7.こら、出て来い
夜が明け、マシェッタが食堂に来ると、主人が座ったままにこやかな顔で彼女を出迎えた。
「おはよう、マシェッタ殿」
機嫌の良い声でされた挨拶に、マシェッタは思わずその場で身を強張らせた。彼女の顔に表れた嫌悪の表情に、主人は目を丸くし、ロジオンは怪訝そうに目を細める。
「どうかされましたか?」
ロジオンの問いかけで、彼女は自分の反応に気付き慌てて取り繕いにかかった。
「……え、ええとごめんなさい。悪い夢を見て、ね。目覚めが悪いのよ」
もちろんこれは嘘である。本来なら寝ている時間、彼女はゾンビを増やすために外に出た主人とロジオンを追い、二人を監視していたのである。暗闇にいるはずの自分をじっと見ていた主人の目を思い出し、彼女は背筋の震えるのを堪えられなかった。なまじ侮っていただけに、今の彼女は自分が対峙している相手が人間ではない事を痛感させられていた。この際、初めて名前で呼ばれた事は彼女にとってどうでも良い事だった。
「それはよくない。ただちに水を用意させましょう。ロジオン」
「はいはい」
ロジオンはすでにテーブルに乗っていた陶器製の水差しを持ち上げ、彼女の席に置かれたグラスにその中身を注いだ。とっとっと、と水の汲まれる小気味よい音が、幾分か彼女の緊張を和らげた。
「ありがとう」
彼女はグラスを取り、ロジオンの方を見ずに一気にそれをあおった。彼女の身を反らしての呑みっぷりに主人は満足げに笑みを浮かべ、ロジオンは「品の無い」とでも言いたげな顔をする。マシェッタは、かふ、とかすかに息を立ててグラスを置き、冷静になって改めて主人を見た。
『こいつ、昨晩見ていた事を言わないつもりかしら?』
昨晩の視線を確かめようと、じっと目を見る。主人はその目を真正面から見ながらにこにこと笑顔を浮かべていた。
『おお、熱い視線だ。私に興味があるのなら、素直に言ってくれればいいのに。しかし、ご婦人に恥をかかせる訳にはいかんからな。昨日の事は秘密にしよう』
そこまで考えて、彼はロジオンをちらりと見た。
「何です、その勝ち誇った顔は」
「いや、別にー?ただな?お前は、私の、従者でしーかーなーいーなー、って思ってなー?」
主人は座ったままロジオンを見上げて、鼻から一息ふふんと吹いた。ロジオンは主人の態度が癇に障るが、眉をわずかに寄せる程度にとどめた。
「……何やら嬉しそうですね」
「まーぁなー。とと、そうだ。マシェッタ殿、ひょっとしたらこの城の使用人が増えるかもしれません」
マシェッタは「そう」と気の無い返事をして聞き流し、ロジオンが置いた水差しに手を伸ばすと水を自分のグラスに注いだ。彼女には昨晩の呪術のやり方でゾンビが増やせるとは到底思えなかったので、興味がなかったのである。それよりも昨晩は主人等二人に帰りを気付かれないよう、城壁をよじ登って自分の部屋に戻ったせいで疲労が抜けていない事の方が彼女にとって深刻な問題だった。
「それは良い事ね。このお城は広いから」
「ええ、そうなんです。おかげで埃のたまったままの部屋も多くて、お恥ずかしい限りですよ」
二人の話が弾み始めたのを見て、ロジオンがマシェッタの食事をもって来ようと食堂を出ようと、さりげなく下がった時だった。
主人がふと、何かに気付いて顔をわずかに上げた。
ロジオンは主人のこの反応に覚えがあった。吸血鬼の聴覚が遠方から近づく何かの音を捉えた時のそれだ。
「誰か来られるんですか?」
「うむ、近い。一人だ。すでに近所の森を抜けてるな。そろそろうちの扉を叩く頃だ」
主人がそう言った直後、正面玄関が控えめにノックされる音が食堂に届いた。小さいが確かなその音に、マシェッタが目を丸くする。
「ほ、本当に来てるの!?聞こえたっての?」
「ええ。耳は確かなんですよ」
主人の得意げな返しは、マシェッタの耳には入らなかった。
『マジで?あんなのでゾンビが増えたって言うの!?それじゃ私がますます不利じゃない!』
彼女が内心で焦っているとはつゆ知らず、主人はロジオンに来客を迎えに行くよう顎で差す。ロジオンは黙って頷き、部屋を後にした。
一人廊下を進むロジオン。訪れたであろうゾンビに、彼は一抹の不安を感じずにはいられなかった。
