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情景

作者: ネコヤナギ

 藤村アンナは名の知れた不良だ。売られた喧嘩は高く買い、売られなければ売っていく。押さえつけようとする権力には徹底的に反抗をした。女だからという手加減も逆手に暴れまわった。理由もなく暴れて壊した。暴力装置と揶揄され、人が離れてもアンナは暴れた。

 暴れることに、理由なんて必要はないのだ。ムカついたから排除しようとした。そんな短絡的なもので、十分だった。至ってシンプルな、動物の本能らしい理由だ。

 アンナは人間であり、人間であるからには考えることが出来た。けれどアンナは考えても苦しくなって、考えるのを止めた。

 だからアンナは装置だった。

 ただ暴力をふるってそれを反省しない。成長もしないのだから人工知能にすら劣っていた。



 アンナが歩けば道は開く。

 親が金にものを言わせて通わせた私学の高等学校でアンナは異分子だった。どこもかしこもスカートの丈はひざ下で髪は結ぶか、短く切られている。男子すらネクタイを緩めずに締めていた。誰も髪を染めたりピアスを開けたりしない。化粧の臭いもしない。

 良い子ばかりで、アンナは宇宙人のように観察され、遠目に見世物のように見られていた。さながら動物園だ。

 出席日数のために登校して教室にいるが、チラチラとみられる鬱陶しさにキレて暴れる。そして呼び出されての繰り返しだった。

 2年に進級しても周囲の対応も、アンナの暴力も変わらなかった。警察沙汰にも退学沙汰にもならないのは一重にアンナの両親が名の知れた有名人であったためだ。

 ニュース番組でコメンテーターもする大学教授の父親と、元モデルでファッションデザイナーである母親。彼らにとってアンナは邪魔ものでしかないらしい。

 お互いのステップアップのための、唯一の障害だった。

 鬱憤を晴らすように、ロッカーが鈍い音を立てて軋んだ。

 ロッカーにあたってもどうしようもない。綺麗なロッカーのなかで、アンナのロッカーだけが歪に凹んでいる。

 進級してから3度目の登校をしてみれば、周囲は対して変わらない。アンナから見れば彼らのほうがロボット染みて同じ行動をしていて、見ていて薄ら寒く思える。

 来年、このロッカーを使用する子は可哀想だな。そう思っていたところで、「ふ、藤村あんにゃさん!」

「は?」

 上擦った声でおどおどしながら名前を呼ばれることは多々あった。その中でも一等酷い呼び方にアンナは不快を通り越し、思わず呆れる。噛むなら呼ばなきゃいいのに。そう思って振り返る。

 鞄を大事そうに抱きかかえているのはボサボサ頭で身長だけは高く、見上げると首が痛くなる男子生徒だった。一目見れば例え他人に興味を示さないアンナであっても気付き、覚えがある外見だった。それでも、見覚えがないのだから新入生なのだろうかと、ちらりと、ボロボロの上履きを見れば同学年共通の赤いラインが見える。

 呼び止められたものの、一向に話し出す気配はない。アンナは痺れを切らして切り出す。

「なに?」

「あ、あのう、その、その」

「私、まだ何もしていないでしょう?」

「こ、これからするんですかあ!」

「する気も起きないのだけれど」

 毒気を抜かれる。アンナは重くなったような頭を振った。その仕草すら、男子生徒には何かの兆しに思われたのかひいっと小さな悲鳴を上げて跳ね上がる。

 またこれだ。

 アンナは、自身の一挙一動に起こる反応が、不愉快なのだ。

「何かしないし、用もないなら話しかけないでよ。鬱陶しいの、ウザいの、迷惑なの」

「用なら、あります」

「あるならさっさと言いなさいよ」

「……を………さい」

「よく、聞こえない」

 ぼそぼそとした話し方の上に、先ほどから小刻みに震えている。何を言ったのかわからず、アンナは聞き返した。

 男子生徒は意を決したようにアンナの眼をじっと見ながら、

「ぼ、くを弟子にしてください!」

 アンナは、脳内で、男子生徒の言葉を咀嚼する。でし、デシ……弟子?

