24話
ふわりと優しく王子様に抱きしめられ、零れる涙が止まっていきます。
しっかり背中に手を回し抱きしめていても、力を入れずに触れるだけの王子様。子供らしいわんぱくな少年だと思っていた男の子は、こんなにも気遣いが出来る男性へと成長していたのですね。王子様の成長に嬉しさと少しの寂しさを感じていたのですが、私の口から出たのは別のこと。
「緊張してるんですか?」
「お前は……。返答をせずに言うのがそれか」
胸に抱かれ聞こえるのは脈打つ鼓動。安心感をくれるトクントクンと鳴る暖かな音。抱きしめられたまま少しだけ落ち着いてから聴いてみると、王子様の鼓動が少し早い気がしました。
「好きな相手を抱きしめていれば、平常で居られる訳がなかろう」
「殿下も人の子だったんですね」
「はぁ、俺を何だと思ってるんだ」
顔を上げて王子様を見ると呆れています。それを見て私はつい笑ってしまいます。私が笑うと王子様も笑顔になり、優しい眼差しを向けてくれました。
昔から誰よりも頑張り立派だった王子様。見た目も相応に誰もが目を引く見目麗しい美形。全てが凡庸な私とは違う特別な人だと思っていました。
ですが彼も好きな人の前では、私と同じように緊張するのですね。きっとそれは当たり前のことなのでしょう。王子の立場を投げ捨て駆けつけてくれた一人の少年としての彼を見て、そんな当たり前のことを今更ながらに実感します。
前とは違い妃として求められた訳ではありません。言われたのは一緒に居てほしいという願い。嬉しさと少しの恥ずかしさを感じながら、王子様の腕の中でどう返事をすれば良いか悩んでいると――――大きな叫び声が聞こえました。
「お兄様! まさか本当に王族へ刃を向ける気ですか!」
声の方へと視線を向けると、見たことも無い剣幕でグロームさんと対峙するイザベラ様が居りました。
紫の髪と瞳を持つ男女。コルベール侯爵家の血を受け継ぐ二人が、敵対するかのように睨み合っていました。
「レグルス王子がここへ来なければ刃を向ける気なんてなかったさ。しかし彼は個人の感情を優先してここへ来た。残念だよ。王家に仕える最も古き貴族の末裔としてはね」
「確かに殿下の行動は王族としては間違っているかもしれません。ですが愛する者を見捨てない慈愛ある殿下は、仕えるに相応しいお方だと私は思います」
グロームさんは飄々とした口調ではありましたが、私と話していた時と違い苛立ちを含んでいるような口調です。対するイザベラ様は、言葉遣いこそ丁寧ですが語気が強くグロームさんを責めているようでした。
「いくら慈愛に優れていても、感情の赴くままに行動しては王どころか王子ですら務まらない。王族には時に肉親すら見限る冷徹さが必要だろうさ」
「そんな人に誰がついて行くと言うのですか。王族には民の平穏を願う善意こそ必要ではないのですか?」
「民だけを見ていればよいならそうだろう。だが善意に基づいた甘い判断は、時に国を割り戦乱を呼ぶこともある。政治に関心が無いイザベラはわからないだろうけど、玉座をめぐる内乱の火種だってあるんだよ」
政治に関心が無いと言われイザベラ様が黙ります。グロームさんの言うとおり、イザベラ様は政治に関心が無い、と言うよりも嫌って避けていました。ですから実際に知らないことも多数あり、火種とやらを否定出来なかったのでしょう。
「殿下を試す意図はわかりました。私が知らぬ理由もあるのでしょう。ですが何故ミリアリアを巻き込んだのです。殿下の想い人とは言え、無辜な娘を巻き込む必要は無かったのでは?」
「なるほど。確かに彼女が普通の貴族の娘だったなら巻き込むべきではなかったろうね」
「……その言い方だと、ミリアリアが普通の娘ではないように聞こえますが」
「ふむ」
グロームさんが少し考え込むように腕を組み、一瞬チラッと私を見た気がします。
「先日陛下からある布告がされた。レグルス王子が発案した政策実施のね」
「それがミリアリアと何の関係があるのですか?」
