9.では、ごゆっくり
背中に感じるベッドの確かな弾力が、彼女の心に落ち着きを与える。眠気はなく、彼女は静かな心地で物思いにふけっていた。
彼女の家は代々続く吸血鬼狩りの家系であり、吸血鬼が人に害をなしていた頃はその功績で莫大な財を成したとも言われている。しかし時代が変わり、吸血鬼の存在がもはや虚構としか思われなくなると、吸血鬼狩りの存在に価値がなくなり、彼女の一族は凋落の一途を辿った。
いくら貧しくなろうが、それまでの生活で沁みついた気質はそうは変わらない。没落貴族も同然のその変遷は、マシェッタの一族の価値観を大きく歪めた。彼等は吸血鬼狩りである事に固執し、頑なにこれを家業とし続けたのだ。
彼等は次の代、さらにその次の代に至るまでに子孫に吸血鬼狩りとしての訓練を課し続けた。例え吸血鬼がおらずとも、高貴な身分の出であるという妄執から訓練はどんどん過酷なものとなり、末裔であるマシェッタが受けた訓練は一際壮絶なものだった。物心がついた頃から訓練を始めた彼女にとっては、訓練そのものが人生と言っても良い。空いた時間は常に訓練か、でなければ生活する為の狩りや釣りに充てられ、友人を作る余裕はおろか遊ぶ暇もなかった。しかし当時の彼女にとって、それは当然の事だった。
自分の人生が異常だと分かったのは、初めて恋人が出来た時だった。声をかけたのは相手の男からで、彼女は深い考えもなく誘いに承諾した。手も繋いでいないうちに家に招いたその男は、手垢にまみれた訓練機材の山に絶句し、それを使って彼女が毎日行う訓練の内容や生活の様子を聞いてひきつった表情を浮かべた。その日の内に別れを切り出され、そこで初めて彼女は普通の人間と自分との価値観の違いを思い知らされた。
その後の、青春を投げ捨てているのを自覚しながら行う訓練は苦痛でしかなかった。訓練を強いる両親に対しても徐々に憎しみを抱くようになり、やがて彼女は逃げるように家を出た。しかし大した考えや蓄えがある訳でもなく、身を立てる手段が他にない彼女はやむなく教会を訪ね、そして吸血鬼狩りとして雇われたのだった。今や教会から見ても吸血鬼狩りは存在意義が無いも同然であり、彼女へのこの待遇は御情けも同然である。日々こなす仕事は雑用という他なく、彼女が居心地の悪さを感じない日はなかった。
しかし、ついに吸血鬼は現れた。信者の多く務める警察署から、人間のものではない血を持つ者が出たという知らせが来たのである。他の聖職者達から向けられた期待と歓喜の視線を思い出すと、それだけで彼女は誇らしさと、人から認められる喜びに心が弾んだ。
かくして彼女は吸血鬼を追い、寒風吹きすさぶ遠方の地まで足を運ぶ羽目になったのだった。
これでやっと、報われる。
ふう、と彼女は息を付き、窓を見る。細かい格子のはまったその窓からは、藍色に似た闇の向こうに紅い日が沈もうとする様子をまざまざと見る事ができた。
「……そろそろ、か」
マシェッタは身を起こし、ベッドの傍に置いていたトランクを手に取った。その中に入っているのは、着替えや整容品の類ではない。彼女はトランクを開き、中身を取り出した。
細長い額縁を形作るように組まれた木枠の側面には、彼女が片手で持つ為の取っ手が生えている。取っ手には仕掛けを動かす為のトリガーが設けられており、その仕掛けは木枠の中に収まっている。一際太い尖った木の杭と、杭の付け根に隙間なく並ぶ金属製の輪がそれだ。木の杭は、これまでの狩りで仕留めた獣達の血のせいで赤黒く染まっていた。
彼女は取っ手を逆手で握り、それを持ってベッドを降りた。木枠は彼女の前腕に沿うように持ち上げられ、杭がその腕と平行に並ぶ。
胸が高鳴るのが、彼女本人にも分かった。境遇に対する苛立ちや不満は未だ彼女の胸に渦巻いてはいたが、人生をかけて備えた初仕事に対する高揚感もまた確かにあるのだ。
「さあて、稼ぐとしましょうか!」
殊更に明るくそう言うと、彼女は大きく腕を上げて背筋を伸ばした。
