10.何年来の付き合いですか
窓の外に見える空が白み朝日が昇るのを見ながら、マシェッタはベッドから身を起こした。普段よりもずっと少ない睡眠時間のせいで瞼は重かったが、朝日は開きかけの目に痛いほどまぶしく、そのせいで彼女は眠気に従う事ができなかったのである。
「……」
本来ならここで眠っていない予定だったのを思い出し、彼女は居心地の悪さを感じ始めた。
城の主である吸血鬼を仕留めようと動いたのが昨夜の事。その結果天井からぶら下げられ、その状態から解放されたのが四時間前の出来事だ。吸血鬼に仕える少女のゾンビが仕掛けた魔法の罠にかかってしまったのである。
魔法の罠である糸は、城中のいたる所にぶら下がっている。糸は触れれば吸い付き、そして糸に触れた状態で激しい運動をすれば糸はどんどん緊張する。しかし触れられた状態であっても、一定以上の刺激を加えなければ自動的に消えてしまう為、決して日常生活を阻害するものではない。
つまり、城にいる限り誰も荒事に及べないという事だ。魔法で出来たその糸を切る方法は触った後で時間の経過を待つ他になく、もしもタウにやめさせようとすごんだとしても、何かしらの他の魔法で返り討ちに会いかねない。
「針の蓆って言うのかしらね、これ……」
そう呟いて、彼女は床に転がった杭打機に目を落とした。杭の射出速度を考えれば、間違いなく糸に絡め取られる。銀のナイフを使うのは彼女のプライドが許さなかったが、例え許しても今そのナイフは彼女の手元にはなかった。すでにロジオンに回収されていたからなのだが、彼女はナイフに未練を持っていなかった。
目下彼女を悩ませていたのは、今後の立ち居振る舞いについてである。少しでも素早く動けば、約三時間の拘束が待っている。主人の暗殺に及ぼうとしても、あるいは及んだ後に起こるであろう事態を想像するに、糸の罠は避けられない。現に今も、彼女は客室の天井から垂れ下がった何本もの糸が日の光を受けて光っているのを見て取る事ができるのである。何本かはすでに、彼女の全身のあちこちにつながってたるみを見せていた。
このまま寝転がっていても事態が好転する訳でもなく、彼女は仕方なしにベッドから降りた。立ち上がって着替えを済ませ、部屋を出る。罠がある今、彼女は無力な客分として食堂に向かわなければならなかった。
「ああ、気が重いなぁ……」
手ぶらでとぼとぼと歩きながら廊下を歩く。そんな彼女の背中や足から、糸はするすると伸びていく。一定以上の刺激を加えなければ、魔法の糸はいくらでも伸びるのだ。
食道の前にたどり着いた彼女は、扉に近づき渋々それを押した。扉をわずかに開き、彼女は中の様子を覗き見る。
長い机の向こう側に、ロジオンとタウがいた。ロジオンは腕を組んで難しい顔で黙り込んでおり、マシェッタは最初ロジオンがタウを責めているのかと思った。しかし当のタウは何やら落ち着きなく困ったように辺りを右往左往しており、二人の様子にマシェッタは疑問を抱いた。二人ともが悩みを抱えているようだが、互いの様子を気にかける気配がない。同一の問題を抱えているのは明らかだった。
事態を観察しようとする彼女だったが、彼女の視線にタウが気付く。とっとっと、と近寄ってくるタウに、マシェッタは観念したように扉を大きく開いた。彼女に気付いたロジオンが彼女を見、あ、と声を上げる。彼女もロジオンの反応に、うへ、と思わず声を漏らした。
「……」
ロジオンは何も言わず、複雑な顔をしていた。困ったような顔をしているが、その目はマシェッタを責めるようなものではない。それよりはむしろ、彼女に何か意見を求めようとしているかのような目だった。
マシェッタはこれを怪訝に思い、タウに視線を落とした。タウはスケッチブックを開き、あらかじめ書いていたらしいページを開いてマシェッタに見せた。
