あの夢
「またあの夢―――」
東の空が白み始める前に目を覚ましたキアラは、ゆっくりと体を起こす。
薄い下着だけが覆うのは傷だらけの体だ。
初めての戦いで貫かれた腹部へと無意識に手が動いた。
もう痛くない筈なのに、このところ頻繁に見るようになった夢のせいか疼くような気がするのだ。
「あの人……何て名前だったっけ」
寝汗をまとう肌に張り付く黒髪をかき上げる。
初めて護衛の騎士として勤めてくれた男を思い出そうとするが、子供だったキアラの記憶に彼の名前は残されていない。
怯えるキアラの言葉を無視して、容赦なく戦場に引っ張り出すあの騎士が怖くてたまらなかった。
王子であるカイザーの制止も無視して、キアラの腕を強く掴むと、抵抗しても防具を付けて火の渦、槍の雨の中に引っ張り出すのだ。
「なんでこんな子供を――」と、顔をしかめて地の底から湧きだすような声をむけられた。
大人の怒りをまともに受けた子供は委縮して何も言えない。
忌々しそうに見下ろされる度に、キアラは魔力がない己に劣等感を抱き、返す言葉がなく下を向くしかなかった。
この世界では魔力が全てだ。
魔力がない人間は厄介な存在だ。
人が暮らすために必要なあらゆるものには魔法がかけられているのだが、魔力なしはその魔法を無効にしてしまう無能者でしかない。
暮らしだけでなく、命を守る為の魔法は戦場においてとても重要なものであるが、キアラを護衛する者を守る魔法も、ほんの少し触れてしまえば瞬く間に無効となってしまう。
魔力なしの護衛は、誇り高い騎士にとっては厄介で、最も避けたい仕事だ。
幼い頃は嫌われているのだと思い、憎々し気に見下ろされる度に身を縮めていた。
けれど違う。
大人になったキアラは、あの罵りはそうではなかったと理解できるようになっていた。
名前なんて教えられなかった。
誰かが彼の名を呼んだけど覚える余裕もなくて、あの人が来ると怖い場所へ連れ出されるのでいつも怯えていた。
けれど彼との最後の日、血濡れた戦場で彼はキアラを抱きしめて涙を流しながら「くそったれ」と悪態を吐いた後、「お前は悪くない。悪いのはこの世界だ。俺の命を懸けたんだから絶対に生き残れ」との言葉を残して覆いかぶさった。
小さなキアラをすっぽと包み込んだ騎士は口から大量の血を吐き、その血はキアラの顔に降り注いで地面に吸い込まれた。
助けが来て騎士の下から引きずり出された時、全身に矢を受け大量の血を吐き、動かなくなっている彼を見たのが最後。
魔力なしの護衛として選ばれた彼は、持てる力と命を懸けて、戦場でしか生き場所のない少女の命を守った。
「あの人、名前なんだったっけ……」
どうして憶えていないのだろう、どうして忘れてしまったのだろうか。
その後に護衛騎士となり死んでいった人たちの名前は憶えているのに、最初の彼だけがどうしても思い出せない。
「あなたは誰だったの?」
キアラは頭を抱えると、自分を守って死んでいった騎士を思い出そうとする。
けれどその度に、奪い返そうと必死に叫ぶカイザーの声が木霊するのだ。
「やだ。忘れたいのにどうして」
現実から逃れるように頭を抱えたまま、必死で騎士の名前を思い出そうとする。
それなのに、決して二度と望めない声で、愛しい人が呼ぶ声が蘇ってしまうのだ。
死んでしまった騎士の名を知りたいのか、愛しい人に再び名前を呼んでもらいたいのか。
どちらが本当なのか分からなくて頭を抱えていると、やがて夜が明けて日常が再開される。
「また始まった……」
新しい、何もない一日だ。
どうして役立たずの自分が生き残っているのだろうと、毎朝同じことを考えて寝台から降り、身支度を済ませる。
魔力のない役立たずにもたった一つだけ与えられた役目がある。
普段は役に立たない邪魔者だが、キアラにしかできない大切な役目だ。
護衛騎士がつけられ守られたのも、役立たずがたった一つだけ必要になる瞬間のためで、キアラはその日の為だけに生かされている。
その日が来れば、側で守ってくれる騎士がまた一人死ぬことになるのだろう。
自分のせいで人が死ぬのを間近で見るたびに、受けた傷の痛みよりも心が痛みを増すのだ。
「次はいつかしら。」
争いなんて起こらなければいい。
そうしたらキアラは無能で邪魔な魔力なしで、自分のせいで誰かが死ぬことはない。
死ぬのは怖いけれど、自分を庇って死ぬ人がいるのはもっと怖い。
キアラは心を疼かせたまま、冷たい床に素足を置いた。