「意味がわからない」

 口から素直な言葉が出る。少し間の抜けた、アンナの棘の無い言葉だった。

「強くなりたいんです。」

「それなら、空手でも柔道でもなんでも始めればいいじゃない。私は有段者でも経験者でもないのだから、貴方を強くするなんて出来ないわよ」

「ぼくは、アンナさんのようになりたいんです!」

 男子生徒は頑なで、アンナは呆れる。人の話を聞かないのか、聞くつもりもないのか、アンナの知ったことではない。アンナは履き替えた靴で男子生徒の言葉を知らないふりをして、立ち去ろうとした。

 そんなアンナを、男子生徒は慌てて引き留める。

「弟子にしてくれないなら、死んでやる!」

 ぎょっとしてアンナは男子生徒を見上げる。男子生徒のあまりに必死な顔に妙な気迫を感じ、アンナはきまずく頭をかいた。

 2年経っても、足に馴染まない革靴で地面をける。

「だから、弟子っていってもねえ……」

「なんでもいいんです。お願いします、弟子にしてください」

「何も教える事なんてないのだから、弟子もなにも無いでしょ。それに、私のこと知っているでしょう?」

「知っているから、アンナさんの弟子になりたいんです」

 男子生徒は頑なで、アンナが何を言っても聞く耳を持たない。お願いでもない、自らの死をかけた脅迫にアンナは狼狽える。アンナ自身は根っからの悪党ではないのだ。暴力に多少の怪我は仕方ないとしても、絶対に命の危険は与えない。それだけは、してはいけないとわかっている。

 だからこそ、頑なな同級生をどう扱えばいいのか戸惑う。

「とりあえず、学校出て話すか」

「はい!」

 どう捉えたのか、同級生は嬉しそうに返事をする。さっきの自殺宣言のような脅しも嘘だったのかと思う調子の良さに、アンナは詐欺にあった気分になる。同級生はアンナを待たせているという焦りからなのか、元からなのか躓いたり、鞄を落としたり忙しなく自分のロッカーから靴を取り出した。

「隣のクラスだったの」

「はい……まあ、ぼくは地味ですから……」

 卑屈気味に言う同級生を慰めるわけではなく、ただの感想としてアンナは返した。

「地味とは思わないけれど。十分に目立っているじゃない」

 同級生は驚いたように目を見張った。

「私の家で良いかしら」

「は、はい」

「そう。行きましょう」

 それきり興味を無くしたのか、アンナは振り返ることもなく会話することなく歩きだした。同級生はそれを追いかける。隣に立つのも、すぐ後ろを歩くのも憚られて中途半端な距離を保ったままだ。

 その距離は他人ですと言い切れる程度だった。

「此処よ」

「うわあ……」

 必死で、アンナを追いかけたために周囲を見ていなかった。高級住宅街、というのだろう。テレビ越しに見たことのある家が立ち並ぶ。居心地の悪さのむず痒さに、

「アンナさんってお嬢様?」

 アンナは無視をして家に入ってしまった。慌てて追いかけた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「お、おじゃまします!」

「まあ」

「立花孝之です!よろしくお願いします!」

「立花っていうんだ」

 家に入るなりパタパタと駆け寄ってきた白髪交じりの女性に、孝之は元気よく挨拶をした。アンナはやっと、彼の名前を知った。そんな二人の関係がつかめない白髪交じりの家政婦に、アンナは「勉強教えてあげるの。部屋に入ってこないで」

