プロローグ〜そして、少女は孤独になった〜
この世界の魔法は、少し変わっていた。自分の中に眠る特殊な能力と、自然を司る『火』『水』『風』『木』『土』『光』『闇』の7種類の力を複合して戦う。魔術士の中には、戦闘力に長けた者や、治癒効果を持つ者も現れており、非常に強力な魔法だ。
だが、この魔法には、1つの弱点が存在した。自分の体の中に眠る力を用いるため、体に負荷がかかり過ぎないように自分の体を休める『賢者タイム』が自然と発生するようになっていた。その『賢者タイム』をなんとか克服して戦う必要が生じていた。
魔法を習得した者は『賢者』と呼ばれ、教師として教える事のできる実力を備えた者を『大賢者』と呼んでいた。しかし、ある者達は、賢者タイムを必要とはしない『無限賢者』と呼ばれて、恐れられていた。全ての者がこの魔法を善用するわけではない。過去に1つ、悲しい事件が発生していた。
『ローレン』と呼ばれる10歳になったばかりの女の子の家族に起こった出来事だ。彼女は、お母さんからお願いされた簡単な仕事をして来て、家に帰ってみるとお父さんとお母さんが何者かに襲われていた。
激しい風嵐が襲い、無数の刃となった風が彼らを追い詰めていた。それを、父親の火炎系魔法がギリギリ風嵐を相殺している状態だった。慣れ親しんだ家は破壊されかけて、半分が瓦礫の山と化している。
「きゃああああああああ、なんなの?」
「くっ、ローレンか? お母さんの近くに早く行きなさい。お父さん達は、謎の賢者に襲撃されている。超強力な魔法を使ってくるから気が抜けない。せめて、お前達だけは絶対に逃がしてやるからな!」
お父さんが苦戦していると、華奢で美しい手が伸びてくる。お母さんが彼女を抱えて逃げようと奮闘していた。謎の賢者の力は、想像していたよりも強いらしく、お父さんもお母さんも防戦一方だった。
「そうよ。だから、お父さんが謎の賢者と戦っている間に、お母さんと一緒に逃げましょう!」
少女は、母親と呼ばれる女性に抱えられて逃げ始める。危険な状況だったが、少女には大して恐怖を感じる事でもなかった。頼れる父親と母親が近くに居てくれるのだ。なんだかんだ起こっても、必ず彼らが解決してくれると信頼していた。
「へへん、お父さんもお母さんも大賢者様なのよ。こんな謎の賢者なんて、返り討ちに遭わせてやるんだから! 2人とも普段は優しいけど、本気になったら敵なんていないんだからね!」
少女はそう言って強がるが、父親の判断は冷静だった。自分がギリギリ食い止められるだけの実力は持っているが、それでも油断していたら大切な家族に被害が出るかもしれない。一応、父親にも勝算はあった。
この数分間を食い止めれば、謎の賢者の強力な魔法攻撃も一定時間の無活動状態に追い込まれるのだ。賢者タイムだけは、どんな魔術士にも避けては通れない鉄の掟なのだ。
大抵の魔術戰は、相手の賢者タイムの時まで防御して、無活動になったところを狙うのが定石だった。自分の妻と娘を逃すには、謎の賢者の『賢者タイム』に陥った時を狙うしかない。
どんなに強がってみせていても、娘は恐怖で震えていた。自分の住んでいた家を数秒で破壊されて、直に殺気を感じているのだ。普通ならば、パニックに陥っても不思議ではない。
幸な事に、少女の天性の才能なのか、パニックになって混乱する事もなく、走って逃げる事は可能になっていた。
「ローレン、ここはお父さんが必ず食い止めてみせる。お前とお母さんは逃げなさい! 賢者には、『賢者タイム』といって、連続して魔法攻撃を繰り出せないように体がセーブする機能があるのだ。
その時は、彼は無防備になり、魔法による攻撃も防御もできない。後、数秒ほどで彼の『賢者タイム』になる。そこを全力で逃げ切るんだ!」
「ローレン、お母さんがサポートして、あなたを逃すわ。だから、勇気を出して一緒に逃げましょう!」
少女は、父親の方をチラリと見て言う。自分の子供の励ましほど、父親の心を奮い立たせる物はないという事を知っているのだろう。
