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4.楽しみですね


 目を覚ますと、分厚いカーテンの隙間から光が差すのが見えた。昨晩の豪雨はすでに止んだらしく、雨音の代わりに遠くの山で鳴く鳥の声が騒がしいほどに聞こえてきた。田舎生まれのマシェッタにとってこれは騒音とも呼べないものであったが、朝が来たという事実は彼女が起きるのに十分な理由になった。

「……寒っ」

 骨の芯まで沁みるような寒気を覚え、彼女は毛布にくるまって身を丸めた。毛布を少しでも緩めると外気の寒気が毛布の中に滑り込むので起きたくなかったのだが、今自分のいる場所が吸血鬼の根城とあっては、のうのうと眠るわけにはいかない。彼女は渋々身を起こし、着替えようとして、着替えの入ったトランクを車の中に置いていたのを思い出した。少し迷った後、着の身着のまま毛布を払って立ち上がる。

「もう今日はこれでいいや。……今日でトンズラかもしれないし」

 呟いた後、彼女はカーテンを引き開けた。

彼女のいる客用の一室は針葉樹の森や彼方に聳える山を一望できる高さにあり、彼女と朝日を遮るものは何もなかった。東の空から差す日の光と山や木々の影とが、広大な針葉樹の森の上で複雑に絡み合い、辺りの景色に不思議な彩りを与えている。

「この景観は見事なものね」

 彼女は素直に感心し、すぐに窓から離れた。部屋を出ようと入り口に向かった矢先、扉の向こうからノックの音が上がる。

「お客様、お目覚めですか?」

 昨日のゾンビの声だと分かり、マシェッタはチッ、と舌打ちした。

「ええ、おかげ様で。もしも私が今寝ていたら、きっと最低な朝になってたでしょうね」

「これは失礼いたしました。今日はとても良い朝だろうと思いましたので」

 見透かしたような事を言う、と彼女は思った。日の光は吸血鬼の大敵であり、つまり日の出ている間は人間である彼女にとって都合のいい時間なのである。吸血鬼を始末しに来た彼女が、惰眠によって日中の時間を潰すなど愚の骨頂だ。

 マシェッタは扉越しに、ロジオンに尋ねる。

「……それで、何の用?」

「ご主人様がワインをご用意しております。よろしければ是非に、との事です」

「朝餉は無いの?こっちはお腹ぺこぺこなの」

「これは失礼いたしました。何分私どもには食事の習慣がありませんので」

 これにマシェッタは、思わず息を呑んだ。

ロジオンの発言は、人間として、というよりも生き物として異常だ。その異常を認識できないほど、ロジオンの頭が悪いとはマシェッタには思えなかった。

彼女が驚いたのは、ロジオン当人からそんな事を直接言われた点にある。ロジオンに人間を演じるつもりがなく、それをわざわざ初対面のマシェッタに明かすという事はつまり、彼女に対して「お前の正体を知っているぞ」と言われているようなものだ。

「……、へえ、そーなんだ」

 動揺を悟られまいと声を抑えてマシェッタはそう返した。探るような沈黙の後、ロジオンの声が上がる。

「……お待ちしております。では」

 扉の向こうで足音が上がる。ロジオンが扉から遠ざかっていくのだと分かり、マシェッタは静かに音が止むのを待った。ようやく聞こえなくなった頃、深くため息をつく。

「……まあ、バレるだろうとは思ってたけど、まさかこんな早くにゾンビに、とはね。こりゃ吸血鬼にも知られてるんでしょうね」

 彼女は額を押さえてうな垂れた。ゾンビが気付いているという事はつまり、それを使役している吸血鬼にも自分の素性が知られていると考えても良い。

「どうしよう、バレたんならここにいる意味ないじゃない……」

 

 廊下を歩くロジオンの胸は今、ささやかな達成感に満ちていた。

 主人の命を狙う人間に警告し、動揺させてやったのだ。ここが主人の城であり、相手が孤立しているという点もロジオンにとっては有利である。

「これでとっとと帰ってくれれば、都合がいいんだがな」

 そう呟き、ロジオンは主人の待つ食堂へと向かった。

 食堂の広い室内の中心、高い天井から吊るされた豪奢なシャンデリアの真下には、白いシーツをかぶせられた長いテーブルがある。もちろん、というべきか食堂を囲む壁の窓は全て塞がれており、窓枠や窓を塞ぐ板の隙間からわずかに漏れる光が白い石造りの空間に明るさを与えていた。