暗い部屋の中で、蝋燭のか細い光が並ぶ。その中で、主人は自分を見つめる視線を見つめ、すっと目を細めた。彼を見るその相手もまた、微笑みを返した。
「やあ、しばらくぶりだねぇ」
主人が声をかける。相手は黙って主人に微笑みかけた。
主人が一歩近づくと、相手もまた同時に一歩前に出た。主人が顔を近づけると、相手もまた彼に倣った。ふと、主人の顔が曇る。
「……君はいつもそうだな。私に笑いかけてはいるが、決して声を聞かせない。一度でいい、君の声を聞きたい」
主人の視線に、次第に憂いが宿る。
「君は美しい。時折、私は君に嫉妬を覚えてしまうよ。君を不憫に思う事があるとしたら、君が君自身を自分の目で見られない事くらいだろうな」
ふふ、と主人は笑みをこぼして手を伸ばした。二人の手が重なるが、その感触は冷たい。
「どれだけ近づき想い合おうが、君の全ては分からない。いっそこの身が、君の方へと流れてしまえば……」
そこまで言いかけた所で、主人はふと相手の後ろに見える人影に気付いた。部屋の入口の前に立つのは、主人の従者であるロジオンだ。主人は見つめ合っていた相手から目を逸らし、自分の背後を振り返った。主人とロジオンとの目が合い、ロジオンが眉根をひそめる。
「……何をしてるんですか、一体」
「見て分からんか。ナルシストごっこだ」
当たり前の事のように主人は言ってのけ、身を翻して姿見の鏡面を手で指し示した。
主人の見ていた鏡は、鏡に映らないとされる吸血鬼の姿も映し出せる魔法の鏡だ。鏡の中の主人もまた、同じように鏡の中のロジオンに主人を指してみせていた。主人は焦りも照れも微塵も見せずに、ロジオンに詰め寄る。
「お前なぁ、部屋に入る前にはノックをするのが普通だろう」
まるでそこにしか問題がないかのように、主人は口を尖らせてロジオンにそう言う。彼のずれた感性に、ロジオンは渋面を作った。
「……そうおっしゃるなら、せめてもう少し恥ずかしがったらどうですか」
「やってみたら意外とノッてな」
「暇なんですね」
「うん」
素直に頷く主人に、ロジオンは眩暈を覚えた。似たような状況を目撃したのは一度や二度ではないが、それでもいい歳をした男の、気色悪い一人遊びを見せられた身としてはたまったものではない。
「もう少し、なんと言うべきでしょうか。威厳、いや、そう、常識だ。常識ある振る舞いをするよう努めてください。一人とはいえ従者も増えたし、ましてや今は客人がいらしてるんですから」
「え、マシェッタ殿が?どこだ、どこにいる?」
「自室に決まっているでしょう、今ここにではありません」
「何だ紛らわしい言い方を。だったら別にいいだろう」
「だったらどうという話でもありません。ほら、日も落ちましたし、早く就寝なさってください」
部屋の暗さを示すようにロジオンが両手を広げてみせる。部屋の窓は全て塞がれているうえ、わずかな隙間も外の暗闇で覆われているため部屋の暗さは一層濃いものとなっていた。しかしそれでも主人は釈然としない様子で食い下がる。
「そう言われても、実はまだ彼女へのプレゼントが決まっていないんだ。どうしたものかと思ってな」
「だったら、以前あなたが刺繍なさったハンカチかケープでもお渡しすればいいんですよ。それで充分です」
「お前は馬鹿だなぁ、男が女性に贈るものに刺繍はないだろう。それも手作りだぞ?女々しい男と思われてしまうだろうが」
「いーえ、違います!その認識は違う!」
ロジオンは断言し、主人の鼻先に指を突き付けた。不意打ちに一瞬黙り込む主人に対し、ロジオンは話を続ける。
「男の身であれだけ見事な刺繍ができるということは、それだけ器用で、かつ細やかな心配りができるという事!あなたのお人柄を、あの方にアピールするにはこれ以上ないほどうってつけなのです」
「そ、そうなのか?」
