6話 少年レグルス
リートバイト領へ勉強に来た俺は浮かれていた。
思い返せば、教師であるギシェルと違い何かを見に現地へ行くなどした事がなかったのだ。知識を得たければ教師がやってくる。物を知りたければ実物を取り寄せ、それが出来なければ絵画で学ぶ。遠出したとしても狩りや遠乗りで王都周辺が精々だった。だから見知らぬ土地に滞在する事に期待を膨らませて、不覚にも寝不足であった。
「殿下、以上が屋敷の案内になります」
その影響か目の前に居るリートバイト伯の説明を聞き流してしまう。気づけば伯爵邸の案内が終わり見知らぬ場所に居た。これは失敗した。寝不足に加え浮かれていたとは言え、師事しに来た相手の説明を最初から聞いてないのはまず過ぎる。
「何かご不満な点がありましたら、可能な限り改善いたします」
俺が黙っているとリートバイト伯が頭を下げてしまう。不満があると勘違いされたようだ。しまった。状況が悪化した。これでは聞き逃していたなど、とてもじゃないが言えぬ。
自らの失敗を心中で後悔していると、そもそもの原因たる白髭の顔が浮かぶ。続いて滞在の目的の一つを思い出した。
「リートバイト卿、出来ればご息女にお会いしたいのだが」
「わかりました」
顔を上げ直ぐに先導してくれた。気のせいか上げた時の顔が、先程までよりもより笑顔だったような。失敗した覚えはあるが、伯の好感を得るような事をした覚えはないのだが。
それが気のせいだろうと思った頃に、伯から質問を投げかけられた。
「殿下は娘のミリアリアと話がしたいと伺っておりましたが、理由を教えていただいてもよろしいでしょうか?」
「うむ。構わん。教師であるギシェルからミリアリアと話すと為になると言われていてな」
「ギシェル殿ですか」
「あぁ、ミリアリアの教師も勤めたと聞いているが」
「その通りです。すると娘と話したいと言うのは勉学の為ですか?」
「そうだ」
師事する相手からの質問なので思う所を偽りなく答えたのだが……。今度は少し笑顔が曇ったような気がする。何故だ。
ミリアリアの部屋を訪れて、椅子に座り部屋を見渡す。
棚には多数の本が仕舞われていた。蔵書の数は凄まじく、図書館でも開くつもりかと問い質したいほどだ。見回してわかったが娯楽本ばかりではなく、中にはサクライス建国記や女神フィリア教の教本などもあった。歴史学だけではなく神学まで修めているようだ。
蔵書の数に呆れ、本の多彩さに感心し、どちらに心を置けばよいのかわからぬままに部屋の主に目を向ける。窓辺の椅子に座り本を読んでいる少女。ミリアリア・ルーデ・フェス・ラ・リートバイトへと。
長い茶色の髪は手入れが良いのか外の光を反射して輝いていた。静かに本のページをめくる仕草は無駄がなく優雅ですらある。優しげに微笑んでいる横顔は大人しい色合いの衣服と合っていた。その姿は、そこが彼女の居場所だと言うかのように絵になっていた。
本を読む姿が似合っている。それは認めよう。前にギシェルが言っていたのも理解した。だが俺が居るのに平然と本を読むのはどういう事だ? 唐突な部屋への訪問であるから、自由にして良いと言った。言ったが、王族を放置して本当に自由にする奴が居るか! ……信じられん事に目の前に居るわけだが。
「おい、俺が来たと言うのにいつまで本を読んでいる」
思わずこう言っても許されるだろう。
しかし相手は特に動揺する事なく、許可を貰ったのだから当然だとばかりに返事を返す。過去にここまで興味なさげにされたのは初めてだ。何度かのやり取りの後、しぶしぶと言った感じで俺が座るテーブルへとやって来る。