「まさか本当に蘇るとは……。香の匂いを辿ったのだろうが、果たしてどんなゾンビが来たのやら」
死者反魂の呪術では、死者が仕えるべき相手を間違えないよう、呪術者はあらかじめ焚いた香で匂いをつけている。蘇った死者はその匂いで自分の主人を、つまりこの場合はロジオンの主人を判別しているのである。ロジオンもそうして主人を覚えた。
『こんな状況だ、家事はできなくても構わん。あの女を止められる、力の強いゾンビが望ましい。腐乱状態がそうひどくないと良いんだが……』
期待と不安の入り混じった面持ちで、ロジオンは正面入り口を臨むカーペットの上を横断する。ノックの音が再び上がり、ロジオンは自然と早足になった。
「今開ける」
ドアの向こうに一声かけ、彼はドアを大きく開け放した。
視界に飛び込んできたのは、開けた城壁の門から覗く森の様子と、彼方に見える山の頂だけだった。山の向こうに雲の漂う様子はなく、晴天の陽光が木々の緑を照らしている。人影は、見当たらない。
「んん?」
左を見、右を見る。いない。
どこにいるのかと首を捻ったその時、ロジオンは服の裾を軽く引かれているのに気付き下を見た。
いた。
黒く大きな二つの目がロジオンを見つめ、小さな手がロジオンの着ている燕尾服の裾を掴んでいる。腐り落ちた頬からは汚れた歯が並んでいるのが見え、着ている服も腐敗によって原型を保っていなかった。昨晩の死者反魂の呪術によって蘇った死者に間違いはない。
ロジオンはその死者をまじまじと見、やがてその顔に深い失望感をにじませた。
「……どうして」
天を仰ぎ、胸に溜まった感情を吐き出す。
「こうも、希望が叶わないんだ……!」
彼の呟きにその死者―――十代前半と思しき少女は、彼を見上げたまま首を傾げた。
ロジオンが食堂を去って、しばしの時間が流れた。主人はマシェッタと二人きりの時間が伸びて上機嫌であったが、マシェッタからすればロジオンが姿を見せないのが次第に不気味に思えてならなかった。
「……遅い」
「ああ、ロジオンがですか?全くですね。躾けのなっていない従者で、お恥ずかしい限りです」
「そうよ、あたしお腹ペコペコなんだけど」
マシェッタの不躾な物言いに、思わず主人は気圧された。彼女の機嫌が悪いと見て、居心地の悪さを感じ始める。
「そ、それはすいません……。もう少しお待ち願います」
「あなたが持ってきたらいいんじゃないの?」
緊張から来る疲労と空腹から、彼女の態度には次第に荒れが見え始めた。彼女が最も警戒している相手こそがロジオンで、その姿が見えないのだから無理もない。更に、これから敵となりうるゾンビが増えるというのだからなおさらだった。
主人は彼女の態度に緊張し、腰をわずかに浮かせた。
「も、最もです。が、ですね?やはり主賓としてはゲストを放っておけませんし、そろそろアイツも帰ってくる頃でしょうし……、ねぇ?」
そう言いながらも、主人が自分で食事を持ってこようかと恐る恐る立ち上がりかけた時だった。
「……お待たせしました」
食堂の入口から、ロジオンの声が上がった。二人がそこへ目を向ける。立っているのは、ロジオン一人だけだった。
「……?お前だけか?」
「いえ、ここにいるのですが……。こら、出て来い」
ロジオンが入口の陰に声をかける。するとそこから、食堂にいる二人を覗き込む影がちらりと姿を現した。ロジオンの腰ほどの高さの位置にある黒い目に、主人とマシェッタが気付く。
「ん、子供か?」
「ええ。どうも人見知りらしく、なかなか手間を取らせます」
子供と聞いて、マシェッタは目を丸くした。
「子供?その子本当にゾンビなの?」
ロジオンはこれに首肯してみせた。
「肉体の損傷や腐敗がひどいので間違いないです。特に喉が……」
「喉?」
首を傾げるマシェッタ。それを見ていた黒い目が、俯いて再び物陰に隠れた。
「隠れるな。挨拶くらいはしろ。お前の主人だぞ」
ロジオンが普段より強い口調で言うと、小さな人影はおずおずと入口からその全身を現した。