「そうです。加えて、ハンカチやケープといったものは用途は彼女次第ですし、例え要らなくてもかさばるものではありません。気にくわなければ捨てても良い。好意を表すのはもちろんの事、その好意が決して押しつけがましいものではない事を伝えるのにもふさわしいんです。」
ロジオンの熱弁に押され、主人は戸惑いながらも考えをまとめ始めた。顎に手を当て、難しい顔で黙り込む。
「……うぅ、む。言われてみると、そう、かも……知れんな」
「でしょう!?ですから、今日はもうお休み……」
「したらいいんじゃない?」
続く言葉の主は、主人でもロジオンでもなかった。二人が驚いた顔で視線をそこに向ける。
薄暗い石造りの廊下の中、壁に背を預ける姿勢でマシェッタがそこにいた。ロジオンが表情を険しくし、主人が顔を明るくする。
「おお、マシェッタ殿!一体どうされたので?」
「あなたに用があるんだけど、今良いかしら?」
誘いをかけるような言葉に、おっほう、と主人の喉から音が漏れた。
「もちろんですとも!是非今から逢引にでも……」
「生憎ですが、ご主人様は今からお休みです」
ロジオンが主人の前に割って入り、主人の言葉を遮った。主人が従者の思わぬ反応に目を丸くし、次に顔をしかめた。
「おいロジオン、何を勝手に……」
「それではお休みなさいませ」
言うが早いか、ロジオンの腕が扉のノブを掴んだ。素早く後ろ手でドアを閉め、すぐさま鍵をかける。あっという間の出来事で、主人は部屋に閉じ込められた。
「では、ごゆっくり」
声を張って、ロジオンは扉の向こう側へとそう言った。遅れて主人が事態に気付き、慌てて扉のノブを回しにかかるが、ノブはガチャガチャとわずかに振れるばかりで回る気配がない。閉じ込められた今の状況に主人は焦り、乱暴にドアを叩きだした。
「おい、なぜ私を突き離す!この部屋、ベッドがないんだぞ!?」
扉を叩く音は続いたが、ロジオンは扉越しの見当違いな発言と共にそれを意識から締め出し、ノブを手放してマシェッタと相対した。マシェッタもまた、壁から背を離してロジオンを睨んだ。
「……堂々と来るとは思いませんでしたよ」
「まるで私を卑怯者だと呼びたかったかのようね」
冗談を言うような口ぶりだが、マシェッタの目は笑っていない。右の手に握るものをゆっくりと持ち上げ、片足をわずかに引く。
彼女が持っているのは、額縁に片手で持つ為のハンドルが生えたようなものだ。ロジオンには、それが彼女の武器なのだとすぐに察せた。
マシェッタが武道の構えのような所作を取る。ロジオンは彼女の動向を見、どこか嬉しそうに口の端を歪めた。
「おい、ロジオンお前まさか!抜け駆けなんて許さんぞ!」
なおも続く主人の言葉は、二人の耳に入らなかった。
ロジオンもまた片足を引き、片方だけの目でちらりと近くの窓を見た。この城の窓の例に漏れず、木の板で完全に塞がれている。ただ一つ特徴らしい所があるとすれば、板と窓枠との間にわずかな、指が一本入る程度の隙間がある事だ。
ロジオンの視線の逸れたその刹那、マシェッタの踵が浮く。気付いたロジオンが視線を戻したその時、マシェッタはすでに彼へと肉薄していた。
マシェッタが額縁のような道具でロジオンの顔面に殴りかかる。咄嗟に彼は右に身を反らし、きわどいところで凶器を避けた。反らした胴を戻す勢いで前進し、マシェッタの右を通り過ぎる。背後を取れたと彼が思ったのも束の間、マシェッタが再び道具を持つ手で裏拳を振りかぶった。
ロジオンは大きく後ろに跳んでこれを避け、先ほど目を向けた窓へと近づく。窓を塞ぐ板に手を伸ばし、板の隙間に指をかけた。
両手を大きく広げる恰好になったマシェッタが足を広げ、踏ん張り腰を落とす。
続く二人の行動は、ほぼ同時だった。
ロジオンが窓を塞ぐ板を引きはがし、顔を隠す。マシェッタが武器を持つ右手を前方、ロジオンの顔面へと繰り出し、同時にその手に握るハンドルの引き金を引いた。
マシェッタの持つ武器、つまり額縁のような木枠の中で、杭の根元に並ぶ金属の輪の列が一気にその間隔を広げる。コンマ数秒で杭がその輪の勢いに押され、鋭い先端が一気に前へとせり出した。