しかし、マシェッタに、タウの癖の強い筆記体は読めない。読めない自分を恨めしく思いながら、マシェッタは不本意ながらロジオンに尋ねた。
「一体どうしたって言うのよ?」
彼女のその問いに、ロジオンはタウのスケッチブックを指差してこう答えた。
「『助けてくれ』、そう書いている」
「だから、一体何があったの?」
そう聞いた後、マシェッタはようやくある事に気付いた。いつもならここにいるはずの顔がない。
「ご主人様が部屋から出ない」
主人がいるという部屋に、マシェッタは覚えがあった。昨日ロジオンが無理やり主人を閉じ込めた、鏡の置かれた空き部屋だ。ロジオンに強引に閉められた鍵はすでに開かれていたが、マシェッタが扉を開こうとしてもなぜかびくともしなかった。
「内側からつっかえ棒でもしてるんでしょう」
ロジオンは半ば呆れたようにそう言って、扉を三度ノックした。
「ご主人様、開けてください」
『断る。私は絶対ここから出ない』
ドアの厚さでこもった声で返事が返ってきた。その声色から、主人がどういった心境なのか三人には手に取るように分かった。
「……拗ねてるのね」
「しっ!」
ロジオンが口元に指を立てマシェッタを睨む。何のつもりかと彼女が口を開きかけた所で、タウがスケッチブックを彼女に見せた。
『ご主人様はとても耳の良いお方。たとえ小声でも、ご機嫌を損ねるような事を言ってはなりません』
もちろん、マシェッタにはタウの字は読めない。すかさず、ロジオンが脇腹から取り出した万年筆で同じ内容をブロック体で書きこんだ。それでようやく、マシェッタは文面を理解する。
「……ああ、なるほど」
ようやく内容を察したマシェッタは、口を開かずにロジオンを見やった。「どうするつもりよ」と目で訴える彼女に、ロジオンは廊下の奥を指差してみせる。「こっちに来い」という暗黙の指示に、マシェッタとタウは黙って頷いた。
一行は廊下の突き当たりにある階段を降り、地下に行くにつれてマシェッタの表情が怪訝なものに変わっていく。ロジオンが先行しながら、道すがら燭台を掴み、蝋燭の先に火を付けるのを見ると、彼女の顔は警戒心からさらに不審者を見るようなものになった。なおも階段を降り、蝋燭の炎以外の光源が存在しない地下道まで行くと彼女は先へ進むのをためらったが、争いを嫌うタウが同伴している事を思い出し、渋々明かりを追って歩いていった。
「……で、何でこんな所に来たのよ」
城の地下牢の中にたどり着いた頃、ようやくマシェッタは口を開く事ができた。燭台に立てた蝋燭がなければ何も見えない暗闇の中は石の冷たさで非常に寒く、近くに地下水でも通っているからか湿った空気が一層寒さを引き立て、マシェッタは思わず身震いした。苔にまみれた石の壁は、蝋燭の炎の光を受けてぬめりを帯びたように光を跳ね返していた。
ロジオンが牢の中で足を止める。マシェッタがようやく着いたかと苔だらけの木製ベッドに腰を降ろすと、タウがその隣にちょこんと座った。ロジオンはタウの隣に燭台を置き、二人に向かい合う位置に立って腕を組む。
「ここなら流石にご主人様にも聞こえまい。癪だが、お前にも協力してもらうぞ」
「何の話よ?」
「決まっている。ご主人様の機嫌取りだ」
「はあ!?なんであたしがそんな事……」
反論しようとするマシェッタだったが、その袖をタウが掴んだ。見上げるタウの目は懇願の意が多分に滲んでおり、マシェッタは断ろうとしたが結局その視線に逆らえなかった。子供の懇願にうな垂れる彼女の様子を、ロジオンは消極的な同意と見た。
「どのみち、貴様の目的も今のままでは達成できんだろ。私やタウだけで出来る事もたかが知れる。貴様の前にあの方を出したくはないが、今のままでは夢見が悪い」