「かしこまりました。お茶はいかがいたしましょう」

「いらない。行こう」

 頭を下げる家政婦を無視するように、アンナは玄関を抜けた。それに続くように孝之も、ぺこりと頭を下げた。

「僕、シャンデリアのある玄関って初めてみました。それに大理石の床って格好いいですね!」

 興奮冷めやらぬ様子で、孝之は鼻息荒く感想を言う。

「あっそ。成金趣味なのね」

「ご、ごめんなさい」

「別に。親の趣味だからどうでも良いわ」

 仲、悪いのかな。孝之はちらりと部屋の主を見上げる。床に座らされた孝之に対して、アンナはソファに優雅に座っていた。

「それで?」

「はい?」

「弟子入りだとか、どういう意味なの。自分から言い出したんじゃない。意味の分からないことに付き合わせないで」

 苛立ちを隠そうともしないアンナは語尾を荒げた。

「ぼ、ぼく強くなりたいんです!」

「だから、それなら道場にでも行きなさいってば」

「そうじゃなくて!」

 言葉を上手く伝えられない苛立ちに、声を荒げる。アンナは豹変に驚きながらも孝之の言葉の続きを静かに促した。

「僕、いじめられてるんです」

 だろうな。アンナは納得する。孝之は、背は高いが、ガタイ自体はよくはない。それに加えておどおどとしていて、強く出ることはない。虐めるにはもってこいだろう。

 孝之はもじもじとしながらアンナを見上げる。

「僕、強くなりたいんです。身体じゃなくて、心を強くしたいんです。アンナさんのように、立ち向かいたいんです」

「私は別に強いわけじゃないんだけど」

「そんなことありません!一人でも、どうどうとしていて、ぼくは、憧れたんです」

 好きで一人でいるんじゃない。言いたくても、恥ずかしさで言えず、アンナは半端に口を開いて、何か言おうとして、閉ざした。孝之はアンナを気にした様子はない。

 高級住宅街だけあって、静かだった。どちらも喋らないまま無為に時間だけが過ぎる。

「好きにしたら。私は貴方に何もしてあげられないけれど、それで良いなら」

 どうせ、すぐに居なくなるのだろうしと思って、孝之に向かって言う。孝之はぱっと顔を明るくさせた。



「オドオドしない!」

「ひぃ!」

 脛をける。孝之は情けなく悲鳴をあげて飛び跳ねた。

 孝之がアンナに弟子入りしてから、この様子が3週間続いた。その頃にはアンナは孝之が近くにいることにも随分と慣れていた。慣れはするが、彼の矢鱈とびくびくと怯える仕草には苛立ちを感じる。

 アンナには孝之が何に対して怯えるのか分からないのだ。怖いもの知らずといえばそれまでだが、アンナには分からない。

「私が怖いなら、近づかなきゃいいじゃない」

 むっとしながら、アンナが言えば孝之は首を振る。

「アンナさんが怖いんじゃないです」

「なら何が怖いの」

 素直に聞く。

 孝之ははっとしたような顔をしてから、首を傾げる。

「何が怖いのでしょうか」

「知らないったら」

 考えたことも無かったのか、孝之は考えていた。アンナのことを、話しかけるまで怖い人だと思っていたが今は怖くない。なのにどうしてか、漠然と常に警戒をする。アンナに対してなのかは分からない。

 脛をけられたがそれを怖いと思う事は無かった。怖いというよりも、驚きの方が強い。それに、アンナに心を許されているように思えた。

 甚振るというよりも、じゃれつく方が正しい。そう思うと、孝之にはアンナが猫のように思えた。こんなことを口にすれば脛どころではないなと思って、口を噤んだ。

 孝之の考えていることに興味を無くしたようなアンナは矢張り猫のように思える。



 出席日数を稼ぐ程度に登校をしていたアンナが連日登校していることに、クラスは緊張感を抱いていた。クラスメイトにとってアンナは爆弾だった。

 遠目に見て、気分を害していないか確認するストレスの素だ。

 アンナは退屈そうに、窓際の自分の席からグラウンドを見ていた。その横顔は、黙っていれば矢張り美しいものだと誰かが言った。

「藤村さん、最近学校によく来るよね」

「来ちゃいけないってこと?」

 話し掛けられ、アンナはじろりと睨みあげる。話し掛けてきたのはクラス委員長を務めている活発な女子生徒だった。

 委員長は短く切り揃えられた髪を撫でておかしそうに「そんなこと思ってないし、言ってないでしょう。藤村さんって被害妄想激しいよね」

 被害妄想、その言葉にはっと目を見開いて委員長を見上げた。

「誰も藤村さんのこと、悪く思ってないよ。仲良くしてみたいって思ってるくらい」

 何でも御見通しと言わんばかりの委員長に、アンナは目をそらして、何も言うことが出来ない。人見知りという訳ではないにしても、大人びた、けれども見下す様子も無い委員長に何を言えば良いのか分からなかった。