「おそらくだけど、その政策案の大本は殿下ではなく彼女が考えた物だ。それがただの政策なら問題は無かったんだろう。でも父が言うには、その政策の行き着く先は王も貴族も居ない平民が支配する国だそうだよ」
その言葉にイザベラ様が驚きこちらを向きます。その視線は言葉以上に事実を問うものでした。しかし私には殿下が考えたと言う政策がどんなものか知らず、答えられなかったのですが。
「ミリアリアに相談して意見を取り入れたのは事実だ」
王子様が代わりに答えてくださいました。政治について王子様と話した覚えはありません。何かを相談されたこともなかったように思います。そもそも頭の良い王子様の相談相手には不足する私です。だから思い当たることはなかったのに。
「平民が支配する国。王や貴族が居ない国の形が彼女の理想なんだろうね。魔法と言う力がない平民が貴族の加護なくしてどのように国を維持するかわからないけど、父が言うには彼女の中には明確に国家としての形があるそうだ」
そう言われて思い当たることがありました。私の中に昔からある記憶。平民や貴族と言った階級社会ではなく、誰しもが平等だった日本での思い出。
いつか王子様と話しました。平民の人々の生活をどう思うかを。ある時に侯爵様に語りました。懐かしい日本のことを。貴族も王族もなく、皆が自由に過ごせたあの世界のことを求めてなかったかと聞かれたら……。きっと私は求めていたのでしょう。好きな相手と肩を並べ、楽しく話しながら街を歩く情景を。
「イザベラ、レグルス王子とは関係なく彼女を表舞台から消すのが父の決定だよ。彼女の理想は平民達にとっての理想に成りかねなくて、最悪は国を越えて平民と貴族の戦いが起こるらしい」
グロームさんの言葉から私は脳裏に浮かぶ出来事がありました。フランス革命。王政に反発する市民達が起こした革命。特権階級だった王族達を市民が打倒した地球での出来事。数多の命が失われた革命と似たようなことが、私が原因で起こるかもしれないと言われ恐怖で体が震えます。
「レグルス王子が彼女の知識を利用するだけなら良かった。彼女を見捨てる選択をするなら、コルベール家は喜んで頭を垂れただろう。だが彼女の為に身を犠牲にするような方ではね。政策に彼女の理想を取り入れたことから見ても、自らサクライスの貴族社会を否定しかねない」
グロームさんの問う視線が王子様へと向けられます。王や貴族といった階級がない国を望んでいるという否定できない私の思い。その思いを知った王子様に突き放されるかもと不安になり、顔を上げて彼の顔を見ました。すると笑いかけられ優しく頭を撫でられます。
「そうだな。もしミリアリアが望むなら、王も貴族もない国を目指すかもしれない」
それは私を肯定する一言。私の為に王子である御自身を否定させているようで申し訳ない気持ちがあります。けれどそれ以上に嬉しくなります。何よりも私が大切だと言う想いが伝わってきて。
「ミリアリア、貴女、本当にそういう国を望んでいるの?」
王子様の優しい安心感に包まれていると、イザベラ様が真剣な声で質問してきました。その質問に私は答えることが出来ません。
私の中に階級社会ではない国のあり方を望む心は確かにあるのでしょう。しかし貴族の女子の鏡とも言うべきイザベラ様に、そんなことを言える筈がございません。貴族としての矜持を持って生きてきたイザベラ様を否定することになるのですから。
沈黙が答えになったのでしょうか。イザベラ様が険しい表情で目を閉じます。貴族でありながら貴族社会を望まぬ私は異端の存在。目を開けたイザベラ様からは、きっと拒絶の言葉が出るのでしょう。彼女こそ貴族の代表と言っても良い方なのですから。
友人からの拒絶を覚悟し体を強張らせた私を、王子様が少しだけ強く抱きしめてきます。そのまま少しするとイザベラ様が目を開かれました。それから柔らかに微笑み、そのままグロームさんへと向き直り。
「お兄様、お人好しのミリアリアが望むならば、それはきっと良い国なのだと私は考えます。でしたら王族も貴族もなくとも受け入れましょう。それこそが国の為に王家に仕えてきたコルベール家の一員としての私の考えです」