それは、幼さの残る顔立ちをした東洋系の少女だった。歳の頃は十代前半、黒くて丸い目は大きく、黒く長い髪を後頭部で縛っている。その身を包むメイド服は袖やスカートの裾が長く、それが返って彼女の幼さを強調して見せていた。
「あら、かわ……」
いい、と言いかけて、マシェッタは少女の口元に気付く。頬の左側の肉がすっかり削げ落ちており、乾いた歯茎や汚れた歯が露わになっている。よく見れば肌も生気のない色をしており、それらの特徴は少女がゾンビである事を何より雄弁に語っていた。
絶句するマシェッタとは逆に、主人は見慣れたものに接するように軽く片手を上げてみせた。
「やあ。私が君の主人だ。これからよろしく」
主人の言葉に、少女は両手でスカートの裾を軽くつまみ、小さく頭を下げた。その仕草は取って付けたような覚束ないものではなく、確かな教養の高さを感じさせるものだった。それを見るマシェッタの頬が緩む。
『子供ならいいか。あんまり乱暴したくないし』
主人はというと、少女に生前の習慣が残っている様子に満足しながらロジオンに尋ねた。
「ロジオン、この子の名は?」
「それが分からないんですよ」
ロジオンの返事に、少女が口を開く。
「……ぁ、くぁう、あーぅ……」
その声は小さく、か細いものだった。自分の喉から出る音を言葉にしようと苦心しているらしいが、音程や声の高さが不安定になるだけでまるで言葉になっていない。彼女自身もそれが分かっているようで、表情に必死さが表れていた。
「なるほど、喉がやられているのか」
少女が主人に頷いた。補足するようにロジオンが返事を返す。
「ええ。こちらの言葉は分かるようですが、何が言いたいのかはよく分かりません。そのせいで、名前もまだ分からないのです」
ロジオンの言葉に、少女が次第に表情を曇らせ俯いてしまう。マシェッタはそれを見て、ふとある事を思いついた。
「そうだ、ちょっと待ってて!」
彼女は席を立ち、走って食堂を出て行った。何のつもりだろうかと主人とロジオン、そして少女は彼女を見送った。
マシェッタが戻ってきた時、彼女は手に白いものを持っていた。そして少女の前にしゃがみこむと、彼女はハンカチよりも小さなそれを少女に広げてみせた。ロジオンがそれに気付き、見咎めるように尋ねる。
「それは?」
「マスクよ。女の子なんだから、傷は隠さなきゃ」
言いながら、彼女は両手で少女の挟むようにしてマスクを付けてやった。白い清潔な布のマスクが少女の口元はおろか、頬までをも完全に覆い隠した。
「ずいぶん大きなマスクですね」
「あたし用のだしね。この子にはむしろこの位でいいのよ」
「なんでそんなものを?」
「医者にかかりたくないからよ。お金取られるじゃない」
マシェッタはマスクの紐がしっかり少女の両耳にかけられたのを確認すると、マスクから両手を離した。少女が両手で口元や頬を覆うマスクをきょとんとした顔で何度もつつく。そんな彼女に、マシェッタは屈みこんだままじっと見つめてこう語りかけた。
「あたしはマシェッタ。あなたの名前は?」
少女が質問に気付き、答えようとして再び言葉を出そうと声を絞る。
「ぁう……、あ、たーぅ……」
「ストップ」
マシェッタが強い口調で少女の声を遮った。少女は驚いたように黙り、マシェッタを見る。
「話せないなら無理に話さなくていいの。辛いんでしょ?かわいい顔が台無しよ」
そう言って、マシェッタは少女の頭を軽く撫でた。少女はぽかんとした顔でマシェッタを見ていたが、やがて照れくさそうに目を細め、黙ってこくりと頷いた。
「よしよし。じゃあ、あたしが名前つけてあげる。名無しのままじゃ不便だしね。さっき必死に『たう』って言ってたっぽいから、タウでどう?」
マシェッタが提案すると、少女は再び頷いた。マシェッタはそれを見て、主人とロジオンの方を振り返る。
「じゃあこの子はタウって事で」
「畏まりました。では、以後はそのように呼びましょう。タウ、下がっていいぞ」
主人にそう言われ、タウは主人を見てぺこりと頭を下げた。マシェッタにも頭を下げ、ロジオンの傍に付く。タウは指示を待つようにロジオンを見上げ、ロジオンはそれを見て彼女の意図に気付いた。
「指示を聞く気はあるのか。なら、厨房に行って料理を持ってこい」
