ダメなやーつの探偵ごっこ
その噂は、いつの頃からか生まれていた。
いわく、「この街には、誰でも助けてくれる探偵がいる」。
『クロ』。
その名の由来は、黒幕からとも、ブラックリストからともいわれているが、真実は誰も知らない。
今までも。そして、おそらくこれからも――――。
浜松は、名古屋が近いということもあってか、喫茶店のチェーン店が多い。どの店も午前中にはコーヒーにトーストが付いてくるモーニングセットを行っており、そのコストパフォーマンスの高さに惹かれて、俺もよく利用している。
トーストなんてありきたりなメニューではあるが、喫茶店のものに慣れてしまうと、市販のパンを家で焼いて食べてもどこか劣ってしまう気がする。
俺が待ち合わせ場所に選んだのは、トーストが一番気に入っている店だった。
時刻は十四時を過ぎていて、ところどころの席で主婦が談笑し、スーツ姿のサラリーマンが休息している。
残念ながら、モーニングという時間帯ではない。
俺は近くに客のいない隅の席を選ぶと、珈琲とトーストを注文した。
基本的に、麻雀を打っている最中に食事をすることは、あまり好きではない。付け加えて言うと、麻雀中に同卓者が食事することも好きではない。おおよそ十五時間ぶりの食事だった。
しばらくしないうちに、珈琲と分厚いトーストが運ばれてくる。
こんがり焼けた表面に、たっぷりとバターとジャムを塗る。焼きたてのトーストのザクザクとした食感よりも、ジュワッとした食感が好きだ。
幼い頃はチーズをのせたり具材をトッピングしてピザトーストにしたりしたものだが、大人になるとチーズは酒のツマミという感覚になってしまった。
ゆっくりと食事をしたいところだが、いつ、待ち合わせ相手が来るかわからない。
トーストを一気にたいらげると、珈琲を一口。煙草に火を点ける。
一息つくと、俺は自分を『クロ』に切り替える準備についた。――――いや、成りすますといった方が正しいだろうか。
少女は泣いていた。まず間違いなく、『クロ』に救われることを望んでいる。
果たして、俺なんかが力になれるだろうか。
カスでクズでダメな人間が出来ることは限られている。
だが、出来ません。出来ませんでした。は通用しない。
紫煙が漂う。
まるで俺の心境を表すかのように、中空を彷徨っていた。
「クロさん、ですか?」
声をかけられて、ぎょっとする。
気が付けば、自分の目の前に女の子が立っていた。
紺色のブレザーを身にまとった少女が、不安気な面持ちでこちらを覗き込んでいる。
「ああ、そうだが」
煙草の火を灰皿にもみ消して、再び少女に顔を向ける。
「君が七海香織さんかな?」
少女は、こくんと小さく頷いた。電話では気持ちが昂っていたようだが、ここに現れるまでの間、少しは落ち着いたのだろう。陰を差した面持ちが、崩れる様子はなかった。
人前で泣き出されたら、たまったもんじゃない。とりあえずは一安心といったところだ。
「座りなよ。何か飲みたかったら好きなものを注文するといい」
促されるままに、七海香織は俺の向かいの席に腰を下ろす。しかし、それだけだった。
「……」
「……」
「……」
「……」
静かに時が流れる。
気まずさが、半端ない。
これはこれで訳ありムードが漂ってしまっているのが、妙に居心地が悪かった。
しばしの沈黙の後、俺は所在無くアイスコーヒーを追加で注文する。
周りの会話だけが、やけに耳に入った。自慢話。家族への愚痴。第三者への悪口。今日も日本は平和なようである。
それから数分後、七海香織の前に注文した品が運ばれてくるが、それでも彼女はうつむいたままで何かを語りだす気配はない。
女性の店員がアイスコーヒーを運んできた。
鈴木さん。俺がこの店に通い始めた頃から既に働いていた、スレンダー体型の女性である。おそらく、向こうも俺の顔を知っているだろうと思う。今まで一度も、会話とよべるほどのやり取りを交わしたことはないが。
下世話な状況を想像したくなるこの場において、鈴木さんはそれでも表情を変えず、六割ほどの笑顔で「お待たせいたしました」とアイスコーヒーを七海香織の手元に置いた。相変わらず、プロフェッショナルな接客ぶりだった。
このあたりが、話しかけるタイミングかもしれない。鈴木さんが去ると、俺はようやく口を開く。
「ここの珈琲はアイスでもホットでもおいしいから、是非試してみてくれ」
七海香織は、ぺこりと一つ頭を下げると、テーブルに常備してあるガムシロップとミルクを一つずつアイスコーヒーの中に入れる。
「要件は、話したくなったら話せばいい。どうせ暇を持て余していたところだ。若い女の子と相席で珈琲を飲めるなんて、オッサンにとっちゃそれだけでも喜ばしい限りだからさ」
「……オッサン?」
ついに、七海香織が口を開く。
「これでも今年で三十になる」
