触れてくれる人
これまで権力のないキアラを守ってくれたのはカイザーだったが、全てを退けられた訳ではない。
ラシードがどの程度知っているかは分からないが、同性にすら――いや、同性だからこそ酷い扱いを受けているなんて、できることなら知られたくなかった。
キアラは暗い館を走り、人気のない場所で服を着ると膝を抱えて蹲る。
『エルフ族の生活は魔力なしと同じなんだ。君はエルフの里でなら劣等感なしに生きていけるかもしれないね』
こんな時にセオドリクの言葉を思い出してしまい、紫の瞳に涙の幕が張った。
魔力なしは役立たずだ。
この世界で生きるには必ず誰かの力を借りなければならない。
けれど、魔力が豊富で魔法が使えるエルフは、魔法に頼らない、人々が大昔にしていた生活の形を変えずに続けているという。
それが本当なら、魔力がなくても戦場以外で生きる場所が得られるのにと、キアラは自分ではどうしようもない体質を呪って悪態を吐いた。
「わたしなんて死ねばいいのにっ!」
他の魔力なしは戦場で命を落とした。
たった一人生き残ってしまったキアラは、命の大切さを知りながらも生きる辛さに負けて、抱えた膝に顔を埋め悪態を吐き続ける。
けして本当に死にたいわけではないが、言葉にして吐き出さないではいられないほど心が犯されてしまっていた。
「役立たず、邪魔者、能無し。男を誑かして生きるしかない醜い女!」
最後の言葉は魔力なしにではなく、キアラだけに向けられる罵りの言葉だ。
戦場に女は存在しないのが当たり前なのに、キアラは魔力がないのを理由に引っ張り出される。
血みどろの恐ろしい世界。
そんな所に行きたくない、けれどそこしか与えられないので仕方なく体を張って戦っているのに、男ばかりの世界に女がいるというだけで、淫らだと罵られ、嘲笑われるのだ。
「カイザー様、どうして……」
気付かないうちに愛しい人の名を呼んでいた。
二人の関係が元に戻れるわけではないと分かっているし、カイザーの心がキアラになかったことも知ってしまった。
彼が優しく愛を囁いたのはキアラが必要な魔力なしだったから。
カイザーが戦場に立つことがなくなった時点で、用無しとなって捨てられたのだ。
分かっている、他の女性に愛を囁いて、本当の意味で抱いていることも知っている。
だからといって、幼い頃から支え合い、恋した時間が無くなるわけではないのだ。
カイザーはキアラを利用したかもしれないが、キアラは純粋に彼を愛していたのだ。
騙されていたと知っても、優しくされた過去は無くならず、心は簡単に割り切れない。
暗闇の中で何処をどう走ったかもわからない。
うろついていればそのうち外に出るだろうが、立ち上がる気力はなく、冷たい湿った石の壁に体を押し付け、声を殺し咽び泣いた。
精神的な疲れもあるが、馬の背に揺られる日々で体の疲れも増している。
いつの間にかうとうとしていたのだろう。不意に腕を引かれて現実に引き戻された。
「こんな所で何してるのさ。風邪をひいたって魔法で癒してやれないんだから、テントに戻って毛布にくるまりなよ」
闇の中なのに、僅かな光をかき集めた銀色の髪が、セオドリクの美しい姿を浮かび上がらせる。
寸分の違いもない、左右対称に作られた美しい顔。
高く調った鼻に薄めの唇。女性的でありながら、男性と分かる首の太さに低い声。
不満気に発せられた声だが、そこには心配の色だけが滲み出ていて、アーモンド形に調った瑠璃色の瞳は、神々しい煌めきを放ちながらキアラの姿だけを宿していた。
「わたしに触れたら駄目ですよ」
セオドリクの手を腕から引き離す。
キアラが拒絶したのに、セオドリクは怒らずに固く結んでいた口を緩めると、柔らかに口角を上げた。
「凄いね、本当に一瞬で驚きだよ」
セオドリクは肩をすべる長い銀色の髪をかき上げながら、その身に纏う魔法の全てを無効にしてしまったというのに、怒るでもなく残念がるでもなく、心から楽しそうに笑っていた。
「幻術もだけど、物理的な攻撃に対する防御も、視覚と聴覚の強化も、毒への対処も、位置を知らせる魔法も呪いも全て、何もかもが綺麗さっぱり一瞬で消失してしまった。こんなの初めてだ、本当に見事だよ。エルフが束になってかかっても叶わない力だ。魔力なしの凄さは噂以上だね」
楽しそうに笑いながら、セオドリクは細いけれど男性らしい筋張った指を体に滑らせ、再び自らに魔法をかける。
最初に幻術だろうか。それから服の下にしまい込んでいた、宝石のついたペンダントに腕輪に指輪、その他、キアラには想像のつかない魔法を指先や手のひらに乗せ、小さな輝きを放ちながら幾つもの魔法を行使していた。
