3.ご自分でお願いします
日が落ちる直前から降り始めた雨は今、夜闇の中で容赦なく彼女の乗るおんぼろなクラシックカーの窓やボンネットを叩いていた。無数の雨粒がばたばたと音を立てながら小さな車体を揺らし、夜の冷え込みと相まって窓ガラスを曇らせる。それでも彼女はアクセルを踏み続け、車はけなげにも運転に応えながら舗装されていない獣道を走り、上下に跳ねながらも木々の間を潜り抜け続けていた。着地の度に地面に溜まった雨水と泥とが何度も盛大に撥ね、車体を汚す。
「くっそ、ええい!どんだけ悪路なのよ!」
揺れる運転席の中でハンドルを握る彼女は悪態を付きながら、ヘッドライトの照らす先を睨んだ。車の周辺には他に明かりの類はなく、月明かりすらも木々が広げた枝葉によって遮られている。そんな暗闇の中での車の運転は、彼女を非常に苛立たせていた。
進む先は明るい内に頭に入れていたので、地図を広げずとも道に迷う事はない。それでも生い茂る木々を潜り抜けるために何度も曲がらねばならず、暗闇の中では目印もない。なので、彼女は記憶と感覚と、車のヘッドライトが照らす数歩先の前の状況だけで目的地を目指さねばならないのである。豪雨のせいもあって視界は悪く、路面の状態も悪い。彼女が気を張り詰めさせるのも無理からぬ事だった。
彼女がハンドルを勢いよく回してアクセルを踏むと、車は文句を言うように古びたエンジンを一際大きく唸らせて進行方向を変えた。すぐ傍に立つ木を回り込んだ時、彼女は目にしたものに驚いて咄嗟にブレーキを踏み込んだ。回転するタイヤがぬかるんだ地面で空回りし、車体が数メートル滑った後でようやく静止する。車の中で、彼女は暗闇の向こうに見えるものに目を疑った。
「……明かりだ」
見上げた木々の隙間から、か細くも小さな光が等間隔に並んでいるのが見えた。降りしきる雨のせいで視界は悪いが、彼女にはその存在が一層際立って見えた。彼女の今いる位置からさほど遠くは無く、しかもそこは彼女の記憶していた目的地の場所とも合致していた。
再び車を走らせると、彼女はすぐに目指していた場所へ着く事が出来た。そこは朽ち果てた古城であり、雨に打たれている城の窓からは明かりが漏れていた。光が灯っているという事はつまり、誰かがそこに住んでいるという事に他ならない。
「ここが吸血鬼の……」
開きっぱなしの鉄の門は、天候のせいもあって彼女を招き入れようとしているかのようである。彼女の口が固く閉じられ、その目が助手席に乗せていたトランクに向けられた。
「……絶対、仕留める。ケチな教会から大金せしめて、絶対実家を立て直すんだ」
呟く声には、強い決意がにじんでいた。彼女は再び前を見てゆっくりと車を進め、城の門をくぐった。不意打ちを警戒して周囲を見回すが、ふと吸血鬼が流水を苦手とするのを思い出し、いらない心配をした自分に呆れた。
適当な空き地に車を停め、少し悩んだ後、得物の入った方のトランクを取ると、黒い大きな傘を差して外へ出た。北国の寒さと夜気の冷たさに身を震わせ、彼女はトランクを取り車のドアを閉めた。ばたたた、と頭上で雨が傘を打つ音が彼女の耳朶を震わせ、彼女はそのうるささから逃げるように城の扉の前へ行く。扉のノブに手をかけようとして、彼女はその手を止めた。
このまま正面から黙って入るべきだろうか。もしここが本当に吸血鬼の住まいだとすれば、それは無策もいい所である。実力の知れない相手と真っ向から挑むほど、彼女は無謀ではなかった。侵入して居場所を突き止め、暗殺するのが一番良い。
激しい雨のおかげで車を敷地内に入れるのには気付かれなかったようだが、それでも屋内へ侵入するとあれば勝手が違う。仮に侵入に成功したとしても、ずぶぬれになった足が足跡を床に残してしまうのは明らかだった。かといって、今さらこの場を立ち去るのもおかしな話だ。
彼女がどうするべきか思案に暮れていると、不意に窓から光が漏れた。蝋燭に灯した炎のか細い光が、屋内から差してきたのだ。
狙い澄ましたように上がったこの光で、彼女はびくりと身を震わせた。炎の明かりは城の扉を挟むように並んだ大きな窓から差しており、彼女には、屋内にいる何者かが自分に気付いてそんな真似をしているのだとすぐに察せた。
