5.何されてるんですか
埃の充満する厨房の窓を開き終わると、ロジオンはようやく一息つく事ができた。風の流れるのを肌で感じながら、引きずってきた猪に目を落とす。
マシェッタが仕留めてきたという猪には、不自然な傷があった。ロジオンは膝を付き、猪の眉間に触れてみる。
傷は眉間に空いた、大きな穴だった。とうに血や脳漿は抜けきっており、傷口はすでに乾いていた。その穴はロジオンの指が四本入る程度の大きさで、これが致命傷なのだとすれば、相当深い傷なのは想像に難くない。同じ傷は猪の脇腹にもあり、マシェッタがいかにしてこれを仕留めたのかを雄弁に物語っていた。
「これはまずいな……」
ロジオンは、猪の傷からマシェッタの得物を察した。
「もし私が思うような武器を持っているとしたら、ご主人様が危ないな」
ロジオンは立ち上がり、調理の準備に取り掛かった。一刻も早く主人とマシェッタの元へ向かうべく、水の入った鍋を釜に乗せる。
「えーと、味噌はどこだったか……」
グラスのワインを飲み干したマシェッタは、瓶が空になったのに気付きしまった、と思った。結局一人で飲んでしまい、主人には一滴も飲ませなかったのである。久しぶりの酒の味に夢中になってしまった事を悔い、どうしたものかとちらりと主人を見る。
主人には気を害した様子はなく、満足げに笑みを浮かべているだけだ。これに悪意や邪気が見られない分、彼女は次第にばつの悪さを感じ始めた。毒を警戒していたとはいえ、流石にこの事態は人としてどうだろうと、マシェッタは誤魔化すような笑顔を浮かべて主人に声をかけた。
「……ご、ごめんなさいね。全部呑んじゃって」
「いえいえ。ゲストに喜んでいただければ、ホストとして本望です」
笑顔を絶やさず、主人はにこやかに答えた。終始上機嫌な彼の態度にマシェッタは安堵しかけ、ふと主人の態度に疑問を抱く。
『なんでここまで平然と……?やっぱり毒でも入ってたの?なんかちょっとすっぱかった気がするし』
マシェッタが真剣な顔で思案にふける。一方、主人はこんな事を考えていた。
『よほど美味かったようだな。ワインセラーにまだ何本かあったはずだし、試しにこれで引き留めてみるか』
名案だとばかりに、主人は思い付きを口にした。
「明日、もっと上等なワインが飲みごろになります。いかがなさいましょう?」
主人の申し出に、マシェッタは思わず身を乗り出した。
「本当!?そりゃもう是非……、って!」
言いかけた言葉を呑み込み、彼女は必死にそれを忘れようとした。
『いかんいかん、あたしのアホ!何を吸血鬼の口車に乗ってんの!そりゃあ、お酒は恋しいけどさぁ……』
「どうかされましたか?」
「い、いえいえ!お気持ちはありがたいんですが、その……、えーっと、そうだ!医者に止められてまして」
マシェッタの言葉は嘘である。彼女はこの数年医者にかかった事がなく、最後に病院に行ったのは彼女がまだハイスクールに通っていた頃だった。アルコール絡みで医者から忠告を受けた事など、ある訳がない。
しかし、事情を知らぬ主人はこれを真に受けた。
「ええ!?それなのに呑んだんですか?」
主人が取り返しのつかない失態をしたとばかりに目を丸くする。マシェッタはこれを見て、慌てて話を繕った。
「しょ、少量なら大丈夫なの!瓶一本でギリ!充分、セーフ!」
野球の審判がするように両手を水平に広げてみせる。主人にそのジェスチャーの意味は分からなかったが、マシェッタの体調に支障がないと分かるとほう、と息を付いた。
「これは失礼しました。客人の好みや体質を伺うべきでした。申し訳ありません」
主人はようやく、安心したように椅子に座り直した。嘘が通じたと分かったマシェッタも、安堵して椅子の背もたれにもたれかかった。
「大丈夫よ、心配しないで」
気休めのようにそう言って、彼女は手をぱたぱたと降ってみせた。しかし内心、マシェッタは主人への対応に困っていた。
『どうしよう。すごくやりにくい』
彼女の目的は吸血鬼の抹殺であり、主人は紛れもなく吸血鬼である。美貌や牙など、身体的な特徴からも明らかだ。しかし今、彼女の前にいる人物は、吸血鬼と呼ばれる存在の持つイメージとは結びつかない物腰で彼女を心配していたのである。人間を下等な存在として見下ろす、人に似た異形とは思えない。
『ホントにこいつが教会の言ってた吸血鬼なのかしら……?』
彼女は次第に、目の前にいる男が吸血鬼かどうかも疑わしく思えてきた。しかし、牧師から渡された写真に写っていた顔は、確かにこの男のものなのである。
「……あなた、アメリカに行った事、ある?」