年下の女の態度に腹が立つが、我慢をしてやるべき事をやらねばならない。ギシェルから話を聞いていたので忘れていたが、先日のパーティーが初対面だったのだ。だと言うのに名を名乗らぬ無礼をしていた。いくら俺が王子とは言え、初対面の相手に名乗らないのは無礼であったろう。
「俺の名はレグルス・アーデ・イル・リ・ファース・サクライスだ」
「? 存じておりますが?」
まず俺が名乗り、そして相手の名乗りを待つ。が、いつまで経っても名乗らなかった。名乗りあってない相手が名乗れば自分も名乗るものだろうに。実に察しが悪い女だ。仕方なく名乗れと催促すると直ぐに名乗ってきた。それが妙に癪に障る。
ついでとダンスの誘いを断った事を指摘すると、それも直ぐに謝罪してきた。その態度が最初の印象とあまりに違い、思わず本心を問い質した。これが俺の知っている貴族の子弟ならば謝罪からのご機嫌窺いをするのだが、こいつの答えは実に愉快だった。
「見た目が普通と言われ傷つきましたので、断って当然だったかなと思っております」
予想外であり、同時に期待通りの返事だった。俺の誘いを笑顔で断ったような奴なのだ。本心では悪いと思っているはずがない。しかし本心を問われたからと言って、本当に本心を言う奴が居るだろうか? こいつは、目の前のミリアリアと言う女は面白い。実に愉快だ。不敬な事を言われるのがこんなに愉快だとは。
ミリアリアと言う女は、ギシェルに劣らず変わった娘だった。
ミリアリアと話すのは本当に楽しかった。
リートバイト伯から学んだ事を毎晩話しに行った。基本的には頷いたり同意したりと、俺が一方的に話すばかりだった。他の貴族の子弟と同じような行動ではあるのだが、ミリアリアの場合はそれも嫌ではなく、むしろ聞いてくれるのが嬉しかった。なんとなくだがギシェルと話す時と似ていたからだろう。途中からは茶を用意してくれたので、ミリアリアも楽しんでくれてたはずだ。
本音など聞かずとも無礼な発言が増えていった。たまに言われる背の高さの事は本気で悔しかった。本を読むか弟の世話をしてるかだけのミリアリアに背丈で負けているとは! ミルクを飲むと背が高くなると言うので、翌日から茶に入れるミルクの量を増やさせた。
さすが本を読み漁っているだけあり、ギシェルに負けぬ博識だと思った。のも最初のうちだけであった。ミルクの事で感心したが、歴史や地理、他にも様々な事について質問してみた所、知ってはいるがあやふやのうろ覚えだったのだ。蔵書の多さに騙されたが、本を読むのが好きなだけであって知識を蓄えていた訳ではないようだ。ギシェルよ、ミリアリアを腹心にしたらまずい気がするぞ。
ある日、彼女に礼をする為に遠乗りに連れ出した。時間を取らせ茶まで用意させていたからだ。本当は礼と言うよりも驚かせたかっただけだが。いつもいつも微笑を崩さずに、許可を出せばしれっと毒を吐くミリアリアの驚く顔が見てみたかった。
馬に乗れぬと言う彼女を後に乗せ、偶然見つけた小高い丘へと連れて行った。そこから見る光景は素晴らしい物で、風に凪ぐ広大な小麦畑はまるで宝石のように輝いていた。生きる力とでも言うのだろうか。緑の小麦畑の力強さは、見ているだけで元気をくれた。
「素敵ですね」
「そうだろう? 俺が連れてこなかったら見れなかったんだからな! 感謝しろ!」