気付かれているなら、いっそ正面から行くべきか。
彼女は腹を決め、一度は触ろうとしてやめた扉のノブを握り、その扉を開いた。古く錆びついた蝶番が、ぎぃぃぃ、と大きく軋みながら角度を変える。
できた隙間から城の中を覗くと、そこは暗闇だった。かろうじて見える自分の足元には趣味のよい柄のカーペットが敷かれており、毛並を一目見ただけで手入れの行き届いているものだと分かる。誰かが住んでいるというのが暗に示されており、彼女は扉の陰に身を隠して屋内を覗いた。
彼女が視線を上げた先、広い暗闇の奥でぽっ、と小さく炎が灯った。炎の周りの闇が薄れ、一つの顔をおぼろげに映しだす。
現れたのは端正な、ほっそりとした顔立ちの男であった。彼女は一目見て、それが牧師からもらった写真に写っていた男だとすぐに分かった。
男は彼女をじっと見て、ふ、と微笑みを浮かべた。広間の奥にあるらしき階段の上に立ったまま、そこから降りようとはしない。薄い唇がかすかに開き、静かに言葉を紡ぎだす。
「ようこそ、ご客人」
それが他ならぬ自分に向けられたものだと分かり、彼女は表情をこわばらせた。隠れる理由がなくなったのを察し、彼女はやむなく扉の陰から出る。
「……どう、も。ずいぶん夜も遅いけど、よろしかったかしら?」
動揺で荒れそうな息を必死で抑え、彼女は貞淑な女を装うよう努めて尋ねる。彼女の問いかけに、男は柔和な笑顔を浮かべた。
「どうぞご心配なく。私はいつでも客人、とりわけ、お美しいご婦人をお迎えする準備を万全に致しております。ご安心を」
美形である吸血鬼にほめられても皮肉にしか聞こえず、彼女は素直に喜べなかった。無論、世辞だとは分かっている。
彼女が容姿に自信がないと言えば、嘘になる。長い赤毛は彼女の自慢であり、日々鍛えた体は締まったものだ。しかし吸血鬼と比べれば、どんな美貌であろうとかすんでしまうものだ。教会が吸血鬼を忌み嫌う理由も、今の彼女には納得できる気がした。
とはいえ、これは願ってもない申し出である。接近する理由があれば外の風雨がしのげる上、暗殺も容易になる。彼女はやや卑屈になりながらも、眼前の吸血鬼に笑みを浮かべた。
「素敵な考えね。だったら、遠慮なく軒を借りようかしら」
男は上機嫌な顔でこれに頷いた。
「どうぞどうぞ。軒と言わず、一室をご用意いたしましょう。ロジオン」
男のすぐそばで、ぱちんと指を鳴らす音が響いた。その音に呼ばれるように彼の隣でもう一つ、炎が浮かぶ。現れた炎に照らされて、新たな顔が浮かび上がった。
その人物が吸血鬼ではない事は、彼女には一目で分かった。白い肌には張りも、生気もない。目玉は片方無いが、男は空の眼窩を隠す素振りを一切見せず、片目だけで彼女を睨んでいた。手にした燭台の炎に照らされたその表情は、彼女をただの余所者として見ているものではない。
「ロジオン、婦人の前だぞ。アイパッチをしておけと言ったろう」
吸血鬼がゾンビを窘めるように言うと、ゾンビはわずかに眉根を寄せ、不満の色をわずかににじませながらこれに答えた。
「……申し訳ありません。どこかに無くしてしまいまして」
「全く。お前は本当に抜けた奴だな」
やれやれ、と吸血鬼は呆れたように肩を竦めてみせた。笑いを誘おうとしての仕草のようであったが、今の彼女の目にその姿は映らなかった。
彼女は吸血鬼がゾンビを使役する事をすでに知っていた。そしてその、ロジオンと呼ばれたゾンビから、自分に向けられた明確な敵意を読み取っていた。
ロジオンの表情に変化はない。じっと見ている彼女の眼差しに、黙って片目で睨み返すだけだ。
両者の間に漂う空気に、吸血鬼は首を傾げた。
「……ロジオン、知り合いか?」
的外れな質問にも、彼女は動じるまいとした。しかし彼女は、それまでの緊張を思わず緩める羽目になる。
「そんな訳ないでしょう。初対面です」
ロジオンが、心底面倒くさそうな顔になって吸血鬼の方を見た。感情のにじんだその声音を受けて、吸血鬼もまた、砕けた口調で答える。