マシェッタからの質問に、主人は嬉々として食いついた。
「ええ、半年ほど前に。友人の家探しに付き合って、あちこちを回ってました」
「……失礼だけど、その際、警察に関わった事は?」
「恥ずかしながら一度だけ。薬物反応がどうとかで、血を取られたりしましたね。全く、公僕のやる事はよく分かりません」
やれやれ、主人は笑いを誘おうとするように大げさに肩を竦めてみせた。血液から自分が吸血鬼だと知られた事など、気付いてもいない様子だ。マシェッタはこれに曖昧に笑って応じるしかなかった。
「へ、へぇー……」
『確定だこれ』
マシェッタは自分の迷いが誤りだと分かり、ますます気が進まなくなった。しかし、気の迷いを振り切ろうと主人から目を逸らす。
『……って、あたしはアホか!吸血鬼狩りがワインの一本や二本で吸血鬼に懐柔されてどうすんのよ!こいつは化け物で、あたしが欲しいのはお金だっての!』
彼女は主人に対して持っていた感情を切り替え、再び挑む目で主人を睨んだ。敵を見る彼女の目に、主人は思わず身を強張らせた。
『な、何だ、急に不機嫌になったぞ?私に何か落ち度があったのか?ええと……』
主人は心当たりを探そうと、しきりに視線を泳がせた。
ロジオンに敷かせたテーブルクロスには目立った汚れは無く、部屋の調度品にも埃の積もった様子はない。机の上の花瓶に挿された薔薇やカスミソウも今朝ロジオンが庭園から調達したばかりのもので、枯れたりしなびたりした様子はなかった。薔薇の花弁の鮮やかさは城内の白い空間に一際映え、カスミソウの小さく白い花々は薔薇の花と食堂内との色彩を見事に調和させている。
『うむ、部屋に問題はない。……ん?』
そこでふと、主人は食堂全体が薄暗い事に気付いた。食堂を囲む壁の窓はいずれも木材でふさがれており、わずかな隙間から漏れた光だけがこの場の光源になっている。
『そうか、今は朝だ。天気も良いし、外を見たいのだろう、そうに違いない』
主人は椅子を傾け、跳ねるように立ち上がった。マシェッタが何事かと顔を上げて彼を睨み、主人はこれに笑みを返す。
「分かりました。私とて、そこまで鈍くはありません。すぐに窓を開けましょう」
『え?』
マシェッタは耳を疑った。戸惑う彼女をよそに、主人が大股で手近な窓に近づく。その窓は東に面しており、開けばすぐに陽光が差し込むようになっている。
『え、窓、開ける?だって今、昼前くらいだよ?』
マシェッタが思わぬ展開に動転するが、主人はその様子に気付かない。両開きの窓を繋ぐように塞ぐ板に手をかけ、それを引き外しにかかり始める。板は釘で窓枠に打ち付けられているせいでびくともしないが、主人に引き下がる気はなかった。
「ぬっ、くぬっ……、この!」
『え、マジでやってんの!?ちょ、こいつ吸血鬼じゃ……』
「ぬおおっ、開かん!開かんぞロジオンめぇぇぇ!」
板にかけた指にあらん限りの力を込め、主人は腕を伸ばし背筋を反らす。板と窓枠との境目がほんのわずかに開くが、それ以上は開かない。しかし、何度もそうして力をかければ徐々に開きそうでもあり、それがますますマシェッタの動揺を誘った。
『ま、マジなの!?陽光が怖くないの!?実は吸血鬼じゃない?いやいや、確かにこいつ……』
「ちょ、ちょっと!?」
ついにマシェッタは静止しようと腰を浮かせたが、主人はまだ気付かない。
「あ、いけるか!?ちょっと開いたぞ!」
先ほどよりも若干軋む音が大きくなり、主人が手ごたえを感じて歓声を上げた。彼の言う通り、隙間から差す光が強くなり、先ほどまでよりも部屋が明るくなる。
『いやいやいや!開けちゃ駄目でしょ!何で吸血鬼が窓開けようとしてんのよ!灰だか砂だか分かんないものになるんじゃ……』
ぎっち、と板が一際大きな音を立てて、板の角、ちょうど主人が手をかけていた部分が剥がれ板が反った。主人本人は影にいるので光を浴びる事はなかったが、指先が日向に出ていた。
「なんだか指先がちりちりするが、問題あるまい!」
『どうしよう、これ止めた方がいいの?いやいや、自滅なんかされたら、私が始末した事にならない!教会があたしの家を認める事に繋がらない!』
「ちょ、やめ……!」
マシェッタが主人を制止しようとしたその時、扉を叩く小さな音が二人の耳に飛び込んだ。二人が動きを止め、食堂の入口を見る。
「……何されてるんですか」
そこでは土鍋を持つロジオンが、眉根をひそめて二人を見ていた。
くらくらと煮える液面から独特なにおいと共に湯気が昇る。加熱された肉の断面や、どこで摘まれたか分からない野草の葉や茎を見下ろして、マシェッタはロジオンに尋ねた。