 思わず無視をしてしまったアンナを、委員長は気にした様子はない。

「牧瀬!」

 呼ばれてから、アンナにじゃあね、と言って友人の輪に入り込んでしまった。

 グラウンドに目を戻す。

 クラスメイトの視線が痛いが、それ以上に委員長の言葉が刺さった。

 ずっしりと重たくなった心とは真逆に晴れ渡った空が憎い。



 仲の良い友人グループはこそこそと話していた。普段は姦しいくらいの声量が嘘のようだ。

「牧瀬、よく藤村さんと喋れるわね」

「本当。大丈夫だった?」

 委員長は、けらけらと笑い飛ばす。

「なにそれ?藤村さんってとても可愛らしいじゃない」

「そりゃあ、見た目は悪くないけど」

「中身の話」

 気になるなら直接話してみなさいな。そういって優越感に浸りながら、牧瀬は女子の輪から抜け出した。

 牧瀬は藤村アンナが怖い女子とは思えない。確かに、他の生徒とは異なる雰囲気がある。暴力沙汰を起こしている。刺々しく、目を吊り上げて周囲を威圧する姿は近づきがたい。

 しかし、先ほどの眼を真ん丸にして、自分を見上げてきたアンナを思い出す。きっとあの無防備な姿が、本来の藤村アンナだ。

 また話してみたいな。今度はもっと藤村さんの話が聞きたい。そういえば、最近は立花くんと仲がいいみたいだけど、聞いたらどんな反応するのかしら。怒る?それとも呆れる、もしかしたら照れるかもしれない。

 牧瀬はそんなことを考えて、ちょっとだけ嬉しくなる。

 藤村アンナは恐れられているけれど、きっと誰からも憧れているアイドルだ。その証拠にみんなが藤村アンナを羨ましく思っている。



 落ち着いた喫茶店を見つけてきたのは孝之だった。学校からも、駅からも半端に距離のある小さな喫茶店だ。パンケーキやパフェなんて洒落たメニューはない。老夫婦が営み、年配の常連客が常にいる小さな喫茶店だった。

 アンナと孝之はその空間の中では浮いていたが、可愛がられていた。慣れない優しさにアンナは気恥ずかしくなり、可愛くない反応をしても、年配の彼らは見透かしてするりと距離を測る。

 腹が立つのではない、苛立つのではない。ただ恥ずかしい。そんなアンナを見る目が生ぬるい孝之に対しては腹が立つので脛をける。

 最近は、孝之もアンナに慣れたようでちっとも反省をする様子を見せない。

 弟子とはなんだったのか。アンナは思うが、こだわっているわけでもないし、抑々弟子と認めている訳でもないのだ。だから黙った。孝之もまたそれを分かっている。

 友人とは言い難く、知り合いや顔見知りというそっけなさも無い。名をつけるには不明瞭な関係だ。

 入口から奥の席が、すっかり高校生二人組の指定席となっていた。

 二人は何をするでもなく、場所を求めて辿り着いた喫茶店で時間を過ごした。喫茶店が閉まるのは夕方の五時ごろだから、放課後からその間、殆どを過ごしていた。

「アンナさんは、すごいなあ」

「なに?急に」

 孝之はしみじみとした風に言う。

 アンナはぼんやりと店内に流れるクラシックについて、何の曲だったのかを考えていたため反応が遅れた。

「僕はとてもじゃないけど、アンナさんのように振る舞えないなって思ったんです。どうやっても、人の眼が気になるし、人とちょっとでも目が合うと不安になるんです。僕は変なことをしているのかな、って。自意識過剰って言われらそうなんですけど」

 トーストの食べカスを付けながら言う。アンナが自身の唇の右端をちょいと示せばはっとして照れたようにナプキンで拭った。

「まあ……自意識過剰でしょ」

「そ、そうですね」

 アンナも、悪意に対しては敏感であるが、人の感情に機敏なわけではない。人を気遣って生きていれば、暴力装置と揶揄されることも無かったのだ。

 何故そんなことを孝之が口にしたのかは分からない。

 昼間に委員長に言われたことも、苦しかった。鎧のスキマを抉られたような、見られたくない部分を見られたような痛みを覚えた。だから、つい口にした。

「人って、他人のことなんて対して見てないよ。自分のことだけしか考えてないんだから。他人のことなんて気にかけてない。まあ、嫌いとか好きとか区別はあるのでしょうけど。」