「うん……、後で、絶対に会おうね!」
「ああ、分かっている。すぐに、相手を捉えて戻って来てやるさ!」
こうして、父親の合図で、母親と娘は一斉に逃げ始めた。自分の『賢者タイム』の時間が分かるのも賢者としては必須のスキルだった。
幾多の死闘を切り抜けるのには、自分の賢者タイムがいつ訪れるかも計算しておかなければいけない。相手よりも先に賢者タイムになって仕舞えば、自分が無防備な状態を晒す事になるのだ。
巨大な力を使った場合には、長い賢者タイムになる事もある。それらを正確に測り、賢者タイムが終わるのを待つのも、上級者には必要な技術だった。
「俺の賢者タイムも、もうじき来る。そうなったら、剣で戦うしかないが、2人を逃す時間くらいは稼げるはずだ。
再び魔法が使えるようになる時には、お母さんとローレンは安全な場所にいるはずだよ。それまでは、俺が命をかけてでも守る!」
しかし、父親が予想した時間になっても、謎の賢者の攻撃が止む事も、威力が弱まる事もなかった。父親自身が力尽き、彼自身の賢者タイムが訪れていた。護身用の剣を駆使して奮闘するが、そんな物で強力な魔法攻撃を防げるわけがない。
「はあ、はあ、はあ、おかしい……。俺の賢者タイムはとっくに来ているというのに……。彼の賢者タイムは、いつ来るんだ?」
父親は、なんとか剣だけで奮闘して、ボロボロになりながらも彼を食い止めていた。足は傷だらけになり、左腕も動き難いが、男の賢者タイムになる時間まで耐えようとしていた。その努力をあざ笑うかのように、謎の賢者は語り始める。
「ゲヒャヒャヒャヒャ、雑魚の考える事は、みんな一緒だな! 自分の常識内で俺様の実力を測りやがって……。俺様は、『無限賢者』様だ!」
父親はそれを聞き、絶望したような表情を見せる。無限賢者など存在しない都市伝説や遠い存在のように感じていた。それが、自分が今まで戦った中でも邪悪で、醜悪な表情を浮かべた男が、自らが欲して止まなかった実力を持っているのである。
「くっ、そんな馬鹿な……」
「ケッケッケ、無限賢者は、無限賢者でしか倒せない。あんたの奥さんと娘は、俺様が面倒を見てやるよ。奥さんは結構な美人だし、娘もかなりの美少女だ。まあ、俺様が飽きるまでの短い間だけどな!」
「くっそ、せめて彼女達だけでも……」
父親は、謎の賢者が自分の家族に手を出さないように、体を張って止めようとしていた。剣を構えて立ちはだかるが、必死で阻もうとする彼の体を、男の強力な風の魔法が襲う。数秒でボロ雑巾のような姿に変えられていく。魔法が無くては、男の攻撃を防ぐことさえできなかった。
「無駄! 自分が身代わりになって、アイツらを逃がそうと思っていたようだが、無限賢者の俺様の前には逃がしはしないよ。自らの無力さと、絶望を知って死んで行くがいいぜ。あばよ、大賢者様!」
「ぐっは……」
少女達の目の前で、父親は変わり果てた姿になっていた。さっきまで少女と会話をしていた男性は、二度と物を言わぬ肉の塊と化していたのだ。自分の父親の死を目撃し、少女は絶望とショックを感じていた。
「あなた……」
母親は、少女のように呆然となる事はない。自分には、まだ守るべき大切な者が残っているのだ。自分の愛した人の最後の願いでもあり、少女を抱えて必死で逃げようとする。しかし、無限賢者の風の刃は、容赦なく彼女を襲う。母親も賢者タイムに陥っており、魔法攻撃を防ぐ術などない。
「ぐう、ローレンは、逃げなさい……」
母親が肉の壁となり、少女だけは無傷で守られていた。しかし、母親の美しい肢体は切り裂かれ、五体はバラバラに飛び散ってしまっていた。腕も手もないが、それでも少女を逃がそうと必死に励ます。
ショックは大きいが、少女は言われた通り逃げようとしていた。だが、無限賢者の前には、そのような動きはイモムシ以下のスピードに他ならない。すぐに回り込まれて、逃げ道を塞がれていた。
「ちっ、しまったな。脆すぎて殺しちまったぜ。折角の上玉だったのによ……。まあ、良いか。お母さんができなかった事は、娘のお嬢ちゃんが代わりにしてくれるはずだよね?」
