ダメなやーつは跳満振り込んだ
前置きとして、俺はダメなやつである。
一般的な三十歳といえば、職場では中堅に位置していてある程度の稼ぎがあり、家庭を持っていて、子供の一人はいてもおかしくない頃だ。いわゆる、十代の俺が理想としていた姿がそれである。
しかしながら、今の俺は――――。
「ロン」
平日の昼間。空調の音が静かに響く雀荘に、その声はあがった。
東一局の四巡目。俺が何気なく『二筒』を河に切った所で、向かい側に座している男が手馴れた手つきで手牌を倒す。
「タンピン三色赤赤。一万八千」
その局のドラは『白』。序盤にして、気配の無い親への放銃だった。
第一打から二~八までの中張牌をバラ切りしている場合は、聴牌が早そうな気配をまだ感じとれるものの、親の河には字牌しか並んでいない。
あまり好きではない言葉だが、「誰が打ってもおかしくない」跳満だった。
現に、両隣に座っている男たちも数瞬の間、唖然としている。
俺は自分の点棒入れの中から、赤い棒と一本、黄色い棒を二本出す。一万点棒と五千点棒だ。
二千点のお釣りをもらい、残りは七千点。背筋に冷たいものが走る。
一人で遊べるフリー雀荘には、大体が客が麻雀を打っている卓の傍に、『メンバー』と呼ばれる店のスタッフが立っている。客への飲み物の提供や、麻雀のスムーズな進行を助けるのが彼らの主な仕事だ。
顔馴染みの若者の『メンバー』が気付くよう、俺はわずかに手を挙げた。
「悪い。この回終わったら抜けるわ」
嫌な予感というものは、大抵当たるものだ。特に俺のは。その半荘、俺は何事も出来ず四着のまま終った。麻雀とは四人でやるものだから、すなわちビリである。
静岡県浜松市。長年過ごしてきた東京から、生まれ故郷に逃げるように越してきて、今年で五年目になる。
最初は、心機一転のつもりだった。新天地で一から出直して、真っ当に生きることで、過去の清算を目論んでいた。
だが、それも過去の話。結局、今でも俺は無職のままでいる。もちろん安定した収入などない。
そんな状態で数年間も生きていられるのは、あくまでも運が良かったとしか言いようがない。
果たして本当に運が良かったのかは、微妙なところだが。
そんなわけで、特に危機感もないままに遊び歩く日常は、現状、変わりそうもなければ変えるつもりもなかった。
おもむろに、ジーンズのポケットから、色褪せた茶色い長財布を取り出す。
チャックが壊れかけた小銭入れの中には、五百円玉と百円玉が合わせて数枚。紙幣を挟むスペースには名刺とレシートのみ。
寝酒くらいは買えそうだ。
長財布をしまうと、胸ポケットから『マイルドセブン』を取り出して咥える。
――――今日も、ダメなやつのダメな日常が続こうとしていた。
浜松といえば、政令指令都市ということもなり、そこそこ名の知られた街だ。とはいえ、やはり駅の付近でもなければ平日の昼間は閑散としている。駅から五kmも離れていれば、大体が見た目だけ整備された田舎だ。
ほんの数人のジジババとすれ違うだけで、住処としているマンションに辿り着く。
『パークサイドヒル浜松』。三年前から始まった小規模な開発の一端で建てられた、五階建ての白塗りの建築物。パークと冠しているので、隣には一応公園がある。
公園とはいっても、近年の子供への安全性考慮の流れのせいか、遊具が何一つ無い運動場のような広場だ。土日ともなれば、フリスビーで遊んでいる家族がいたり、ペットを散歩させている人がいたりとそれなりに賑わっているのだが、今の時間は誰一人としていなかった。
マンションのロビーを抜けて、一階で待機していたエレベーターに乗り込む。
近年の高齢化現象のあおりだろう。ベッドに寝た人をそのまま乗せられるような、だだっ広いエレベーターだった。
ほんの数秒の浮遊感の後、三階に到着した。
エレベーターを出てすぐ左側の301号室。『桐条』とネームプレートが掲げられた部屋の扉の前に立つと、取り出した鍵で開錠する。