「……イザベラ、それは本気で言ってるのかな?」
「当然です。今以上に国が良くなるのでしたら、何を躊躇うことがありましょうか。サクライスの繁栄がその先にあると言うなら、貴族の地位に拘ることこそ害悪でしょう。国を守り繁栄させるのが貴族の役目なのだとしたら、貴族の地位に拘りミリアリアの考えを否定する者こそ討つべきでしょう」
イザベラ様の言葉は青天の霹靂。私だけではなく、王子様もグロームさんも驚きを通り越して呆然として彼女を見ます。貴族である自らを否定する言葉ではあるのですが、高らかに宣言し大地に立つイザベラ様は誰よりも立派な貴族に見えます。
「ふ、ふふふふふ、あははははははっ」
イザベラ様と相対していたグロームさんが突然笑い出しました。今までの演技のような態度ではなく、息を乱す心からの笑い声。
「何故父上がイザベラを自由にしたのかわかった気がするよ。私やリヒト様、それに父上ですら王族や貴族無き国を語られては、自然と反発したと言うのに。はは、小さくてか弱い守るべき妹だと思ってたけど、私や父上の先を行くのか。ふふ、国の為に動いているはずが、そうか、私やリヒト様は国の為ではなかったのか」
誰に言う訳でもない独り言を呟くグロームさんは本当に楽しそうでした。喋り終わるとグロームさんは憑き物が落ちたような澄んだ表情で王子様を見てきます。そして一礼してから穏やかに言いました。
「討たれるべき古き貴族として、レグルス殿下へ決闘を申し入れます。サクライス王国を守る者としましては、王なき国すら良しとする殿下を認めることは出来かねるので」
「イザベラと議論するまでもなく、元からそのつもりだったのだろう? 侯爵か兄上の命か知らぬがな」
「お兄様!」
イザベラ様が抗議の声を上げます。ですがグロームさんは決闘を行う意志を貫くつもりか、イザベラ様に視線すら向けず王子様を見たままです。
それに応えるように王子様も私から手を離し、グロームさんの方へと足を向けたのですが。
「ミリアリア、服を掴まれると動けないんだが」
「行かないでください」
「むぅ」
服を掴み行かないでと言うと王子様は困った顔をします。大好きな王子様を困らせても、私は手を離す気がありません。相手は我が国最強の戦力である魔道騎士の一人。避けられぬとわかっていても、そんな相手と決闘なんてして欲しくありません。
「もしや俺が負けると思っているのか?」
「はい」
「……相手が麒麟児と名高いグローム殿とは言え、そこは『いいえ』と言って欲しかったのだが」
ガッカリした様子の王子様の衣服をさらに強く握ります。掴んでいないと行ってしまいそうで不安だったから。けれど王子様は離れるどころか逆に一気に近づいてきて――――動けないくらい強く抱きしめてきました。
「自慢ではないが俺は誰よりも努力をしている自負がある。剣や魔法も魔道騎士であるボレアリス伯から厳しく習っている。リートバイト領に勉学に行った時以上の訓練を日々している。その俺の努力は、グローム殿に劣ると思うか?」
ぎゅっと胸に抱かれ喋れない私は首を横に振り答えます。リートバイトにいらしてた時も屋敷に紅茶を飲みに来ていた時も、日頃何をして何を思ったか聞いていたのです。王子様が努力家だと、私は良く知っています。
「だったら俺が勝つと信じて欲しい」
私の為に自身の危険も省みず、身分も投げ打ち来てくれた王子様。その彼から信じて欲しいと言う想いが伝わってきます。離れたくない。決闘をして欲しくない。そう思う気持ちは抑えられません。ですが同じくらい、いえ、それ以上に私は王子様を信じたい気持ちもあります。その気持ちで不安を押し殺し、心の中で決意します。
信じましょう。私の王子様を。
王子様の腕の中でゆっくり首を縦に動かします。すると王子様は私から離れ背を向けグロームさんの方へと歩いて行きました。しかし数歩歩くと一旦立ち止まり後ろを振り向き、貴公子ではない3年前と同じ少年っぽい自信に溢れる笑顔で口を開きます。
「ミリアリアが信じてくれるなら、俺は誰にも負けない」