タウは頷き、早足でその場を去っていった。マシェッタには彼女の足取りが逃げ出すようにも見えた為、ロジオンを睨んだ。
「ちょっと。もう少し優しく言えないの?」
「上下関係を教えているだけです。あなたにどうこう言う筋合いはありません」
どう言われようが、ロジオンにタウとの接し方を変える気はなかった。
「子供というのは、とかく人を見下したがります。その上、見下した相手の指示は一切聞きません。犬と一緒です。だから、怖がられるくらいでいいんです」
彼は生前猟師として、猟犬を何頭も飼っていた。その頃の経験で言っているのである。
「アンタやっぱり嫌な奴ね。知ってたけど」
「どう思われようが結構です。私は嫌でもあの子と長い付き合いになりますので」
「ふぅん……」
ロジオンとマシェッタの間に、険悪な空気が漂う。蚊帳の外に置かれた主人は、居心地が悪そうに椅子の上で身じろぎし、やがて耐えきれなくなった頃ん、ん、とわざとらしく咳払いしてみせた。
「……そういえばマシェッタ殿、そもそも、あなたはどういった理由でこんなところまでいらしたのですか?言っては何ですが、わざわざ来てまで見るものなんてありませんよ」
この質問に、マシェッタとロジオンが主人を見た。今さらのようだが、今まで誰も触れていなかった話題だ。そして、マシェッタにとっては一番困る質問であった。返答に迷うマシェッタを見て、ロジオンが主人に言う。
「この方は吸血鬼狩りです。あなたの命を狙っています」
マシェッタが息を呑んでロジオンを見る。主人も目を丸くし、座ったままマシェッタを見、ロジオンを見上げた。
「……そうなのか?」
「確かです。その証拠に、これが」
そう言って、彼は上着のポケットから小さなものを取り出した。鏡面のように磨かれた表面が、食堂のどこかからかすかに漏れる光を跳ね返して輝く。
それはマシェッタが自室の机に置いたままにしていた、銀のナイフだった。柄には、教会の所有物である事を示すように十字の紋章が彫られている。マシェッタは血相を変え、ロジオンを睨んだ、
「あんた、勝手に……!」
「部屋の掃除は従者の義務です。それより、あなたはこれで何をする気だったのですか?」
ロジオンはそう言って、ナイフを軽く振って見せた。マシェッタが言葉を詰まらせ、憎々しげにロジオンを睨む。ロジオンはそんな彼女を一瞥し、そして主人の反応を伺った。
『さて、どうだ?いくらなんでも、危機感は持つだろう。少しでもこの女に不信を感じてくれれば、追い出す口実はいくらでも出来る。これでなおも手元に起きたがるほど間抜けではないといいんだが……』
ロジオンが、そしてマシェッタが固唾を呑んで主人の動向を伺う。主人は二人の視線を受け止め、黙って思案にふけった。
『そうか、吸血鬼狩りか。本当にいたとはな。という事は、この辺りに吸血鬼がいるから来た、という訳か……』
そこまで考え、ふとこう考える。
『そういえばロジオンはしきりに私を吸血鬼だと言っていたな。その上、この方は吸血鬼狩り……。ふむ』
「なるほど、分かったぞ」
主人の言葉に、ロジオンが表情を明るくした。同時に、マシェッタの表情が凍りつく。そんな彼女に、主人は柔和な笑みを浮かべた。
「あなたも人が悪い。黙らずとも、早く言ってくれれば気持ちの準備はすでにできていたというのに……」
含みのある物言いに、ロジオンとマシェッタの緊張が高まる。続く言葉を待つ二人に、主人は一拍の間を空けた後こう言った。
「私のハートを仕留めに来たなら、ご自由にどうぞ。私は一切拒みません」
ロジオンは彼我の理解の差が埋めようのないものだと思い知り、思わずよろめいた。ナイフを持つ手から力が抜け、からんとナイフが床で転がる。
マシェッタはというと、あまりにも自分に都合の良い展開になった事に、喜ぶよりもむしろ理解に困った。呆然とする彼女に、主人は満足げにうんうんとうなずいてみせる。
ようやく食事の乗った盆を持って戻ってきたタウは、誰も何も言わなくなった食堂の様子を見て不思議そうに首を傾げていた。
ふと、彼女のその目がナイフに落ちる。どこかから漏れたか細い光を受けて光るそれを見て、タウの目がわずかに細まった。