ドアを開けるときは、いつものように無言だった。
同居人は働いている時間だということもあったが、たとえ家にいる時間だとしても、俺はおそらく何も言わないだろう。
やはり、玄関に靴は無かった。
ユニットバスへの扉と俺の部屋の扉を通り越して、とりあえずリビングに立ち寄る。
俺もそうだが、同居人は飾り気のある部屋が苦手である。
リビングは、36型のプラズマテレビとテーブル、ソファーが二脚しかない簡素なものだった。
テーブルの上には、メモ用紙と一枚の高額紙幣が置かれていた。
『今日は仕事につき帰宅せず』
普段、携帯電話を持ち歩くことが少ない俺を理解した上での書置きだった。確かに、今も俺の携帯電話は自分の部屋の充電器にささったままである。
一緒に置かれたお金は食事代のつもりなのだろう。
俺は、メモ用紙と紙幣を掴むと、ジーンズの中に無造作に突っ込んだ。
わかりやすく表現すると、俺はヒモである。さらにいうなら、間男である。
我が主である桐条祥子は、結婚四年目の女性なのだが、旦那は長期海外出張中で、自分自身も仕事を持っていて帰らない日が多い。
そんなわけで家を空けておくことが多いから、良かったら住まないかと言われたのが一年前のこと。
当時、漫画喫茶で寝泊りする生活が続いていて、疲弊していた俺は即断即決したことを今もまだ覚えている。
3LDKの間取りにおいて、一つは祥子の部屋、一つは旦那の部屋として、一部屋空いているということで今は俺の部屋として使わせてもらっていた。
これが、俺の運の良さの結果である。おかげで、危機感が訪れることもなく今もダメなやつとして存在していられる。
結婚願望がなければ、贅沢に暮らしたいわけでもない。今、生きていられるならそれでいい。
情けない。下らない。馬鹿で阿呆で愚かで間抜けでカスでクズでゴミのゲス野郎。
本当に、ダメなやつだ。自己嫌悪の塊。それが俺だった。
折りたたみベッドの上で横になりながら、コンビニで買ったチューハイを喉に流し込んだ。最近は、流行もあってかアルコール度数の高いものが多く出回っている。特に酒好きというわけではないが、安価にすぐに酔えてすぐに寝られるのは助かるところだ。
二本目の缶を空けたところで、不意に、枕元に置いてあった携帯電話からメロディが流れた。
昼時。普段、目を覚ます時間である。設定解除を忘れていたアラームだろうかと思ったが、どうやらそれは着信音のようだった。
普段持ち歩かないだけあって、俺の携帯電話に着信やメールが来ることは滅多にない。はっきり言ってしまえば、アドレス帳には二件しか登録されていない。思い出せる限り、およそ数週間ぶりの着信だった。
画面には、080から始まる電話番号が表示されている。見覚えのない番号だった。
酒を飲んで寝ようと思っていたところだ。そこそこアルコールも入っている。電話に出ない、という選択肢もあった。
しかし、なんとなく、ほんの気まぐれで、俺は通話ボタンを押してみることにした。
〔・・・・・・もしもし〕
聞き慣れない声がした。響きは、若い女性だった。
間違い電話だろうか? それにしては、声の感じに警戒心が混ざっているのが気にかかった。しかも、相手が名乗る様子はない。
背筋に冷たいものが走る。
〔あの・・・・・・あなたが、クロですか?〕
やっぱりか。俺の嫌な予感は当たり過ぎるから困る。
否定するのは簡単だった。違います。その一言で全てが終わって、俺は再び酒を飲んで寝ることが出来る。
そう。簡単なら、否定しておこうじゃないか。
「ちが――――」
〔・・・・・・っ〕
言葉が遮られる。電話の向こう、女性、いや、おそらく少女は、突然声を殺して泣き出す。
電話がつながったことが、それほど嬉しかったのか。電話の相手が、目当ての者だという保証はまだないというのに、電話がつながったということが、少女にとってはそれほどの救いだったのか。
片手に持っていたままだったチューハイの缶を握り締める。べコンという軽い音がした。
「話を聞こう」