「そ、そうかあ……好きか、嫌いか……かあ……」

 がっくし、とでも言うように孝之は項垂れた。人に対してはその二択しかない。アンナは残念そうにする孝之が不思議だった。

「好かれたいの?」

「嫌われたくないだけです……」

「別にいいじゃない。他人なんだから。好きだろうが、嫌いだろうが、どうってことないでしょう」

 この話はおしまい。そう言わんばかりにアンナはカフェオレを口にした。追及することも、何もせずに孝之はそのままに流される。

 温度の無いアンナの言葉が、寂しかった。



 昨日のからりとした天気が嘘のような土砂降りだった。薄暗い、使われていない準備室で孝之は膝を抱える。

 孝之がしまったと思ったときには遅かった。

 自分をおもちゃのようにしてきた連中は、ニタニタと笑っていた。ガチャリと音がしてから、うんともスンとも言わない。

 ずっと狙っていたのだろう。ここ1カ月ほどは腰巾着のように、アンナの後ろを付いて回っていた。それが不快だったのだろう。

 クラスメイト全員が、グルだった。

「立花、準備手伝ってくれる」

 そう有無を言わせなかったのはクラスでも可愛いと評判の女子生徒だった。下心があった訳ではない。しかし、彼女の頼みを断ると角が立つようでこわかった。

 のこのこと準備を手伝いに行った矢先で、この有様である。

 埃っぽく、黴臭い教室だ。

「早く見つけてくれるといいけど」

 最悪、窓でも割ろうか。二階だが、捻挫程度で済めばいいか。

 孝之は抱えていた膝を下して壁にもたれかかる。壁にかかった時計は止まっている。携帯電話も持ち歩いていない上に、生憎の天気で時間は分からない。

 孝之は人に嫌われることが怖いのだ。だから、嫌われないように過ごそうとする。曖昧に自分を濁して、場に溶け込む。人に嫌われることはないが、好かれることはい。孝之は都合のいいおもちゃにしかならなかった。

(幼稚園の時だっけ?)

 その時はキャラクターのなり切りごっこだった。特撮キャラになりきって遊ぶのに、孝之はいつもやられ役だった。僕も正義の味方が良いと言えばお前は弱いだろ、とさせてもらえず、泣けばからかわれる。

 あの時から変わっていない。

 目頭が熱く、鼻の奥がツンとする。

 放り出していた膝を抱え、顔を隠した。

 ガチャリと音がしたが、空耳だ。

「立花?」

 アンナの声がするが、空耳だ。

「何やってんの。出るよ、埃臭い」

 アンナは爪先で、立花の足先を小突いた。のろのろと顔を上げた立花は泣き出す前で、慰めるような言葉も出ずに、急かすしかない。

「ほら、行くよ」



 孝之が発見されたのは放課後になって、日が暮れてからだった。雨は未だ降っている。部活動も終わっていて、生徒の姿は見えない。

 こんな時間まで、アンナは孝之を探していたのかと、申し訳なさと不甲斐無さに驚きで止まっていた涙が出そうになる。

 閉じ込められていた孝之は、子どものように酷く情けない顔をしていた。アンナはどんな言葉を掛ければいいのか分からず、そんなことを考えている自分が情けなかった。

「僕は、アンナさんみたいになれないんだなって思ったんです」

 そりゃあそうだろう。孝之は人を傷付けられない。その痛みを同じく感じてしまう、アンナとは違う。優しい人間だ。

 廊下を歩いていたアンナは振り返って、何かを言おうとした。それを遮る。

「すいません、助けてくれてありがとうございました。迷惑かけてごめんなさい、さよなら」

 孝之は初めてアンナの言葉を待たずに背中を見せた。アンナは唇を噛みしめてその背中をにらんだ。

 ぽつりと取り残される。

 雨の止む気配はない。



 とうとう母親が家を出て行った。父親は随分と前から愛人と別宅に暮らしている。広い家で、アンナを痛々しく腫物のように扱う家政婦が疎ましい。

 自室ですら落ち着かない。

 あの後から、孝之が学校を休んだ。理由は分からない。もしかしたら、アンナがとどめを刺したのかもしれない。遣る瀬無く、アンナも学校に行くのを止めてしまった。

 早くも十日が経つ。

 それでも、気がかりだったのは孝之のことだった。

 いじめられていると言っていた。けれど、何も言ってこなかった。助けてと、頼られたい訳ではない。

 胸がずきずきとする。痛い、悲しい、苦しい、つらい、名前をつけられない混ぜこぜになった感情が沸き起こる。

 一人でいることは楽だったけれど、好きだったわけでない。ただ慣れていただけだ。強がることが得意なだけだ。



 閉じ込められてから暫くして登校した孝之は、クラスで孤立していた。以前ならば自分を惨めに悲しく思っていたことも、そんなことを考える以上に見掛けないアンナのことが気がかりだった。