ロジオンの動作は決して遅くなかった。事実、木の板を盾にして顔をかばう事はできたのだ。だがそれも一瞬の事、マシェッタの道具から射出された杭が板を穿ち、その衝撃で板が割れ、ロジオンの手から大きく弾かれた。板はそれぞれ空中で回転しながら弧を描き、ロジオンが見送る前でがんと乱暴な音を立てて両方共が壁に激突して粉々になった。
「ちぃっ!」
ロジオンは手に残る衝撃に体勢を崩し、その勢いに身を任せて逃げるように後ろに跳んだ。距離を取り、再びマシェッタを見る。彼女もまた、吹っ飛んだ板を見て目論見が外れたと見てロジオンから距離を取った。二人の距離が一層開き、互いに睨み合う。
マシェッタの持つ武器を見て、ロジオンはやはりか、と胸中で一人ごちた。
伝承に語られる吸血鬼の弱点に、木の杭を心臓に打ち込めば倒せるというものがある。当然といえば当然で、心臓に穴を開けられて生きていられる生物はいない。
マシェッタの持つ木枠の正体は、吸血鬼に木の杭を打ち込むための、手製の杭打機だったのだ。杭打機といっても、地盤に打ち込む為の大がかりなものではなく、武器として使う為に仕組みを借りた小型のものだ。片手で握るためのハンドルについた引き金を引けば、木枠の中に収められた杭の根元にある金属の輪の列、つまりバネが伸びて杭が射出されるのである。
マシェッタはロジオンを睨んだまま、伸びきったままの杭を左手で掴み、木枠の中へ押し戻した。がちんと、杭の根元に掘られた切れ込みに、引き金と連動して動く留め具の先がかかる。射出された時の威力や速さ、バネの太さをみればバネの剛性は相当なものであり、野生の猪の頭蓋に一撃で穴を開ける威力を生むに足る。それを彼女は片手で、こともなげに押し戻したのだ。普通の人間の腕力では、こうはいかない。
「馬鹿力はそのためか!」
ロジオンの悪態に、マシェッタは接近で答えた。彼女の大きく見開いた目がロジオンを捉え、分厚いブーツを履いた足がロジオンの顎へと伸びる。ロジオンはこれを身を翻すようにして避け、顔のすぐ傍に来たマシェッタのアキレス腱に肘をぶつけた。胴の回転を加えた鋭い一撃にマシェッタの軸足が滑り、彼女の体が宙に浮く。
このままマシェッタが落下し、床に叩きつけられれば、ロジオンはすぐに彼女を押さえつけ、優位に立つ事ができただろう。しかしそうはならなかった。
マシェッタは咄嗟に杭打機を下に向け、引き金を引いた。射出された杭の先が石の廊下を打ち、彼女の体を押し上げる。ロジオンの頭より高い位置にマシェッタの体がはね上がり、彼が見上げる前で彼女は身を捻り、体勢を直してロジオンから離れた位置に着地した。再び腰を落とし、ロジオンを見据えながら片手で杭を戻す。
ロジオンはマシェッタの高い身体能力に、ますます焦燥を募らせた。死体である彼の体は、そもそも激しい運動には向いていない。このまま争いが長引けば、彼の体にガタが来る。彼は自分の弱点を知っており、だからこそ対峙するマシェッタを手ごわい相手だと認識していた。
マシェッタもまた、ロジオンをやっかいだと思っていた。肘をぶつけられたアキレス腱が彼女に痛みを訴える。
ゾンビでありながら咄嗟に盾で顔をかばう反射神経、蹴りに対して肩を当てる機転と、ロジオンの反応はいずれも生きた人間と遜色ない。それどころか普通より速く、粗っぽい真似に慣れた者のそれだ。
「……ずいぶん育ちが悪いようね」
マシェッタがロジオンに悪態をつく。それが油断を誘う真似だと知りながら、ロジオンはこれに答えた。
「生前貧乏でしてね。お上品な教育は、死んだ後に受けたんです」
「ならさぁ、敬語とかやめてよ気持ち悪い。アンタ私が嫌いなんでしょ?」
そう言われ、ロジオンは胸がすっと軽くなった。
もうこれ以上、気を使う理由はない。そう思うと、嬉しさすら込み上げた。
「……そうだな。もう、アンタを客とは思わん。とっととお帰り願おうか」