ミリアリアの賛辞は当然だと思った。この光景に比べれば、王城の絵画すら劣るのではないかと思うからだ。俺が見つけた最高の景色を賞賛され気分は高揚していた。
「宝物を見せくれて、ありがとう」
続いてそう言われ、ミリアリアへと顔を向けた。この素晴らしい光景を見た彼女がどんな顔をしているか見る為だ。高揚した気分のまま見たのだが、そんな気分は直ぐに吹き飛んでしまった。
風に吹かれる長い髪を手で押さえるミリアリア。笑う顔はいつもよりずっと嬉しそうで楽しそうに。俺を見る碧い瞳は優しげで、微笑みを湛える唇は鮮やかで。王城に来る貴族の娘達に比べれば、それでも地味な印象だったかもしれない。しかし風景と一体となったようなミリアリアの姿に心惹かれた。丘からの光景も、自分が誰で今どこに居るのかも忘れていた。
「後一月か二月もすれば収穫時期です。こんなに素敵な光景ですから、その時の黄金色に染まった小麦畑も見てみたいですね」
ミリアリアの言葉でハッと気づく。自分が彼女に見入っていた事に。
最高の光景を見せに来たのに、別のものに見入ってしまった自分に混乱してしまう。そのせいで夢から覚めたばかりのような、半ば自失状態で返事をした。
「……そうか。収穫時期の景色もきっと美しいのだろうな」
ミリアリアから目を放し、小麦畑へと視線を向ける。変わらず力強い息吹を感じさせる景色であった。だが自身の中に先程までのような感動は無い様に思える。
二人で景色を見ながらふと思う。
再び収穫時期に連れて来れば、彼女はまた同じ笑顔を見せてくれるのだろうかと。
ミリアリアを丘へ連れて行った数日後。今度は剣術の訓練を見学させる為に連れ出した。なんとなく彼女に見入った事が後から恥かしくなり、代わりに俺の剣技を見せて賞賛を浴びる事で払拭しようとしたのだ。だと言うのに、あの女は……。
途中から見てない事に気づいた。見てないだけならまだしも本を読んでいた。どこまで本が好きなんだ。ギシェルが歴史馬鹿ならあいつは本馬鹿だ。しかも本当の馬鹿だ。見てない事に何故か悔しさが湧いてきて、低劣な悪口を次々に考えてしまう。
そして訓練を終え彼女の方へと向かえば、あろう事かテーブルに落ちた食べ物を拾って食べようとしていた。変わった女だと思っていたが、それはさすがにないだろうと黙って見続けてしまう。そして口に入れる寸前に俺に気づいたミリアリアと目が合った。
「……」
「……」
お互いに言葉が出ない。
俺は呆れてだが、彼女は右手に持つ物を食べようと口を開けているせいだ。
「……お前は、俺を見ないで本を読んでるかと思えば、テーブルに落ちた食べ物を拾って食おうとしてるとは」
「あ、あははは」
誤魔化そうとする笑い顔に余計に呆れる。先日見入った恥かしさなどなくなっていた。むしろ見入った事が気のせいだったような気分だ。
呆れ果てて見ていたのだが、尚も食べようとしたので手を掴み止める。これはリートバイト伯に代わり説教の一つでもと思ったのだが、彼女が不思議な事を言い出した。手に持つ食べ物の事を説明しだしたのだ。最初は適当に聞いていたのだが、徐々に真剣に聞かざるを得なくなる。語る内容は、たった一つの食べ物がどれだけの労力で作られているかだ。
今まで食べ物など当たり前に食べてきた。気に入らなければ残す事だってあっただろう。王と成る為に努力はしていた。リートバイト領に来て様々な平民を見てきた。しかし本当の意味で彼らの生活、役割、努力を考えた事があっただろうか? 王族として当たり前に享受していた事が、本当に当たり前だったのだろうか?
