与えられた名ではない。
手放すのは決定なので、情を持たないために名前を付けられなかったかもしれない。
キアラを生んでくれた母親や家族など、身元を特定するような情報は何一つ与えられず、漏洩を案じて記録にすら残されていないのだ。
それが魔力なしの普通だった。
「セオドリクさんは、とても幸せそうですね」
「それはそうだよ、ユリンがいるからね。恋する彼女の前では何があってもとても幸せだ。君だってあの王子と恋仲だったときは幸せだっただろう?」
「そう、ですね」
確かに幸せだったと、膝を抱えてカップに残された酒を見つめた。
「期間限定だったから幸せだったのかな」
互いに想い合う相手で心から愛していた。同時にキアラは、自分が魔力なしで長く生きないだろうことも心のどこかで分かっていたのだ。
ヴァルヴェギアでは、同じ時間に五人の魔力なしが存在したが、他の四人は既に亡くなっている。
いずれ近い将来、自分がそうなると分かっているから、王子様に恋をするという大胆なことができたのだろうか。
本当なら口をきくことすら恐れ多い存在である、第一王子のマクベスの要求にも盾突いた。
自分がいつか死ぬと分かっているから、ほんの少しも愛しい人の側を離れたくないと願い、許されない我儘を押し通したのだろうか。
「期間限定の恋は気の迷いだよ」
体温を感じるほどぎりぎりまで側に寄ったセオドリクが、膝を抱えるキアラの顔に顔を寄せて真剣な眼差しを向けていた。
銀色に輝く長い睫毛に縁取られた目が、すぐ側に迫って動きを封じられる。
その瑠璃色に輝く光彩の中央では、人と同じ闇色の瞳孔が扉を開いてキアラを飲み込んでいた。
「君の恋は期間限定だった。ならそれは気の迷いだ」
すぐ側で囁かれる声は心地よい。
体も心も何もかもが吸い込まれそうになり、キアラはゆっくりと瞼を下ろして息を吸い込んだ。
無意識に声を遮断しようとしていたが、させないとばかりに穏やかな、けれど強引な、無視できない囁きがキアラを取り囲む。
「人の世は短い。特に乙女の時間は限定されているんだから、女を利用してのし上がるような最低な人間のことなんて早々に見切りをつけるべきだよ。そんな男に一瞬だって、君の大切な時間や心を費やす必要はない」
まるで水の中にいるような音が鼓膜に響いた。
魔法を使われているのだろうか。
しかしキアラに魔法なんて効かない。
セオドリクが見えない何かを操っているのかもしれないとの考えが脳裏を過ると、不意に膜が弾けて視界が開かれたような感覚を受けた。
はっとして瞼を開けると、すぐ側でいつも通りのセオドリクが微笑んでいる。
周囲は変わらぬ喧騒に包まれていた。
「何か……わたしに何かしました?」
「僕は何もしないよ」
「僕は?」
嘘をつかないらしいエルフだが、言葉の言いまわしには注意が必要だ。
不思議な感覚に包まれた実感のあるキアラは、それが何か知りたくて聞き返せば、セオドリクはちらりと周囲を見回して笑った。
「大気がね、話したいと強く願った僕の声を君に届けたんだよ。だから僕じゃない」
キアラがセオドリクの言葉を退けようとしたが、セオドリクは話を続けた。その想いを受けた自然がキアラに声を届けたのだと告げる。
「自然はエルフ族に力を貸してくれるんだ。君たちにとっても珍しいことではなかったんだけどね。昔は人も自然の力を感じることができたはずだけど、魔法にばかり頼って自ら手放したんだよ。本当に勿体無いよね。手放さなければ、エルフと同じ力を持っていたかもしれないのに。人は狡猾になり過ぎたんだ」
セオドリクは「それでね」とこれ以上ないほど身を寄せる。
「気の迷いを起こすなら、僕に恋してもいいよ。叶わないけど、僕が相手なら誰だって納得する」
だって僕は綺麗だから――堂々と言い放つセオドリクに、キアラはどうしてだかおかしくなって吹き出してしまった。
「あなたはいいですね、自分に自信があって」
確かにセオドリクは美しい。その事実を常に確認できるのがキアラだけなのだから有り難いことだ。
「自信なんてないよ、フェルラにはふられたんだから」
「だから今度は失敗しないように、セオドリクさん自身を好きになってもらうために、姿を偽っているんでしたね」
「その通り」