「だよなぁ。実は私もなんだ。それにお前確か、百年ちょっと前に死んだって言ってたもんな」
「ええ。猟銃持って猟師をしてました」
その回答に、彼女は耳を疑った。ゾンビが生前の記憶を持っているなど、思ってもみなかったからだ。彼女がそれまで持っていた、ゾンビというものが知恵遅れで、まともな思考を持っていないという先入観に大きなヒビが入る。
二人は彼女の様子に気付かず、やりとりを続けていた。
「にしてはお前、客人を見る目がさっきから険しいぞ?虫の居所でも悪いのか?」
「久しぶりの来客に、緊張しているだけです。それと、虫の話はおやめください」
これは嘘だ、と彼女は思った。しかし吸血鬼はこれに納得したらしく、ふむ、と頷いた。
「なるほどな。お前にも血の通った人間らしいところがあったのか」
しきりにふんふんと頷く吸血鬼。これにロジオンは物言いたげな目を向けていたが、吸血鬼がそれに気付く様子はなかった。
一方、彼女はというと、二人の気の抜けたやり取りに戸惑うばかりであった。高貴でプライドの高いはずの吸血鬼が間の抜けた事ばかり言い、その度に知能の低いはずのゾンビが呆れた目を向けて吸血鬼の言葉に答えている。二人の様子は、彼女が今まで持っていた吸血鬼やゾンビのイメージとはひどくかけ離れていた。
「……ずいぶん仲がよろしいのね」
思わず、彼女はそんな感想を漏らした。それを聞きつけたロジオンが、間髪入れずこれに答える。
「仕事ですので」
あまりに早い返答に、彼女は「そ、そう」と頷く他なかった。
彼女の言葉を機と見たように、主人が彼女に語りかける。
「もう夜も遅いですから、すぐにでもお部屋に案内させましょう。ロジオン、失礼のないようにな」
吸血鬼の言葉にロジオンはわずかに眉をひそめたが、すぐに「畏まりました」と答えた。彼はカーペットの敷かれた大広間へ歩みを進め、彼女へと近づいて行く。
彼女はロジオンを、油断のならない相手と判断し、警戒心を強めて彼を見据えた。傘を畳み、その先端を玄関の床で軽く叩く。傘の水を落とすのと、自分は武器を持っているぞという、相手への警告とを兼ねた動作だ。我知らず、トランクを持つ手にも力が入る。
ロジオンは彼女の間合い、ちょうど彼女が手にした傘を突き付けたら届くかどうかといった距離で足を止め、わずかに頭を下げた。
「……ようこそ。あの方の従者をしております、ロジオンと申します。お部屋にご案内いたしましょう」
歓迎の意の込められていない言葉に、彼女も応じる。
「……ええ、よろしく」
彼女の返答を聞き、吸血鬼が満足げに微笑んだ。
「どうぞ、自分の家と思っておくつろぎください。ワインもご用意できますが、お疲れでしょうし明日にしましょう。では、私はこれで」
そう言って、主人は彼女に会釈して階段の上へと消えた。何のつもりかと闇に消えた吸血鬼を睨む彼女に、ロジオンが小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「何を警戒されているのですか?」
目ざとい奴だ、と彼女は思った。教会の関係者とは気付かれないよう、彼女は言葉を選んで答える。
「いえ、そういう訳ではありません。素敵な方でしたので、少し驚いただけですよ」
「本人が聞いたら喜ぶでしょうね」
面白くもなさそうにロジオンは言った。
「それより、あの方はどちらに?」
「自室でしょう。あれで結構、おネムなようでしたので」
彼の口ぶりはつまらない世間話をするようなもので、彼女はこれを聞き流しかけた。しかしすぐに彼の発言の内容に気付き、耳を疑う。
「……えっ?嘘でしょ?」
「本当です。芝居の出来る方ではありません。ずいぶんとあなたが来られるのを楽しみにしていましたから。……ところで」
彼女を見るロジオンの目が、すっと細まった。
「何で嘘だと思ったのです?夜に寝るのがおかしいとでも?」
問いかけに、彼女ははっとした。動揺を悟られまいと、言葉を選んで答える。
「……い、いえ。あまり眠そうに見えませんでしたから」
「夜には強いんですよ。朝には弱くて、そのくせ夜に眠りたがるから困ったものです」