「藤村さん、最近学校に来ていないんだけど何か知らない?」

 ちょいちょいと呼びとめてきたのは牧瀬だった。孝之との接点はない。強いて繋がりがあるとすればアンナだった。

 牧瀬が不安を浮かべた顔で言う。

「最近は毎日登校してたから心配で……先生も何も聞いてないみたいだし。何かあったのかしら? 立花くん、何か聞いていない?」

「僕は、何も」

「そう……。何もなければ、良いのだけれど」

 外はどんよりと重く曇っていた。ここ最近、快晴を見ていない。

 何かあったのかな。不安に思ったが、連絡の手段がない。



 夕日が沈んでいくのを自室で見ているとインターホンが鳴った。宅配を頼んだ覚えはない。対応していた家政婦がアンナを呼ぶ。誰なのか見当もつかずにアンナは、のこのこと一階に降りて玄関を見てぎょっとしてから、頭に血が上るが分かった。

「なんで、あんたがいるのよ」

「だって、アンナさん学校に来ないし連絡先も知らないから」

 孝之はボサボサ頭を掻きながら、急に来たのはごめんなさいと謝る。そんなことを謝ってほしいわけじゃないのだ。でも、何を謝ってほしいのか分からない。アンナは孝之を突き放す。

「あんたには関係ないじゃない」

「でも」

「もう私と関わんないんでしょ」

 言ってから、首を絞められたような苦しさを覚える。

「僕そんなこといっていませんけど」

 不思議そうに、孝之が言うものだからアンナはカチンと、子どものようにむきになって、

「いった!言ったわよ!ありがとう、ごめんなさいって」

「そりゃ、巻き込んでしまったから謝るし助けてもらったからお礼を言うものでしょう」

 当たり前のことだと言わんばかりに言うものだから、そうかも、とアンナは思ってしまう。ちょっと歩きましょうか。そう言う孝之にアンナは頷いてしまった。野次馬のように見てくる家政婦の視線があった。

 アンナははっと自身の格好を見る。部屋着だが、おかしくはない。それにほっと胸をなでおろした。

 先に歩く孝之の影が長く伸びている。

「なんで学校来なかったのよ」

 次の日も、その次の日も孝之は来なかった。休みを挟んでも来なくて、アンナはそのうち孝之を探すのを止めてしまった。嫌われたのかと思った。傷付けたのかと思っていた。

 孝之は、バツが悪そうに答える。

「親戚が倒れて、田舎にかえってたんです。ちょっと遠いのと親戚づきあいやらそれで、結局そのまま休んでしまったんですけど」

「え、あ……ごめん」

想像もしていなかった事情にアンナは謝った。それを孝之は止める。

「高曾祖父で106歳の大往生ですし、本人が満足そうな顔をしていたので滅茶苦茶に悲しくはないんです」

 呆気なく言う孝之は、アンナを気遣うつもりのない、本心を言う。それにアンナは少しだけ落ち着いた。

「それに、恥ずかしいじゃないですか。泣いているところ見られるなんて」

 何かを言おうとして、何を言えば良いの分からず、口を閉ざした。

「私は、あんたが思うよりも強くない」

「はい」

「それに一人は楽だけど、好きじゃないし」

「はい」

 何を言いたいのかアンナ自身もわかっていない。纏まりのないアンナの欠片をこぼしていく。孝之が、強いアンナを求めているのなら、違うのだと言いたかっただけかもしれない。アンナは弱い。弱いから、人を傷付けられた。

 それから、アンナは口を閉ざした。

 孝之は初めてアンナがか弱い女の子だと思った。酷い話、それまでアンナのことを女の子だと思っていなかった。女の子である前にアンナという個だった。

 かわいそうな人なのだ。美しいほど優しい心を持っているのはアンナなのだ。優しい心を守るために、アンナは女の子である前にアンナになったのだ。

「いつもの喫茶店に行きましょう。おじさんたちも心配してるんです」

 孝之はなんてことの無いように言う。

 頼りない背中に飛びついた。孝之はふらついてから、踏ん張って、アンナを受け止める。

「アンナさん、どうかしたんですか?」

 アンナはどうしようもなく、苦しくなって、嬉しくなって、誤魔化すように、抱きついた。

 何も言わないアンナを、孝之はへらりと笑ってそのまま歩き出す。誰かに見られたら笑われるかもなんてちっぽけな見栄も無かった。

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