「だけど姿を偽られているって知ったら、ユリンさんはすごく怒りそうですけど」
「そしたら許してもらう努力をするだけだよ。本当に好きになったら見かけなんてどうでもいいものなんだから、きっと許してくれるよ」
セオドリクの場合は見た目だけではなく、エルフという種族の違いもある。フェルラとのこともエルフ族でなく、同じ時を歩めたなら上手くいったかもしれない。
小さくはない嘘をユリンが許すだろうかと心配になるが、セオドリクは何とかするつもりらしく楽観的だ。
彼のような明るさがあればもっと楽だったのだろうかと、キアラは初めてできた仲の良い友人を前に目元をゆるめた。
するとセオドリクが瑠璃色の瞳を幾度も瞬かせる。
「どうかしました?」
目に塵でも入ったのだろうか。目薬でもと腰につけたポーチに手を伸ばすと、違うよとセオドリクが笑う。
「君もちゃんと笑えるんだなって思って。君から笑顔を引き出したのが僕だと思うと、なんだかちょっとはっとして。なんか、嬉しかったんだ」
「そう……ですか」
セオドリクは照れたように微笑んで、詰めていた距離を元に戻す。
キアラは正直に何でも口にしてしまう彼の言葉に狼狽えてしまい、カップに残った酒を一気に呷って咽てしまった。
口から溢れた酒が衣服に吸い込まれる。水ならいいが、酒は臭いが残るので早々に洗ってしまいたい。
キアラが腰を上げると、セオドリクも一緒に戻ると立ち上がる。
宴はいつまで続くか分からないが、席を外して休んでも咎められる時間ではないし、セオドリクはともかく、キアラがいなくなっても誰も気にしないのだ。
先にキアラが進むと自然に道が開けるのは、酔っていても魔力なしに触れると面倒だというのを誰もが理解しているからだ。
たまに泥酔した者が絡んでくることがあっても、周囲が止めてくれるので魔力なしも悪いことばかりではない。酔っ払いに絡まれると大変だというのは見ていてよく知っていた。
難なく人混みを抜けた先にユリンを見つける。
酒瓶を手にしたまま姿勢よく立つ彼女の表情は切ないもので、視線の先をたどるとラシードの姿があった。
「あっ……」
思わず声が漏れ口元を抑える。
距離があったのでユリンには届かなかったが、彼は気づいただろうと、キアラは斜め後ろに立つセオドリクを仰いだ。
ユリンの切ない眼差しは愛しい人に向けるそれだ。
決して叶わない相手に向ける、己の立場を理解した届かない想いを秘めた視線。
キアラでは押し止めることができなかった感情を、ユリンはしっかりと押さえて主に仕えている。
けれどふとした時に漏れる本心は人間らしい心の動きで、キアラが気づいたほどなのだから、セオドリクにも分かってしまっただろうと案じたのだが。
「知ってるよ」
そう言って、セオドリクは幸せそうに笑ってみせた。
「騎士団長を想っているのは知っている。だからって僕が身を引く理由にはならないだろう?」
セオドリクは堂々としていた。
自分に自信があるのも堂々としている原因の一つだろうが、恋愛を楽しんでいるのも理由だろう。
キアラは楽しむなんてことはできない。
どうしようもない気持ちのまま、醜い心を隠すように、ゆっくりと息を吐き出して歩みを再開する。
セオドリクとキアラ。二人の何が違うと思う前に、違い過ぎるのは明らかだった。キアラは改めて己の立ち場を認識する。
ユリンがラシードを想っていても、セオドリクが引く理由にはならない。
彼は人ではなくエルフで、人の影響を受けない自由な存在だ。
ラシードは間もなく公爵家のご令嬢と結婚する。
切ないことだが、ユリンの気持ちもまた、ラシードに届くことはないし、届けてはいけない。
対してキアラは、生きる場所すら選ぶことが許されない身で、恋する人は王となり妻を迎える。
セオドリクの恋はユリンの気持ち次第で成就する可能性がある。
けれどキアラには何もない。
もし奇跡が起きて望まれたとしても、キアラでは愛人としての立場すら許されないのだ。
戯れに、気晴らしに相手にされてしまうような卑しい女。
あの夜、テヘラゲート公爵邸でパフェラデルが怪しんだ立場こそが、キアラに許される唯一の希望だ。
それでも望まれるならと思いかけ、慌てて首を振ったキアラからは、己の浅はかさを罵るように乾いた笑いが漏れた。