「へ、へえー……」
まるで夜更かしのひどい子の躾けに困る親のような言いぐさに、彼女は呆けたように頷いた。本当にここが吸血鬼の根城なのか、怪しいとすら思える。
「……あの、このお城には、他に誰かお住まいなの?」
「いいえ、ご主人様と私だけです。昔はもっとたくさんいたのですが、あの方に愛想を尽かした者が次々と出て行ってしまい、残っているのは私だけですよ」
この言葉は、彼女にとっては何より有益な情報だった。つまり、警戒する相手は二人でいい訳である。
「そう。寂しくないの?」
「いえ、別に。最近まではあちこちを飛び回ってましたから、むしろ静かなのが落ち着くくらいですよ」
無駄話を打ち切ろうとするように、ロジオンが踵を返した。遠ざかる彼を追おうと、彼女も足を踏み出す。
「そういえばお客様、あなたのお名前は?」
「マシェッタよ。もうくたくたなの」
そう言って彼女は肩を竦めた。
客人用の一室に通されるまでに、ロジオンに怪しい動きは一切なかった。それが彼女を迎え入れる為なのか、それとも彼女の隙を誘う為のものなのかは、マシェッタには分からなかった。とはいえ、彼女も自ら仕掛けて隙を作る程愚かでもなかった。
結果として、二人は何事もなく目的の部屋へと辿りついた。到着した扉の前で、ロジオンが足を止めて彼女を見る。
「室内のものは好きにお使いください」
そう言って、彼は持ち歩いていた燭台をマシェッタに差し出した。彼女はこれを受け取り、ロジオンに炎の先をわずかに傾けて尋ねる。
「シャワーとトイレは?」
「水瓶を用意してますので、体はそれでご辛抱ください。用を足すならこの廊下の突き当たりの部屋で願います」
「水道もガスもないの?不便な所ね」
言いながら、マシェッタは部屋の扉を開いた。直後、窓を叩く豪雨の音が彼女を出迎え、彼女は思わずその音に怯む。外の雨が一段とひどくなったのが分かり、彼女は強い閉塞感を感じてロジオンを見た。
「……不便にお思いでしょうが、ご辛抱ください。では、私はこれで」
ロジオンは一礼し、その場を去っていった。明かりも無しに淀みない足取りで遠ざかる背中をマシェッタは見送り、彼の姿が見えなくなるとすぐに彼女は部屋に入って扉を閉めた。部屋を見回し、やはりか、とため息をついた。簡素なベッドと、人がどうにか入れる程の大きさの水瓶、小さな机と椅子があるだけで、他の家具は見当たらない。机は引き出しがないもので、彼女はロジオンの周到さに忌々しさを感じた。
「用心深い事ね」
これでは武器や罠を隠せない。
彼女は用心の為にベッドの下を覗き込んだが、怪しい点は見当たらなかった。自分に対して仕掛けられた罠が無いと分かると、彼女はようやくベッドに腰を降ろすことが出来た。燭台を机に乗せ、トランクと傘とから手を離すと、ようやく両手が自由になる。
「ふう……。これからか」
明日また、吸血鬼と顔を合わせる。ロジオンというゾンビの目を盗み、吸血鬼の隙をついて暗殺すれば、それで彼女の役目は終わる。
彼女はふと、胸元にしまった銀のナイフを取り出した。牧師から渡されたそれは、鋭い切れ味を見せつけるように、蝋燭の光を受けて滑らかに光っている。
「……」
彼女は牧師の見下したような目を思い出し、ちっ、と舌打ちしてナイフを机に置いた。
「こんなものには頼らない。あたしのアレで、仕留めてやるんだ」
彼女は自分の持ってきたトランクに目を向けた。中身は彼女の稼業であり、そして誇りだ。
雨の音はいつしか静かなものになり、蝋燭の炎は蝋を食みながら部屋を照らし続けていた。
明かりもない夜の廊下を、ロジオンは慣れた足取りで歩いていた。ふと前に立つ気配を感じ、足を止める。燭台の炎の明かりと共に、主人の姿がそこにあった。
「ロジオン、客人の様子はどうだ?」
上機嫌で尋ねる主人に、ロジオンは呆れを露骨に顔に表した。真夜中の来訪者に警戒心を微塵も見せない主人の常識の無さを、まざまざと感じさせられたからである。
「……ずいぶんお疲れのようでしたので、すぐに部屋に入られましたよ」
「そうかそうか。ならば私も早く寝んとな。そうそう、ちゃんとワインは選んであるのか?」