ロジオンが食堂に入ると、すぐに机を囲む椅子の一つに座っている主人と目があった。

「おお、ロジオン、客人の様子はどうだった?」

 上機嫌で呑気な声に、ロジオンは胡乱げに目を細めた。

「すでに御目覚めでしたよ。もう少ししたら来られるかと」

「おお、そうか。いやあ、楽しみだなぁ」

 主人は両手を擦り合わせ、口元を緩めた。客を迎えるのを楽しみにしている主人に、ロジオンは渋面を作るのを堪えながら彼へ近づく。テーブルの上に立つワインの瓶を手に取り、くすんだラベルを見る。主人とマシェッタとが口にするであろうそれは、昨日ロジオンが用意した1854年もののワインだ。保存状態がよければ美味かもしれないが、ひょっとしたら味が悪く、意地を張って飲んだら腹を壊すかもしれない。

「楽しみですね」

 ロジオンが意地の悪い笑みを浮かべる。

「ん?おお、そうだな!」

 主人はロジオンの様子に気付かず、上機嫌で相槌を打った。ロジオンはそわそわする主人を横目にワインを置き、主人の傍に立ってマシェッタが来るのを待った。

「……」

「……」

 部屋に落ちる日の光が傾きを変え、食堂全体の彩りを徐々に変える。その様子を見ながら、やがて主人が沈黙に耐えきれなくなり口を開いた。

「おいロジオン、まだ彼女は来ないのか……?」

 流石にじれてきたのか、苛立ちをわずかに含ませながら主人はロジオンに言った。

「確かに、えらく遅いですね」

「えらく遅い、じゃないよな?私もう来ないだろ、って思うくらいには待ったぞ」

「僭越ながら、私もです」

「ああそうだな。ロジオン、ちょっと見て来い」

 ロジオンはこれに頷き、部屋を後にした。

 マシェッタの部屋にたどり着き、ドアを叩く。待ってみたが、返事一つ、物音一つしなかった。怪訝に思い、わずかに扉を開いて室内を覗いてみる。

 窓の一つが開かれており、外から流れる風でカーテンがたなびいているのが見えた。まさか、と扉を開いてみると、室内に誰もいないのが分かる。荷物も見当たらず、ロジオンはマシェッタが逃亡したのだと分かった。

「まさか、跳び下りたのか?」

 ロジオンは窓の外を覗き見て、そう呟いた。部屋から地上までは距離があり、もしも人間が跳び下りれば怪我は免れない高さだ。打ち所が悪ければあるいは、とロジオンは思ったが、見下ろした光景のどこにもマシェッタの姿はなかった。彼女の姿を探して周囲に目を巡らせ、そしてすぐに、ロジオンは自分が目にしたものに驚く。

 城の壁のあちこちに広がった苔が不自然に剥がれた箇所が四つほど、連なっているのが目についた。ロジオンの知る限り、昨日までにはこんな跡はなかった。

 これは、彼の油断していた部分に衝撃を与えた。吸血鬼の命を狙うであろう人間が、平凡な人間であると決めつけるのが間違いだったのだ。

「一体どこに……!?」

 ロジオンはすぐに踵を返し、食堂へと向かった。廊下を走り、滑り込むように食堂の入口まで戻る。最悪の事態を危惧していた彼だったが、すぐにきょとんとした顔をした主人の姿を見て緊張を解いた。マシェッタの姿もない。

「お客様を見かけましたか?」

「え、いなかったのか?来てないぞ」

「こちらにもいません。どうやら外に出られたようですね」

 そう答えたロジオンの胸中には、次の疑問とそれに対する危惧とがあった。それとなく主人に近づき、彼の隣に立つ。

「いったい彼女は外に何しに出たんだ?」

 ロジオンの疑問を代弁するように、主人が首を捻った。

「さあ、見当も……。きっと車に戻っただけでしょう」

 ロジオンは主人に要らぬ心配をさせぬよう、楽天的な見解を述べた。主人はふむ、と唸った後、納得したように二、三度軽く頷く。

「まあ、事情があるのだろう。にしても、黙っていなくならなくてもいいのになー」

「きっと長居する気はなかったんですよ、ここ陰気ですし、埃っぽいですから」

「ここは私の城なんだけど、それは分かってる?管理してるの、お前だよね?」

「手が足りないんですよ。あと一人くらい増やしてくれれば私も楽になるんですがね」

「えー、メンドくさいんだぞゾンビ増やすの」

「面倒でもお願いしますよ。私だって、いつまでもあなたの世話ができる訳じゃないんですよ」

 ロジオンの言葉は冗談ではなかった。

 ゾンビの寿命は、その肉体の寿命だ。代謝しない死肉の体は、時間が経つにつれ次第に朽ちていく。気温の低い場所に吸血鬼が根城を構えるのは、使役するゾンビ達を長持ちさせる意図もあるのだ。