「……なにこれ」
「牡丹鍋です」
「ぼ、ボタン鍋……?」
マシェッタは主人の横に立つロジオンの回答に眉をひそめ、出された料理を改めてじっと見た。主人はというと、自分の席に座ったまま、マシェッタの動向を大人しく伺っている。窓は結局開かれず、部屋の明るさは変わらなかった。
彼女はこの料理を知らなかった。しかし、猪の肉を煮込むのは調理としては間違っておらず、野草も全て食べられるものなのを彼女は知っていた。彼女をためらわせたのは、鍋に満ちたスープの色である。
「土みたいな色してるんだけど……」
「味噌という調味料のものです。客分にお出しする料理に土なぞ入れませんよ」
そっけなく言うロジオン。その言葉に他意がにじんでいるように思え、マシェッタは信用できないものを見る目をロジオンに向けた。
「ロジオン、私には?」
「お腹空いてないでしょ」
「うむ」
主人の疑問をさらっと受け流し、ロジオンもまたマシェッタを睨み返した。マシェッタは片方だけの目で自分を見るゾンビと、ようやく液面の揺れるのが収まった鍋の中とを見比べ、どうすべきか思案する。
『これこそ、毒を盛るにはちょうど良いじゃない……。ホントだったら絶対食べたくない、んだけど……』
鍋から立ち昇る匂いが鼻孔に流れ、唾を誘う。朝とはいえまだまだ寒い部屋、立ち昇る湯気の温かみは彼女にとっては蠱惑的ともいえた。
『空きっ腹に堪える匂いね。案外、本当にイケるのかも……』
マシェッタの、鍋を見る目が次第に軟化する。それを見て、主人が微笑ましいものを見る表情になった。唯一、ロジオンだけは警戒を崩さず、変わらずマシェッタの動向を睨んでいた。
次第にマシェッタの中で、食べる事への肯定の念が強まっていく。
『そうだ、作ったのはあのゾンビなんだし、ちょっとでもマズかったらこの吸血鬼に「口に合わない」って言っちゃえばいいじゃない。そうすりゃあの警戒心のない吸血鬼に簡単に近づけるようになるし、毒かどうかも、少しだけ食べれば分かるし。うん名案!そうそう、ちょっとだけ……』
自分の思い付きに心を弾ませ、マシェッタはスプーンを手に取った。お、と主人が小さく声を上げ、ロジオンが怪訝な表情になる。マシェッタはちらりと二人を見、我知らず勝ち誇った笑みを浮かべた。
『悪いけどゾンビ、アンタの信用を削ぐトコから始めさせてもらうから』
金属製のスプーンの先が牡丹鍋のスープの中へと滑り込む。液面でわずかに波紋が広がり、湯気の流れが変わる。スプーンの窪みが一口大に切られた猪肉と野草の茎とを乗せ、スープを湛える。マシェッタはスプーンを引き上げ、やにわにそれを口に運んだ。唇が閉じられ、熱を湛えたスープと具とが舌を転がる。
「……っ!?」
一時、彼女は言葉を忘れた。口に広がる味噌と肉の風味、野草の甘味とが見事に融和し、彼女の舌に絡みつく。噛むとしみ出す肉の脂が更に味に深みを与え、嚥下した後も残るその味は、更に唾を誘うものだった。
彼女の手がすぐに動き、再びスプーンがスープに浸る。先ほどよりも速く具材が口に運ばれ、今度は呑み込むよりも先に再びスプーンが動く。ある程度まで口に入れると口の中のものを飲み込み、更にスプーンが乗せてきたものを口に入れる。彼女の動きは止まらなかった。
しばらくの間、彼女の立てるもの以外の音は全く聞こえなかった。彼女の食事ぶりに、主人とロジオンの、合わせて三つの目が丸くなる。
彼女が二人の視線に気付いたのは、土鍋の中身をほとんど平らげた頃だった。彼等の顔と残り少ないスープとを見比べ、少し前までの自分の様子に気付く。
「……、あ、あはは。ちょーっと、食べ過ぎた、かな?なーんて。あははは……」
誤魔化すように曖昧に笑うが、二人の表情は驚いたままで変わらなかった。二人の様子を見て、やがてマシェッタは笑うに笑えなくなり、視線を逸らして黙り込んだ。
彼女の前で二人はどちらからともなく顔を見合わせ、主人が小声でロジオンにこう言った。
「ロジオン、大変だ」
「何ですか」
ロジオンは、すぐに主人が何を言いたいか察せた。主人の表情には、明らかに肯定的な含みがにじんでいたからだ。
「どうしよう、好きになりそう」
ロジオンの首から力が抜けた。心底疲れ果てた声で、彼はうな垂れたまま、思った事をそのまま口にした。
「大変だ」
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今さらながら、ここで感謝を述べさせていただきます。
……、まだ続きますよ?