1話
大きな月が浮かんでいた。
よく沢山の星が輝く夜空に向かって、星が降ってきそうな空、という表現があるが、今自分の頭上で輝く、夜の闇を照らす月は、なんの比喩でもなく、将に今降ってきている真っ最中かのように大きく見えた。
間違いなく今は夜の筈なのに、黄昏時より明るく辺りを見渡すことが出来る。
銀色の光に照らされて浮かび上がるのは、雪のように白い砂浜と、恐ろしいほどに透き通った闇色の水を湛えた湖だ。
その畔には、雲すら見下ろす事が出来そうな塔が静に聳え立っている。
美しく現実感の無い景色を見て、少年アルトはこれを夢だと判断した。人生経験は乏しく、自分の住む辺境集落以外の世界を知らない自分ではあるが、この世にこんなお伽噺の舞台のような景色が広がっている場所があるとは到底思えない。
更に言えば、アルトはこの夢を何度も何度も繰り返し見ている。
いつ頃から見るようになったのかは定かではないが、初めてこの夢を見たときに比べ、像は焦点を結び、視界が広まったという変化こそあれ、見る景色は全く変わらない。
“夢なんてモノは、有り体に言ってしまえば、自らの願望や欲求などなどの潜在意識の表れが殆どなんです。まぁ何事にも例外は付き物ですがね”
この不思議な夢のことを初めて自分の師に話したとき、彼は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの優しげながら、(一部から怪しいと称される)笑みを浮かべてそう告げた。
自分には現実からの逃避願望は無いはずだ。
記憶も残らないほど幼い頃に親をなくし、寂しさと空虚感に苛まれた時期もあった(し、時に羨ましいと思うこともある)が、時に意地悪ながらも尊敬出来る師に巡り会え、生きていくための力も授けられた。今現在、自分はこの上もなく満ち足りた現実を生きている、そう断言できる。(爆発するつもりはない)
となれば、この夢は師の言うところの例外に当たるのだろう。
(因みに余談ではあるが、弟子がそんな浮世離れした夢を何度も見ていると知った師は、意地悪で時に鬼となるのに同時にエラク心配性でお世話焼き、という甚だ難儀で扱いに困る性格を遺憾なく発揮し、日中は散々夢の話を出汁に弟子をからかいおちょくったにも拘わらず、夕食には普段は出ないデザート込みで少年の好物をドッサリ用意した挙げ句、ワインで酔っぱらいながらしつこい程身を案じる、という事件も発生している。)
静謐で絵画のような景色。毎度見るものと変わらない。だがそこに何かいつもと異なる何かを感じた。
“風が吹いている”
疑問はすぐに解消する。眺めるだけだった夢に五感が持ち込まれたらしい。お陰で今まで、ただひたすら美しいだけだった世界の印象が変わった。
頬に打ち付ける風は強く、痛いほどだというのに、目の前の湖面は鏡のように静かなまま。辺りを包む空気は、奇妙な緊張感を孕み、不安を煽る。
不可思議な夢に初めて訪れた変化は、アルトのそれまでの印象を一変させてしまった。
・・・恐い
身を脅かすようなものは何一つ存在しないのに、本能的な恐怖に少年の身はすくむ。
それなのに、それまで幾度望んでも動くことの無かった体が勝手に動く。
振り向いたその先にいたのは、見知らぬ一人の女性だった。