「ごめんなさい」
触れる前に声をかけたのだろう。
それでも目を覚まさないキアラを起こすために、魔法が駄目になってしまうと分かっていて触れたのだ。
魔力の量は決まっているので、特に戦場において魔法をかけ直すことを魔法使いは嫌がる。
謝罪するキアラに、セオドリクは何でもないことだと笑ってくれた。
「君が連れて行かれたからね。何だろうと姿を隠して後をつけたら、裸で飛び出して来たんで驚いたよ。知らないふりをした方がいいかなって思ったけど、随分と冷え込んできたからね。保温の魔法をかけても効力が無くて、このままじゃ風邪をひかれると思って起こしたんだ。知られたくなかっただろうけど、黙っていられなくてごめんね」
ごめんねと謝罪するが、表情は少しも申し訳なさそうではない。
とんでもない美人が、子供のように屈託なく笑って白い歯を覗かせる。
彼なりに気を遣おうとしてやめたらしい。
キアラは、みっともない姿を見られていたと知っても、セオドリクに対して恥ずかしい気持ちは湧かなかった。
恐らくそれは何一つ隠さずに、恥じらいも何もなく恋する女性について語る姿や、神々しいまでに美しい姿に似合わず、人懐っこく幼い一面を見せてくれるからだろう。
「騎士団長なんて無表情のまま、あのご令嬢に凄く怒ってたよ。魔力なしは国の宝と心得よ……とか何とか言ってたかな。まるで地の底から這い出してきた魔物が唸るように。けど、それを正面から受け止めたあのご令嬢もある意味凄かったね。可愛らしい嫉妬だとか言いながら、上目づかいで、わざとらしく目を潤ませちゃってさ。あんなのちっとも可愛くないのに。まぁユリンがそれをやったら僕は彼女の望みを何でも叶えてしまうだろうけど」
愛しいユリンのためなら何でもやるよと笑ったセオドリクは、キアラを立たせるために手を伸ばす。そこではっとすると慌てて手を引いて一歩下がった。
「危ない危ない、魔法をかけ直したばかりなのにやらかしてしまう所だった」
わざとらしく額の汗を拭うセオドリクの姿に、キアラはほんの少し心が温かくなる。
心から笑える訳ではないが、無神経なのかわざとなのか分からない彼の優しさを感じて、キアラは「ありがとう」と礼を言うと、自らの力で立ち上がった。
翌朝、キアラがセオドリクの助けを借りてテントを片付けると、ロルフを従えたラシードが現れた。
無表情で恐れを抱かせる雰囲気を纏ったラシードは、ヴァルヴェギアの騎士団を預かる団長らしく威厳に満ちている。
キアラは慌てて立ち上がり、汚れた膝をはらって姿勢を正した。
真正面に立ったラシードは、厳しい視線で見分するようにキアラを観察する。
「昨夜のことはすまなかった。もし次があっても二度と従わなくてよい。呼び出したのがパフェラデルやテヘラゲート公爵自身であっても、他の貴族でもだ。私の命令だと言って、決して彼らに従ってはならない」
良いなと、確認ではなく命令を下すラシードは、昨夜パフェラデルがキアラにしたことを怒っているようだ。
ラシードは権力者だが、身分や権力を傘に好き勝手する輩を快く思っていない。
すまないと謝罪したのも、弱者を弄ぶ権力者を妻に迎えなければならない己の弱さを痛感してのことだろう。
王族で、魔力なしなど虫けらのように扱っていい人なのに律儀な人だなと思いながら、キアラは素直に「はい」と返事をして頭を下げる。
ラシードは、キアラが受けてきた魔力なしに対する不当な扱いを知ってしまったのだ。守ろうとしてくれているのだろうが、ラシードはカイザーのように、常に側でキアラを見張ることはできない。
ラシードにとって魔力なしは、他の騎士や魔法使いと同じように駒の一つでなければならないからだ。
魔力なし――そうと分かっていても女であるキアラを、最も危険な場所に送り込むことに躊躇を覚えているのかもしれない。
敵と向かい合い、魔法なのかそうでないのか分からない場面で、放たれた攻撃に飛び込んでいくのは怖くて、いつまでたっても慣れない行為だ。
それでもキアラは火でも槍でも鉾でも、最前線で放たれる魔法を無効化しなければならなかった。
幼い頃は身を守る術は防具くらいしかなく、初陣では矢を腹に受け生死の境を彷徨っている。
その時ついてくれた護衛騎士は、キアラを守るために何度目かの戦いで、いくつもの矢を受けて命を落とした。
それから幾人の護衛がキアラを守って血に濡れただろう。
キアラはラシードの後ろに佇む青年へと視線を馳せる。
彼は死なないで欲しいと、ラシードの後ろで昨夜を気にかけてくれている騎士を想った。