別に自慢ではない。ただ単に、二十代前半と思われることが多いだけだ。コンビニでオバチャン店員がレジにいたときには、酒や煙草を買うときに大体、身分証明証を求められる。七海香織も、やはり例外ではないようで、俺の年齢には驚いた様子だった。
「惚れるなよ?」
冗談っぽく言うと、七海香織の口元が綻ぶ。それを機に緊張が解けたのか、少しずつ口数が多くなる。
「……もっと、怖い人をイメージしてました」
「俺をか? まさか。ただのダメな奴だよ」
「――――でも、『伝説の探偵』、なんですよね?」
それは、再確認だった。今、目の前にいる人物が信頼に足る存在であるのかどうか。
今更、違うとは言えなかった。
「ああ。そうだよ」
浜松の都市伝説のひとつに数えられる、伝説の探偵クロ。
正体不明。しかしながら、助けられた人は確かに存在する。そんな、あやふやな人物。
正体不明だからこそ。あやふやだからこそ。
――――俺のような人間でも成り代わることができている。
「……私の兄が、ギャンブルにハマっているんです」
「ギャンブル、というと?」
一般的に賭け事というとパチンコや競馬が連想されるが、浜松という場所を考えると近場にオートレース場と競艇場がある。決めつけるのは早計というものだ。
「よくわかりません。でも、色んなものに手を出しているとは聞いてます」
「家の金に手をつけるほどにか」
七海香織がこくりと頷いた。俺にとっては珍しくもない話だが、当事者を前にしてそれを口に出来るほど愚かではない。
「前はそうじゃなかったんです。真面目な、周りの人からも尊敬される人だったんです。でも、兄が進学する直前に父の経営している会社が経営難に陥って、急に学費が払えないことになって――――」
マーフィーの法則なんてものがある程だ。不運というものは連鎖して起こる。それも、次々と絡み合うように。我が身でそれは幾度となく経験していた。
「それで、俺にどうして欲しい?」
聞くまでもなかったが、一応の確認である。依頼があってはじめて、探偵は行動を開始する。
「兄を――――」
「おいおい。クロちゃん、こんなとこで何やってんだ」
少女のか細い声が、野太い声に上書きされる。
声の主は、プラスチック容器に入ったカプチーノを片手に、強面をこちらに向けていた。
偶然居合わせたら顔見知りを発見したという感じだろうが、あまりにもタイミングが悪すぎる。
「無職のくせに女の子と逢い引きか? 祥子に言いつけっぞコラ」
原岡のおっちゃんは、浜松駅南口、通称『エキナン』にある飲み屋の店主だ。普段から乱暴な口調ではあるが、今は怒気も上乗せされている。援助交際か何かと疑われている可能性が高かった。
「自分の身分もわきまえずに昼間っから遊んでるようなら、店のツケの期限早めっぞ」
「おっちゃん、今はちょっと立て込んでてさ。話は今度店に行ったときに聞くから……」
見れば、七海香織はおっちゃんと俺を前にして半ば呆然としていた。無論、店内中の客の視線も集めてしまっていた。
「いんや! テメエには前から一度ちゃんと話をしたかったところだ。いい機会だから俺に付き合え」
うわあ。この人、空気読む気ねえ。
「あの……無職って、この人、『クロ』なんじゃ?」
七海香織が、恐る恐る口を開く。おっちゃんは、自分より二回り以上離れた少女に対して、わずかにトーンを抑えながら答えた。
「あ? そりゃ、クロちゃんはクロちゃんだが?」
「いえ、あの、そうではなくて、伝説の探偵の――――」
「あぁ?」
マズイ。俺が思ったのも束の間、おっちゃんは、一呼吸おいて、少女の問いの意味を理解する。
途端、静かに有線が流れていた店内の空気を引き裂くように、ガハハと豪快に笑い声をあげた。
「こいつが伝説の探偵ぃ? そいつぁ面白え冗談だっ! クロちゃんはただの無職のアンちゃんだよ!」
「え? え?」
「そもそも、『伝説の探偵クロ』は三十年以上前からいんだよ。こんな若造なわけねぇだろうが」
おっちゃんは、生まれも育ちも浜松だ。クロの話はもちろん知っていたようだったが、それゆえにその矛盾も当然のように指摘できた。
七海香織もまた、それを言われてはっと気づいたように目を見開く。
これはもう間違いなく、危険な展開だった。
「失礼します」
七海香織はすっと立ち上がる。明らかに機嫌を悪くしていた。
騙された。そう思われてしまうのは、仕方がないことだった。
慌てて言葉をかけようとするが、俺に一瞥をくれることもなく立ち去る姿に、声を失ってしまう。
「何だかよくわからねえが、ちょうどいい。そこに座れ。俺が人の在り方について話をしてやっからよ」
経緯を知るよしもないおっちゃんは、今まで七海香織が座っていた場所にドスンと腰を下ろす。
エキナンにある居酒屋『水月』名物、「おっちゃんのお説教」が昼時の喫茶店で行われようとしていた。