「ええ、すぐ帰るわ。今すぐお土産もらってからねぇっ!」
言うが早いか、マシェッタが床を蹴った。武器を持つ手を大きく振りかぶり、ロジオンとの距離を詰める。
ロジオンは彼女を見据えたまま、シャツの前立てに片手を突っ込んだ。シャツの中のぼろぼろになってささくれた脇腹を指でなぞり、目的の感触を探る。すぐに指先に小さな硬いものを感じ、彼はすぐにその手でそれをつまんだ。シャツから引き抜いた手で、持ったものをマシェッタへ投げつける。
マシェッタは自分に飛んできたものを、その卓越した動体視力で見て取る事ができた。それは布の裁断用に用いられる鋏で、彼女は咄嗟にそれを杭打機の側面で叩き飛ばした。小賢しい、と思う間もなく、マシェッタの目の前にさらに別の物が飛んでくる。眼球に迫るそれを、彼女は咄嗟に空の左手で受け止めた。瞳の前すれすれで止まった万年筆の先に舌打ちし、それを放り捨てる。鋏も万年筆も、ロジオンがあらかじめ胸や腹に刺して隠していたものだ。
「ドラえもんか、あんたは!」
「何の話だ!」
ロジオンが再びシャツの間に手を入れる。その時すでにマシェッタは、自分の間合いにロジオンを入れていた。足を踏み出すと同時に武器を持つ手をロジオンの顔面へと突き出す。ロジオンは胴に刺していたものを引き抜き、接近する彼女にそれの先を突き付けた。互いの得物の先が相手の眼前で止まり、二人は睨み合う。
マシェッタが引き金を引けば、杭の一撃でロジオンの顔面が吹っ飛ぶ。ロジオンが少しでも踏み出せば、マシェッタの眼球に片手持ちの鋸の先が刺さる。こちらは致命傷にならずとも、大きな隙を生み得る。
互いに迂闊に動けぬ状況。相手の動揺を読むよう、読ませぬよう、二人の緊張は静かに高まる一方であった。
「……」
「……」
睨み合う二人。その場に落ちるのは沈黙……ではなく、未だ続く主人の泣き言だった。
「何だか楽しそうなんだけどなー!私も混ざりたいなー!なー!なぁーってばー!」
なおもバンバンと扉を叩く音が響くが、二人は一切耳を貸さない。頭の片隅で「うるさいなぁ」と同時に思ってはいたが、それを口にする気はどちらにもなかった。
やがて二人は、見計らったかのように同時に一歩引いた。相手の動向を探りながらまた一歩、二歩と距離を広げる。互いに武器を持つ手をわずかに下げ、相手の足を見る。相手が再び距離を詰めようとするなら、そこに変化が現れると分かっていたからだ。
二人とも、相手を自分の間合いぎりぎりに収めた位置で立ち止まり、得物を相手に対してすぐに突きだせるように構える。
板の剥がされた窓から、下弦の月が廊下を覗いた。月明かりに照らされて、廊下の様子や二人の姿がくっきりと浮かび上がる。屋内とはいえ冷え込む空気の中、ゾンビであるロジオンから白いものが吐かれる様子はない。生きた人間であるマシェッタの呼気が白くなって流れるが、先ほどまでの運動にも関わらず、呼吸のリズムは一定だった。疲れや動揺は見られない。
互いに相手の姿がよりはっきりと見えるようになった為、二人の緊張はより一層高まった。
ロジオンは、これ以上長引けば自分が不利である事を痛感した。鋸を持つ手を握り直し、相手の動向を探るように目を細める。
ゾンビの長所である不死の体に、痛覚はない。だからこそロジオンは胸や腹に様々な道具をしまえるのだが、マシェッタの杭打機をまともに喰らえば痛みどころではなく、手足が吹っ飛ぶのは明らかだ。絶命しないとはいえ、その後の行動に大きな支障が出る。立って動くことができなくなれば、主人の命が危うくなる。マシェッタ本人の身体能力もロジオン以上で、スタミナも相当なものだとうかがい知る事ができた。
『これは、本当にまずいかも知れんな……』
ロジオンは胸中でそう呟いた。
マシェッタの踵が浮く。重心の乗せられた彼女のつま先が曲がり、前に高く跳ぼうとするように膝がわずかに前に出る。ロジオンはそれを見、マシェッタの目を睨み返し手にした鋸を立てた。