「その時はその時だ。お前の代わりはいくらでもいる」

「よく言いますよ。躾けたゾンビに逃げられたのは、誰ですか?」

「お前それは言うな……」

 痛いところを突かれたように、主人が苦い顔をした。

「そうだご主人様、あの方について言っておくべき事があります」

「ん、何だ?」

 ロジオンは大事な事だと言って聞かそうと、ずいと主人に顔を近づけた。主人は何事かと目を瞬かせる。

「あの方は吸血鬼狩りです。間違いありません」

 ロジオンにとってこれは何より重要な話だったのだが、主人の反応は良くなかった。すぐに気の毒なものを見るような目になり、呆れた声でロジオンに言う。

「お前はついに脳まで腐ったのか」

「ハナから空っぽのあなたに言われたくありません」

 ロジオンにとっては予想通りだったが、頭の痛い事態であった。

「吸血鬼なんてこの辺にはいないだろ。彼女が吸血鬼狩りだとして、なんでウチに来るんだ?」

「あなたが吸血鬼だからですよ」

「またそれか。いい加減にしないと私でも怒るぞ」

 分からん人だ、とロジオンは胸中で一人ごちた。

主人はある時以来、自分が吸血鬼である事をすっかり忘れてしまっていた。ロジオンがゾンビである事や、既知の友人が魔女である事など、自分にまつわる人物やかつて経験した事はしっかり覚えているのだが、この点だけはすっかり彼の頭から抜け落ちているのである。その為か主人の生活リズムは逆転し、主人は夜の眷属でありながら昼に起きて夜に寝る生活を送っていた。何の準備もなく日光に身を晒そうとする事も珍しくない。ロジオンがいくら言っても主人は信じず、その為ロジオンは終始主人から目を離せなくなったのだった。ただでさえ主人が迂闊な性格なのに加えて、その命を狙う者までやってきたのだから、今のロジオンは悩みの種が尽きなかった。これ以上話しても、マシェッタが主人の命を狙ってると言っても信じてもらえないのは間違いない。

 言い合う二人へ、新たな声が飛んだ。

「ずいぶん話が弾んでるようね」

 その声に、主人とロジオンが同時に入口を振りかえった。そして目にしたもの、つまり、声の主であるマシェッタの姿を見てふたりは呆気に取られた。

 マシェッタの履いているブーツは泥や千切れた枯草にまみれ、着ている黒いコートにはあちこちに樹皮や雑草の葉がこびりついている。後ろで束ねた長い赤髪も乱れ、細い枝がいくつも絡まって付いている有様で、野山を走り回ったのが一目で分かる有様だった。何より、彼女がグローブをはめた片手で背中に担いでいるものが彼女のしていた事を雄弁に表していた。独特の臭いを放つそれを見て、ロジオンが尋ねる。

「あの、それは……?」

「見りゃ分かるでしょ?猪よ」

 マシェッタは毛皮に包まれた肉の塊を軽くゆすってみせた。猪は首の後ろを掴まれており、後ろに投げ出された四本の脚が振動で力なく揺れた。すでに息の根を止められているらしく、猪に呼吸している様子はない。