ミリアリアの話を聞いて、ギシェルに会った時以上の衝撃を受ける。彼女はこんなにも平民の事を考え生きていたと言うのか。それに比べ俺はどうだ? 我が国の臣民である者達の事を彼女のように考えた事はあっただろうか。王とは、貴族とは、国とは。今まで当たり前に考えていたありとあらゆる物が崩れた気がした。
まるで狭い檻から開放され、全てを見渡せる神の目を手に入れたかのようだ。無論そこまで全能ではないが、自分の視野が確実に広がった実感があった。この感激のままにミリアリアの手から件の食べ物を貰い受けた。この食べ物は俺が食べねばならない確信があったからだ。
彼女にも感謝し食べようとしたのだが、申し訳なさそうに言った彼女自身の言葉で手が止まる。
「あの、後でお腹を壊しても怒らないでくださいね?」
万物を知るような彼女の言葉だったが、ある疑問が浮かんできた。もしやただ単に食べたかっただけではあるまいな? と。
領地運営の勉強と剣術の訓練。リートバイト領に来てから毎日必死に学んでいた。だがそれに体がついて来れなかったのか体調を崩してしまった。体が熱くて重く、ベッドの上で寝込む羽目になってしまう。
自己管理の未熟さを恥じつつも、医者の診察を受け症状を見てもらった。すると疲労による発熱だとわかる。寝れば治ると言うので寝ていたのだが、目が覚めた明け方に驚きがまっていた。
「何故お前がそこに居る」
ベッドに座るように体を預けたミリアリアが居たのだ。それも俺の手を握った状態で。状況を聞こうにもすやすや寝息を立てている。仕方がないので自力で状況を考える。
「もしや俺の看病をしていたのか?」
使用人にやらせずにミリアリアが看病をしたのだろうか?
貴族の子弟の中には、勉強の為にメイドや侍従として他家へ行く者もいる。なので貴族が平民の使用人のように一晩中誰かの看病をする事もなくは無いのだが。
「看病中に寝てしまったのか」
看病をしてくれた事を感謝はするが、最中に寝てしまった事はどう思えばいいのか。無礼な奴かと思えば献身的で、頭が良いかと思えば抜けている。よくわからない奴だ。寝息を立てるミリアリアの頬を空いている手でそっと撫でる。
寝ている間に母上の夢を見た。幼い頃に身罷られた母上。俺だけではなく父王や俺を疎む兄弟達にすら好かれていた。誰にでも優しく、他の王妃や妾の方とも仲良くやっておられた。俺が第一王位継承者なのは母上が第一夫人だったからではなく、父王が愛した母上の人柄故だろう。その母上が手を握ってくれたような気がしたが……。
握られている左手を見る。俺より背が高いのに随分と華奢な手だった。小さくて頼りなく、強く握れば折れてしまいそうだ。
「年下のミリアリアと母上を重ねるとはな。まだまだ独り立ち出来て居ないか」
一人ならば自分に情けなさを感じていたかもしれない。しかし握った左手から伝わる暖かさが、それも悪くないと思わせた。何故ならば。
きっと、この暖かさは一人では感じられないのだろうから。
リートバイト領での勉強も終わり、王都への帰還の時がやってきた。
王城で学ぶだけでは得られない様々な事を得たと思う。熱心に教えてくれたリートバイト伯へ感謝を述べる。この恩はいつか返したいものだ。
挨拶が終わり馬に乗り、護衛隊が待つ場所へと馬を進める。あとは部隊の中央に辿り着き出立するだけなのだが、どうにも心中がざわついてしまう。本来ならリートバイト伯への挨拶だけで十分なのだが、それでは我慢できないようだった。
馬を転進させ道を戻る。そのままミリアリアの前へと向かった。思えば彼女にはそれなりに世話になった。腹心にするほどの知恵者ではないが、一部ギシェルすらも超えた視点を持っていた。それを彼女は意図してないだろうが、教えられたのだからな。
「思ったよりも適当で変わった奴だったが、お前にも世話になったな」
「色々失礼いたしました」
頭を下げ礼をする彼女を見て苦笑してしまった。失礼な事は確かに色々されたが、それが終わりだと思うと無性に寂しくなってしまったのだ。どうやら俺はこの変わり者の貴族の少女と、もっと一緒に居たいらしい。
そんな想いから思わず言葉が出そうになる。
しかし言葉は出る事無く、再び愛馬を護衛隊の中へと進めて行った。そのまま直ぐに馬を走らせ、口から出かけた想いを振り切るようにリートバイト伯爵邸を後にする。
『共に王都へ行かないか?』
その一言がいつまでも胸の中に残っていた。