前進は、しかし低かった。彼女の体は沈み、地表を滑るようにロジオンへ接近する。意表を突く軌道と素早いその動きに、ロジオンの反応が一瞬遅れた。腹へ迫るマシェッタの得物はすでに十センチも距離はなく、そのためロジオンは咄嗟に鋸を捨て、胴を捻ってこれを避けた。そして避けたその直後、ロジオンは武器の木枠に腕を突っ込み、マシェッタの腕を強引に抱え込んだ。自由を奪われたマシェッタがたたらを踏み、腕を振り払おうともがく。
「離せ、ゾンビ!」
「そうもいかん!」
二人が何度も立ち位置を変えながら激しくもみ合う。マシェッタは肘を曲げる事もままならず、ロジオンもまた両腕を離せない。
「くっ!こぉのっ!」
マシェッタが渾身の力で右手を壁に向け、杭を撃った。石の壁は杭の侵入を阻み、その結果杭打機の威力そのままにマシェッタは背中から、ロジオンは左半身から反対側の硬い壁に激突した。
この結果を覚悟していたマシェッタは強く背中を打ち、息を詰まらせるにとどまった。しかしロジオンはそうはいかない。側頭を打つ衝撃で首が折れ、左肩からの激突で腕の骨が肩から抜け、さらに反動で二の腕や左の脛の骨がへし折れ、手足の先端を大きく振らせた。両者の体が廊下に転がり、共に苦悶の声を上げる。
「くっ、ぬぅ!」
「が、しまっ……!」
ロジオンが咄嗟に立とうとして、体重を支えない左手に気付き、へし折れた腕に目を見張る。先に立ちあがったマシェッタが杭を戻し、ふらつく足でロジオンに杭打機を構えた。立ち上がり損ねたロジオンが彼女に気付き、忌々しそうに表情を歪める。杭打機の、杭を射出する穴はロジオンの顔面に向けられていた。
「勝負ありのようね」
勝ち誇った台詞を、彼女は険しい表情で呟いた。ロジオンは彼女を見上げ、固唾を呑む。もはや、いつ彼女が引き金を引いてもおかしくない状況。勝敗は決まったも同然だった。
「……」
「……」
黙り込む二人。先に、静かに口を開いたのはロジオンだった。
「……一つ、頼みがある」
「命乞い?無様ね」
「何とでも言え」
ロジオンは自分を見下ろすマシェッタに、毅然とした態度を崩さずこう言った。
「私の首を持って行け。あの方には手を出すな」
マシェッタは目を丸くした。しかしすぐに、敵を睨む目に戻る。
「……ずいぶん殊勝な事を言うのね」
「恩がある。義がある。もはや死んだ身、あの方を失いボケて朽ちるくらいなら、貴様にこの首くれてやる」
「それで釣り合う訳ないでしょ。吸血鬼の討伐に来たのに、ゾンビの首持って帰ってどうしろって言うのよ。あたしはお金が欲しいし、名誉も欲しい。だから、あいつの首がいるの」
「俗な事を言う」
「空きっ腹の感覚も忘れたの?教えてあげるけど、あれはみじめよ」
「知っている」
「そ」
マシェッタが引き金にかけた指に、力を込めた。
ふと、彼女は手に違和感を感じた。手にした杭打機に、かすかに引っ張られているような感触があるのだ。目を細め注意して見ると、か細い、糸のようなものが杭打機に巻き付いているのが見えた。月の光を反射しており、天井まで伸びているのが分かる。蜘蛛の糸に似ているが、よくよく見てマシェッタは思わず目を疑った。いつの間にやら、その糸は杭打機に何重にも巻き付いていたのだ。
「え、何これ?」
マシェッタが思わず呟く。ロジオンも彼女の様子に気付き、わずかに傾いた杭打機の側面に、光の加減で糸が杭打機に絡みついているのを見る事ができた。
「アンタ、何したの!?」
マシェッタが杭打機を構えたままロジオンに声を張る。しかし、ロジオンにも分からなかった。
「知らん、何だそれは?」
「とぼける気!?下手な嘘なら……!?」
続く言葉は、悲鳴に変わった。
以下は、一瞬の出来事だ。
ロジオンの胸倉を掴もうとしたのだろう、ロジオンへと左手を伸ばそうとしたのだ。だが、これに続く現象はマシェッタ本人の動きではない。杭打機に絡みついた糸が緊張し、天井に伸びたその糸がびんと張った、その直後、マシェッタの体が一気に上へと跳ね上げられたのだ。