 先ほどまで相当の苦労をしてきたからか、今の彼女の目は荒んでおり、息も荒い。ロジオンは彼女の表情に鬼気迫るものを感じ、我知らず息を呑んだ。

 主人もまた、彼女の姿に呆気に取られていた。しかしやがて我に返ると、彼はにわかに目を輝かせた。

「すっ……、すごいな客人!」

「は?」

「え?」

 二人の驚きをよそに、主人はなおも感動を表す。

「一人で猪を狩ってきたとは、実にすごい!どんな手を使って仕留めたので?」

 感激する主人に、マシェッタは予想外な反応に面食らいながら質問に答えた。

「え、ええと、その……、う、ウチ昔っからお金がなくて、だからずっと、小さい頃から狩りやら釣りやらで生計を立ててたの。だからその、……そんな立派な事じゃないのよ」

 マシェッタから先ほどまでの気迫が霧散し、彼女はしどろもどろになる。

「何をおっしゃる。食べる為の技能はそれ自体が立派なものです。もっとあなたは誇るべきだ」

 主人が本心から褒めているのは声色や表情からも明らかで、マシェッタは複雑な顔をして目を逸らした。妙な空気になったところで、ロジオンが口を開く。

「……私も生前、猟師だったんですが」

「ん?だから何だ?」

「いえ、言ってみただけです」

「それよりご客人、なぜ今狩りを?」

 主人のこの質問に、我に返ったマシェッタが表情を変えた。

「ああそうだ、そこの従者さんがご飯を食べないって言っててね。私の分のご飯は期待できなさそうだから、自分で狩って来たのよ。もうペコペコでね」

 こう言われて、主人はロジオンの方を見た。ほぼ同時に、ロジオンは彼から目を逸らした。主人は何も言わないロジオンをじっと見、すぐにマシェッタに視線を戻す。

「これは失礼いたしました。せめてものお詫びです。その猪をお口に合うよう調理させましょう。ロジオン」

 主人の指示に、ロジオンは忠実に従った。悪びれた様子もなくマシェッタへと歩み寄り、彼女の手の届かないぎりぎりの位置で立ち止まる。

「降ろしてください。私が持って行きますので」

「あら、そう?じゃあお願い」

 マシェッタは猪から手を離した。重い音を立てて猪の体が石の床に叩きつけられ、ぐったりと横たわる。猪の巨体と音から知れる重さにロジオンは少なからぬ驚きがあった。マシェッタは自由になった手を雑に降って手の関節をほぐし、主人に言う。

「流石に喉が渇いたから、水でも飲みたいのだけど」

「ええ、勿論です。こちらにワインもありますが、いかがしましょう?」

 主人がワインの入った瓶の首を掴み、その口を軽く回してみせた。

「あら素敵。じゃあ一杯いただこうかしら」

 マシェッタは笑みを浮かべ、主人の向かいに置かれた椅子を引いた。

 ロジオンは彼女の後姿を見ながら、猪をおぶるようにしてどうにか立ち上がろうとした。しかし猪は重く、ロジオンは膝はおろか、背筋すらも伸ばし切る事ができない。中腰で、猪の下半身を引きずるようにしながら食堂を出ようとする。

 主人とマシェッタを二人だけになどしたくはなかったが、ここで食堂に残りたがっては主人に不信を持たれかねない。そうなればますます、自分が主人とマシェッタとから遠ざけられてしまう。そう考え、ロジオンは断腸の思いでその場を去った。