男は、嫌らしい目付きで少女を見つめて来た。ゆっくりと獲物を追い詰めるように、彼女の行動範囲を狭めていく。動けなくなり、絶望し切ったところを襲う気のようだ。
「へっへっへ、お母さんに似て超美少女じゃん! 殺す前に、少し楽しむとするか。体は幼いが、それなりに女の子になっているみたいだし、大賢者様のお宝を貪り食った感がして興奮するしな……」
「いやあ、来ないで……」
少女は、近くにあった石を投げつける。少女が見せる必死の抵抗だったが、男にはただのお遊戯にしか見えない。軽く石をキャッチされて、傷1つ負わす事はできなかった。足がもつれて転けてしまい、男から逃げる事ができなくなっていた。
「へっへっへ、可愛いね。それで抵抗したつもりなのかよ? まあ、普段は気丈な美少女が、絶望に陥って泣き悲しむ姿を見るのも興奮するけど……。良い声で鳴いてくれよな!」
「いやああああああ……」
男が少女に襲いかかろうとすると、背後から氷の魔法が襲って来た。母親はまだ息があり、手足が使えなくても魔法攻撃で足止めしようと、男を狙って攻撃する。賢者タイムが終わり、彼女も魔法が使えるように回復していた。
「ちっ、使っている魔法が弱かったから、賢者タイムも短かったのか?」
男は、母親がいた強力な魔法を使う事で、一気に殺す事に決めたようだ。うかうかしていられるような次元の相手ではないと悟る。彼女を殺す魔法攻撃を発動しようとしていた。
「美女を2度も殺す気は無かったが、お前は危険過ぎる。確実に、殺すしかないな……」
「それは、どうかしらね?」
母親は、謎の賢者も、少女も巻き添えにするほどの強力な魔法を使う。賢者タイムになろうとも、彼を殺す事を目的としたような大規模で強力な魔法だった。威力は、男が想像していたよりも遥かに大きい。彼女の使った魔法によって、男と少女がいる建物が破壊し始めていた。
「くっ、この俺様を少し恐れさせるとは……」
彼女の最後の魔法は凄まじく、謎の賢者でさえ逃げざるを得なかった。身動きの取れない少女は建物の瓦礫に押し潰されたかのように見える。男の魔法は、母親に向けて放たれ、彼女のいた周囲の地面が風の魔法でえぐれていた。父親と同じような肉片の残骸が周囲に飛び散っている。
「ちっ、馬鹿め……。自分の娘も殺しやがったか……。俺様を殺す(やる)のに必死で、娘まで注意が向かなかったのか……。ふん、娘の命を奪ってでも、彼女の純潔を守りたかったのかね? 女というのは、本当に理解に苦しむ生き物だよ……」
男は、少女がいた場所を見て、彼女も死んでいると思っていた。氷の魔法によって破壊された威力が凄まじく、とても生きているとは思えない。自分の死期が近付き、苦しみによって、魔法のコントロールが狂ったのだろう。
「ふう、これで美女も美少女もただの肉の塊と化したわけか……。死体を愛でる趣味はないぜ。近くの町にでも行って、適当に女の子を引っ掛けてくるさ。結構好みなタイプだっただけに、ちょっとショックだけどな……」
男はそう言って、この場所を離れる。村人達は、男の襲撃を受けて逃げていたが、男がその場所を去ると、救助に向かってくれた。少女が居たであろう場所に、巨大な瓦礫が積み上げられている。村人も、男と同じように生きているとは思わなかった。しかし、両親の遺体を処理していると、少女の声が聞こえてきたのだ。
「た、助けて……」
壁の柱によって支えられて、瓦礫が埋まっていない場所がある。そこから、助けを求める声がし始めた。そう、少女は生きていたのだ。
母親の魔法によって建物を破壊されたが、彼女が上手くコントロールして、少女が瓦礫に押し潰されたように見せかけていた。実際には、トイレの頑丈な壁が少女を守り、彼女は無傷で生還したのだ。
だが、彼女の父親と母親は無残に死んでおり、顔も見られぬほどのボロボロの状態になっていた。『無限賢者』、少女はその言葉を頼りにして、男への復讐を誓っていた。必ず自分も同じ無限賢者になり、男の息の根を止めてやると……。