「1854年のものがありましたので、そちらをご用意いたします」
ロジオンの返答に、主人はうむ、と満足げに頷いた。その様子を見て、ロジオンは彼に言う。
「ずいぶん嬉しそうですね」
「まあな。だってロジオン、もしかしたら、ついに私にお嫁さんができるのかもしれないんだぞ?」
「……は?」
「は、じゃないだろー?だってー、わざわざここまで来たって事はー、なあ?」
期待する返答を待つように、主人は首を傾げてみせた。ロジオンはというと、主人のこの反応に驚くよりも、むしろ事態が面倒な方向に進む気配がする事に頭を痛めていた。
「おいおいロジオン、ずいぶん難しい顔をしているな」
当たり前だろ、とロジオンは内心でそう吐き捨てた。
マシェッタという女は、間違いなく吸血鬼を狙って来た女だ。主人が吸血鬼である事を知っているのは明らかで、そして教会と何かしらの関係がある事も想像に難くない。でなければ、人里から遠く離れたこの城にたどり着く理由がないのだ。広大な森の中、入り組んだ獣道の奥にあるこの城は、探し出す事すら容易ではない場所にある。主人とロジオンが何年もそこで静かに暮らせたのも、その地理のおかげなのである。
主人が自分にとって都合の良い想像をしているのは明らかで、ロジオンはこの言葉を否定するべきか悩んだ。しかし、聞いたとしても、ロジオンは主人が自分の忠告に従うとは思えなかった。未だ自分を吸血鬼とは思っていない主人が、安易にマシェッタの前で吸血鬼という単語を口に出す光景がロジオンには容易に想像ができた。そうなれば、主人に何かしらの危機が迫るのは自明の理である。
「……ご主人様」
「何だ?」
「おそらくですが、あのお客様はしばらくの間ここに滞在されると思います」
「な、本当か!?」
主人が弾んだ声を上げた。思った通りの反応に、ロジオンはうんざりする。マシェッタが美人の部類に入る女であり、嫁を望む主人から見れば降ってわいた幸運のようにしか見えないのは、ロジオンの目から見ても容易に想像がついていた。
「それは嬉しいな!でも、何でだ?」
「お客様の目的がここにあるからですよ」
「何と。両想いだったのか」
感慨深げに呟く主人に、ロジオンは深くため息をついた。
「こうしてはいられんぞ。明日はおめかししていかんとな。ロジオン、以前カビまみれになった私の服は、どれだけ元に戻ってる?」
言われてロジオンは、以前地下牢に持ち込んだクローゼットに収められた、地下の湿気にやられた数々の衣服の事を思い出した。たとえカビにまみれていようが、服は外界に出る機会が滅多にない二人にとって貴重な資源の一つだ。一着として捨てられず、全てがロジオンによって手入れが成されている最中である。
「ああ、あれ等でしたら、まだ手入れが要るものばかりですよ」
「まだどれも駄目なのか」
「私一人で何着やってると思ってるんですか」
「手が足らない、と言いたい訳か」
「それもありますが、単純に手間がかかるんですよ。カビの菌糸は根が深いですし、何分生地が古いので、対処を間違うとすぐに破れるようなものも多いんです」
主人はロジオンの説明を黙って聞き、神妙な顔になって尋ねた。
「一着くらい、明日着るのに間に合うものはないのか?」
「探してみますが、期待はしないでくださいよ」
「するなと言われてしない奴はいないだろ」
「言いつけを守れる子供は、そうでないのに比べて頭が良いそうですよ」
話を打ち切るように、ロジオンは主人とすれ違い暗い廊下の奥へと歩いていった。その背に、主人が声をかける。
「明日は早く起こせよ」
「ご自分でお願いします」
今のロジオンに、主人に構う余裕はなかった。
招かれざる客人、マシェッタへの対応に思索を巡らせる。今夜は眠れない事を覚悟し、明日の為にするべき事を成すべくロジオンの足は自然と速いものとなっていた。
主人はロジオンの姿を見送り、彼の神妙な様子に首を捻った。考えをめぐらす内、窓を塞ぐ木の蓋越しに聞こえる雨音に気付く。
「……やはり湿気がきついからかな?」
ゾンビのロジオンが湿気を嫌うのを思い出し、主人はそう呟いた。