 幸い、というべきか、一方でロジオンには一つの安心材料があった。

 椅子に腰かける際、マシェッタはもう片方の手でずっと持ち続けていたトランクを床に置き、手を離したのだ。おそらくは、猪を仕留めた武器が入っているトランクを。

『……そういえば、この大きさにしては軽いな』

 猪を引きずりながら、ロジオンはふとそう思った。


 ロジオンが去ったのを見送ると、マシェッタは改めて主人の方を見た。汗と泥とのせいで額に張り付いた髪を払い、椅子に座り直す。

「あの従者さんとは、どのくらいの付き合いなの?」

「そうですねぇ……。忘れましたが、相当長い付き合いですよ」

「他に人はいないの?」

「あれはゾンビですよ。人ではありません」

 主人は当たり前のように言ってのけた。これをマシェッタは聞き流しかけ、そして驚いた。

「……、え!?ゾンビ!?」

「ええ。あなたも映画などでご存じでしょう?ああ大丈夫です、きちんと教育していますから、人並みには賢いですよ」

 そう語る主人の口ぶりはどこか誇らしげで、マシェッタの反応を喜んでいるようでもある。対して、マシェッタの動揺は主人の予想以上に大きかった。

『な、何でわざわざゾンビと明かすの?そんなの普通の人に言ったって、怖がらせるだけじゃない。……やっぱりこいつ、私が吸血鬼狩りと分かって言ってるの?』

 動揺を顔に表すマシェッタを見て、主人は思う。

『ううむ、実に良い反応。客人にサプライズを与えるのはホストの義務で、醍醐味だからな。やはりもてなしには、少々の刺激がなくては面白くない』

 反応を喜び、主人が笑みを浮かべた。マシェッタはこれにぞっとする。

『っ!?笑ってる……?やっぱりバレてるか。これじゃ下手に動けない。くそぉ、どうするべきなのよ……!』

 歯噛みするマシェッタ。我知らず、椅子の隣に置いたトランクに手を伸ばそうとする。

『ん?何やら不満そうだな。ふーむ……、あ!』

 主人はふと、自分が手にしていたワインの瓶からまだ栓を抜いてなかった事に気付いた。手元に置いていたコルク抜きをもう片方の手で取り、彼女に言う。

「これは失礼。すぐに開けましょう」

 我に返ったマシェッタは、弾かれたように手を引っ込めて背筋を伸ばした。

「え、あ、……どうも」

 居住まいを正すマシェッタ。彼女の前で、主人はばねのように巻かれた針の先を瓶の口を塞ぐコルクに突き刺した。ねじ込むように針を刺す主人を見ながら、マシェッタは再び思案にふける。

『ワイン……、毒?いやまさか。仮にも吸血鬼が、そんな手段を取るわけがない。血に毒が混じるから嫌がるとか、聞いた事があるし』

「ぬっ、く……っ、どうも難しいな」

 コルクに四苦八苦する主人の脇が次第に開き、両肘が外側に向く。ワインの口に集中する主人の表情を見て、マシェッタの眉根は寄った。

『……?ずいぶん下手ね。何か慣れてない感じ。って、コルクが崩れそうじゃない』

 力のこもった主人の手が、強引にコルク抜きを回していく。コルク抜きの針が回り、針のねじ込まれた穴からコルクの木端がかき出されていくが、針が深く入っていく様子はない。次第に針が傾き、このまま主人に任せておけばコルクに穴が開きかねなかった。

『あ、ワインに粉が入りそう!お酒なんて四年ぶりなのに!ああもう、もったいない!』

 彼女の舌や喉は、彼女にとっては贅沢品であるワイン、それも一目で年代物と分かる代物を前に、率直に欲求を思考にぶつけていた。なので、今やマシェッタの頭からは、吸血鬼が眼前にいる根源的な恐怖や危機感はすっかり失せていた。アルコールを求める彼女の喉が主人の手つきに耐えきれなくなり、ついに声を発する。

「ああもう、貸して!」

 主人が目を丸くし手を止めた。素直に差し出された瓶を、マシェッタはひったくるように受け取った。刺さったままのコルク抜きを見て顔をしかめ、瓶の口から少しばかり飛び出したコルクの先を親指と人差し指でつまむ。彼女は二本の指でコルクをわずかに押し潰し、力を込める。

「ぬっ、……、ちぇい!」

 きゅぽん、と音を立ててコルクが瓶から引き抜かれた。二、三滴のワインの滴が瓶の口から跳ね、放物線を描いて彼女の視界を横切る。

「ああちょっと跳ねちゃった。もったいない」

 跳ねた滴を目で追って、マシェッタはそう一人ごちた。

 彼女の様子を見ていた主人は、茫然と彼女を見ていた。主人の視線に気付いたマシェッタは彼の反応に首を捻ったが、すぐにコルク抜きが刺さったままのコルクを見て、自分がした事に気付く。

「ああ、ごめんなさい。そっちに跳ねた?」

 マシェッタはコルクからコルク抜きを引き抜き、これを主人に返した。

「……失礼、驚いただけです」

 主人はコルク抜きとコルクとを受け取り、そして瓶も受取ろうと手を伸ばす。しかしマシェッタはこれに気付かず、自分のグラスにワインを注ぎ始めた。目を丸くする主人を見ながら、彼女は勝ち誇ったように胸中で呟く。

『これで変なものは入れられないでしょう。残念ね、吸血鬼』

 勝ち誇った彼女の顔に、笑みが浮かんだ。挑むような輝きが彼女の目に宿る。

 この目を真っ向から見ていた主人は、彼女にすっかり呑まれていた。

『なんてパワフルな人なんだ……!どうしよう、好きになりそうだ』

 とくとくと、ワインがグラスに注がれる静かな音が食堂に響く。これは今の二人にとって、何より耳に心地よい音であった。



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