【4話・綻びを紡ぐ(前編)】/あのにます
上半身に重たい何かを感じて、私は目を覚ます。
ソファの上で寝ていた私を抱き枕にして新菜が寝ていた。
私は寝苦しいし、新菜も体勢的に厳しかろう。
私を強く抱きしめて眠る新菜の頭を小突くも、彼女は幸せそうに甘く呻くばかりであった。
新菜の名前を呼びながら乱暴に引きはがす。
私に頬を潰されて、新菜が目を覚ました。
身体を掴んでいた腕が離れて、新菜が床に落ちる。
鈍い音と共に彼女は悲鳴を上げた。
恨めしそうにこちらを見てくる。
「愛が無い、愛が無いよぉ」
「愛ならそこに置いてあったでしょ」
机の上に置いてあるレポートを指さすと、その指を新菜が握った。
「夜中に大変お世話になりました」
「感謝したまえよ」
「杏、愛してる」
「愛より現金がいい」
「冷めてるねぇ」
新菜がその言葉で思い出したかのように、身を起こしてキッチンまで這っていた。
私を見て彼女が連想したのが食パンの類であるようだった。
朝食の準備を始めた新菜が、起きてきた野乃花を見て手を振った。
室内のその狭い距離で手を振る必要があるのだろうか。
野乃花は既に制服姿に着替えていた。
新菜が疑問を抱かないよう願いたいものである。
「おはよう、野乃花ちゃん!」
「お、おはようございます」
朝からテンションの高い新菜に気圧された野乃花である。
彼女の姿を眺めながら昨夜の出来事を思い出す。
覗き見をしてしまったようで、少し後ろめたくもあるが。
気にかかるメッセージだった。
野乃花の携帯に届いていた、「真希」という人物からのメッセージ。
意味深なメッセージは、どうしても野乃花の家出と結び付けて考えてしまう。
真希という女性は何か知っている。
何らかのトラブルを抱え家出をしたことを知って連絡を取ろうとしたのではないか。
そして。
真希の言う「告白」とは何だろうか。
「杏、冷蔵庫にマスタードないんだけどぉ」
「んなもん、置いてないよ」
「ホットサンドなのにぃ!」
朝からマメだなぁと私は思った。
そもそもホットサンドを作る器具も無いだろうと思っていると、フライパンの上のサンドイッチを、皿で押し付けながら焼いていた。
器用な調理法に野乃花は感心している様子である。
言葉にしたことはないが、新菜は料理が好きなのだろうと思う。
私とは大違いだ。
大量のレトルトパウチを無造作に突っ込んだゴミ袋が、べランダを占拠していることを思い出し、ゴミを捨てに行く。
アパート近くのゴミ捨て場でカラスよけネットをかけていると恨めしそうにこちらを見るカラスの姿があった。
部屋に戻ると新菜と野乃花は既にホットサンドを食べ始めていた。
昨日の夕食で残った野菜とベーコンで作ったらしい。
野乃花が器用にフォークとナイフを使って食べている姿には気品みたいなものがあった。
「杏、講義の前に生協寄っていい?」
「良いよ、そしたら早めに出よう」
「……杏って、何食べても感想言わないよね」
「え、あ、ありがとう。おいしいよ」
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
「どういう意味?」
私の問い掛けに新菜はそっぽを向いた。
「野乃花ちゃん、おいしい?」
「はい、とってもおいしいです」
野乃花の答えに新菜は満足そうに頷いた。
私のと何が違うのだ、という不満は口に出さずにしまっておいた。
食べ終えた皿をそのまま流しに放置して、家を出る準備に取り掛かる。
急に泊まりに来てもいいように、新菜の化粧品から下着まで私の家に置きっぱなしになっていた。
気付けば新菜の私物ばかりである。
ただし服は私のを貸す。
パンツスタイルばかりの私の服では趣味が合わないだろうといつも思うのだが、新菜はそれで良いらしい。
荷物をまとめていると野乃花が私の傍に躊躇いつつもやってくる。
何かを言おうとしているのかは、その長い沈黙で分かった。
「あの、杏さん」
「杏、行くよー」
玄関の方から新菜の声がして野乃花の言葉を遮った。
新菜への辻褄合わせの為には彼女を追い出す訳にも行かず、家に居てくれとだけ言って野乃花を家に置いていく。
最寄り駅までの道を、慣れた様子で先を歩く新菜に追いつく。
駅のホームでコート姿が行列を作っていて、その一番後ろに私達は並んだ。
ホームに滑り込んできた上り列車の窓からは、既に満員の様相が見えて溜め息が漏れる。
肺の奥まで冷気を吸い込んだ。
意を決して車内に乗り込むと、車内は梅雨の様な生暖かい空気だった。
辟易する。
朝の満員電車に揉まれながら新菜が私に聞く。
「ところでさ野乃花ちゃんって昨日、泊まりに来たんだよねぇ?」
私の生返事に新菜が小首をかしげた。
「ふーん。荷物少ないなぁ、と思って」
「宅急便で家に送ってたから」
「それに今さ、高校って長期休みじゃなくない?」
答えに窮して、私は冗談めかして笑って言う。
「探偵でも始めんの?」
「杏が女の子連れ込むような人だとは思ってなかったからぁ」
「人聞きが悪いな」
私のぼやきに新菜が気の抜けた笑顔を作った。
私は問い返す。
「今日さ、午前中だけで終わりでしょ。どうする?」
「今日はハルくんと映画観に行くんだぁ」
「御デートで御座いましたか」
「そういう杏はぁ、いつ彼氏出来んの」
新菜の興味は野乃花から外れたようで、彼女の恋愛観と私への催促をつらつらと語り始めた。
私に彼氏がいないことが、新菜にとっては何故か許せない事らしく、事あるごとに恋愛の話を振る。ほぼ説教に近い。
私に彼氏が一度も居たことがない、と初めて新菜に言った時には、彼女はひどく衝撃を受けていた。
別に何の理由もないのだ。興味を示さない内に、気が付けばそういった事から向こうから距離を置かれてしまっていた。
大学に入学して一年位は、何をせずとも勝手にそういうチャンスの様な物が勝手に舞い込んできた。
否応なしに舞い込んでくるコンパだとか合コンだとか、そういう物に冷めた態度を取っていたら気が付けばこうなっていたとしか言いようがない。
次の駅に着いて車内から吐き出されるように、乗客が疎らに降りた。
新たに乗り込んできた人数は降りたそれよりも遥かに多く、私達は流されるまま人の群れに奥まで押し込まれる。
一旦途切れた会話は、新菜が再び拾いなおした。
「杏、顔は悪くないんのにねぇ」
「他は悪いのか」
「なんていうかぁ、性格がツンツンしてるよねぇ。本当に何の理由もないの?」
「ないよ」
「男の人が好きじゃないとかじゃなくて?」
新菜が言った言葉が奇妙すぎて、私が彼女の顔をまじまじと見返すと、目を逸らされた。
どういう意図だろうか、と思いつつも一瞬私の脳裏を野乃花の顔が過る。
野乃花と私の関係を、何か不穏なものであると新菜は本当に思っているのだろうか。
新菜が私から目を逸らしたままだった。
笑って誤魔化す様な会話が期待されているのではないのだろう。
新菜は鉄の手すりを強く掴んでいて、彼女は私に何を聞きたいのだろうかと疑問に思う。
「別にそういう訳じゃないけど」
「そっか」
新菜の反応は微妙だった。この話題はそれっきりで、新菜はそれ以上、その話題について語らなかった。