ロジオンが見上げると、まるで罠にかかったかのごとく、廊下の高い天井の闇の中に、マシェッタが暗い天井のすぐ下で何度も上下に振れているのが見えた。
「なぁあぁ!?わあぁあ!」
よほど動転したのか、みっともない悲鳴が何度も上がる。
ロジオンははっ、と我に返り、自分の体を見回した。彼の予感通り、彼の全身にも蜘蛛の糸のような細いものが巻き付いていた。そんなものを巻きつけた覚えは、彼にはない。
「これは一体……?」
全身の糸が天井の暗がりの奥までつながっているのが分かり、ロジオンは迂闊に動くまいとその場に倒れたまま天井を見回した。夜の暗さのせいで今は何も見えないが、彼の知る限り城の廊下の天井には何もない。
彼の全身に巻き付いた糸は十本にも満たないが、張りつめさせたが最後、大人一人を軽々と持ち上げるほどの弾力を発生させる。マシェッタを吊り上げる糸には、反動で切れる様子は一切ない。そんな性質を持つ糸を、ロジオンは知らない。世界中を見て来ていたが、そんなものを見た事もなかった。
「まさか、この糸……!でも誰だ?」
「あ、そうだ!」
ロジオンの頭上でマシェッタが何事かを思いついた。ロジオンは暗闇の中で天井にぶら下がるマシェッタの姿を、かろうじて見る事ができた。彼女は杭打機に絡みついた糸によって、天井から腕を上げる恰好でぶらさがっている。
マシェッタが、杭打機のハンドルから手を離した。彼女の体は自由落下を始め、彼女はしめたと言わんばかりに表情を明るくして身を捻り、見事に着地を決めた。
しかしその直後、すでに彼女の全身に絡みついていた数本の糸が緊張、彼女は再び悲鳴を上げながら天井へと跳ね上げられたのだった。着地の直後上へと飛ばされた彼女を見上げ、再びぶらんぶらんと振られる様にロジオンは馬鹿を見る目になった。
「……何してるんだ?」
「こっちが聞きたいっつの!何なのよこれは!」
不恰好な姿勢でぶら下がるマシェッタからの質問に、ロジオンは真面目な顔になって推測を立てた。
「……推測だが、どうも争っている間に絡みついたようだな」
「はあ!?何それ!何で私達がそれに気付けなかったのよ!?」
声を荒げるマシェッタに、ロジオンは答えあぐねる。糸の正体に見当はついていたが、そうなるとどうしても不可欠な存在が出てくる。
「そもそもこの糸、一体何よ!こんなの見た事ないんだけど!」
この問いには、ロジオンはすぐに答える事が出来た。黙っていようかとも考えたが、マシェッタの大声が耳障りに思え、黙らせるつもりで答えた。
「これは魔法だ。どうも、糸のイメージを中継したもののようだ」
マシェッタは耳を疑った。ロジオンはつまり、糸が魔法によって作られたものだと言っているのだ。糸の細さ、弾力、そして未だ切れない強靭さを考えれば、分からない話ではない。
「じゃあ、あの吸血鬼が魔法を使ったって言うの?」
「あの方は道具を使って簡単なものを行うのがやっとだ。こんな応用の効いた、高等な魔法は使えん」
かく言うロジオンも、魔法の心得はない。糸が魔法だと言うのなら、魔法を使える者がいなくてはならない。
「……まさ、か」
ロジオンが考えられる唯一の可能性に思い当たったその時、彼の背後に位置する廊下の奥からこつ、と足音が上がった。二人が音の方向を見やる。
こつ、こつ、と規則正しくはあるが、軽い足音。暗い廊下の奥にいた足音の主は、やがて窓から差す月明かりの元にその姿を晒した。ロジオンの腰ほどの高さの背。メイド服。筆談用のスケッチブック。マスクをしたその少女を、二人は知っていた。
「……お前か、タウ?」
タウが足を止め、静かに頷いた。
「た、タウちゃん?何で……?」
天井からぶら下げられたマシェッタが、戸惑いの声を上げる。ロジオンもタウが魔法を使える事実に戸惑いはあったが、同時に納得も出来た。
魔法を使うための、一般的とも呼べる方法は、呼吸と密接な関係にある。大気中に流れる、魔法を使う為のエネルギーとも呼べるものを吸気によって肺に取り込み、肺の中で空気を練りながら成したい魔法を思い浮かべる。成したい魔法をよりはっきりと想像できるように、本人にとってなじみ深いものを関連付けても良い。イメージを確立する為に呪文を唱えても良い。そしてその後、呼気と共に魔法を体外に吐き出せば、魔法は意味を得、形を成すのである。例えるなら、深呼吸の最中に落ち着いた自分を想像しながら息を吐くようなものだ。
要するに、生前に心得があり肺が無事なら、ゾンビでも魔法が使えるのである。ロジオンは蘇ったばかりのタウの身体状態を確認した際、肺が完全な状態で残っているのを見ていた。そこが無事なら、喉がつぶれていようが頬が崩れていようが魔法を使うのに支障はない。
「まさかお前に魔法が使えるとはな……」
感心と恐れのにじんだ声で、ロジオンはタウを見上げ呟いた。タウはスケッチブックを開き、あらかじめ書いていたであろう文面を二人に見せた。癖の強い筆記体で、こう書かれている。
『お城のあちこちに糸の罠の魔法を仕掛けました。魔法で出来た糸は、走ったり乱暴したりすると体にひっついて、強く引っ張るとゴムみたいに引っ張られます。お城で暴れるとたくさんひっつきますよ』
ロジオンは読み終わった後、光の差す廊下一帯を注意深く見回した。よくよく見れば彼女の言う通り、魔法によってできたか細い糸が何本も天井から垂れ下がり、床に先端を付けているのが分かった。
「どうすれば糸は切れる?」
これはタウの想定していた質問だったためか、タウはスケッチブックの別のページを開いて見せた。
『じっとしてれば消えます。暴れ続けると残りますよ』
「ちょっと!何て書いてあるの?」
天井からマシェッタがロジオンに尋ねる。他人の書く字を見る機会の少なかったマシェッタには、タウの書く字が読めないのだ。ロジオンは面倒に思いながらも、文面を読み上げてやる。マシェッタは聞かされた後、ええぇ、と呻いて顔をしかめた。
「そんなの待てないのよ、タウちゃん。すぐに降ろしてくれないの?」
彼女の懇願に、タウは再びスケッチブックをめくり始めた。その手つきは先ほどよりも速く、待ちわびていたかのように彼女は目当てのページを開いて見せた。
『喧嘩しないと約束したら、すぐに降ろしてあげます』
マシェッタにとって、この文面はたまったものではなかった。
「そんなの、お断りよ。私はとっとと用事を済ませて、ここから出て行きたいの」
そうは言ったものの、マシェッタに現状打開の術はない。先ほどの魔法の説明はロジオンに聞かされていないため知らなかったが、それでも二度同じ罠にかかった彼女は同様の罠が城のあちこちに仕掛けられているのに薄々感づいていた。主人の暗殺をしようとしても、暗殺した後に逃げようとしても、どっちみち今のように天井からぶら下げられる羽目になるのは容易に考えられた。
「……ところで、この糸ってどれだけじっとしてれば消えるの?」
マシェッタのこの質問は、ロジオンにとっても気になるものだった。未だ立ち上がれずにいる彼も、タウの反応を見る。
タウはマシェッタの反応に、沈んだ顔になってスケッチブックのページをめくった。先ほどの答えを想定していなかったらしく、ペンを取り出して文面に何事か書き加える。書き終わった後、タウはその文面を二人に見せた。
『だいたい三時間くらい……』
ロジオンの目が点になる。その後、読んで聞かされたマシェッタの目も点になった。
主人は一人、膝を抱えて鏡の前でうずくまる。向かい合って自分を見る自分の目を見て、彼は自嘲して鏡にこう語りかけた。
「思い出すなぁ、子供の頃を。こうして君と、よく語り合ったっけ……」
今やドアの向こうの喧騒など、彼にとっては関係のないものだった。気にしなければどんな音も無音に等しく、閉ざされた部屋はどこよりも居心地の良い場所になる。
端的に言うと、彼はすっかりへそを曲げていたのだった。