マシェッタは忌々しそうに彼を見上げ、その後タウを見る。
地下牢の天井にまで糸の罠があるのかどうかは、蝋燭の炎だけでは分からない。例え罠がなかろうが、今の彼女は徒手空拳。すでに、ノーという返事を言う権利は彼女にはなかった。
二人の視線に押され、渋々彼女は頷いた。
「……何か、案はあるの?」
「一応、な。タウが喋れれば貴様に助力を請わないんだが……」
ロジオンのその言葉に、タウがばつが悪そうに視線を逸らす。その様子を見て、マシェッタはなおさら断る気分になれなくなった。
埃臭い部屋の中、主人は一人、膝を抱えて床に座り込んでいた。朝が来たのは感覚で分かっていたが、窓を開く気にもなれずむっつりと扉を睨んでいる。引き戸である扉にはすでに板を渡してあるので、外から強引に開かれる事はない。部屋は暗いが主人は夜目が利き、しかしだからといって部屋の中に彼の興味を引くものはない。城中の音を聞き取る事が出来る彼の耳には、城で誰かが動く音は耳に入らなかった。
「ふん、どうせ三人で私をのけ者にして、キャッキャウフフと楽しんでるんだろう。私は城主だぞー、偉いんだぞー……。ぐすん」
子供のような独り言を言って、彼は涙ぐんだ。
「昨日だって私をよそにドスンバタンとはしゃいでさぁ……。タウも、マシェッタ殿に付いてるんだから、ロジオンから引き離してればよいものを……」
主人は図らずもタウが彼の望むように動いていたのを知らず、そうこぼした。
しばらく経った頃、主人は壁の向こうから三つの足音が近づいてきたのに気付いた。歩調には覚えのあるものだったが、どの足音も少々重くなっているのが分かる。
「あの三人か……。ふん、上辺だけの慰みなんて無駄だからな。何を用意してるか知らんが、返事なぞするものか」
いじけながらも、彼は扉の向こうの様子に意識を向けた。
『……いいな、行くぞ』
『オーライ』
ロジオンとマシェッタの、示し合せるような小声が聞こえる。その後、重いものを置く音と、かちゃかちゃと陶器の軽くぶつかる音とが何度も上がった。そして、明るい声が上がる。
「廊下の窓際でお茶会なんて乙なものねー。ちょうどいい茶葉があってよかったー。二人ともどーう?」
「あーいいですねー。でも私はしがない使用人、ご主人様の許可がなければ茶の一杯も飲めないのですよー」
「えーそりゃまずい。あたしも、お城の主を抜きにしてお茶が飲めるほど図太くないしなー、困ったなー」
音と声の様子から、二人が扉の向こうで椅子や机を置いて茶会を開こうとしているのが主人には分かった。話の内容から主人の了承を求めたがっているのは明らかだったが、主人には二人のやり取りがわざとらしいものにしか聞こえなかった。事実、二人の台詞には抑揚がなかった。
少々の間が空いた後、再びひそひそと声が上がる。
『ねえ、ホントにちゃんと聞こえてんの?返事がないんだけど』
『しっ、聞くな。聞かれるだろ』
ああ、やはりか。主人はそう胸中で一人ごちた。
『私を放っておくのも心象が悪いと思って誘いをかけているんだろう。そんな事で私が出ると思ったら大間違いだぞ』
だんまりを決め込む主人。長引く沈黙に、扉の向こうに焦りが現れ始めた。
『……ね、ねえ、本当に聞かれてるの?不安になってきたんだけど』
『十中八九聞こえてる。気持ちの整理が追い付いていないだけなのだろう。あの方、基本的には構ってちゃんだからな』
『しっかり聞こえているんだが……』
主人の機嫌はますます悪くなった。こんこん、という音が上がり、ロジオンとマシェッタの「ん?」という声が重なる。主人には、タウがスケッチブックの角で机の上を軽く叩いたのだと分かった。その文面が二人の行動を咎めるものだったのも容易に知れた。
『……あ、そうだった!失念していた!』
『アホゾンビ!どうすんのよ!』
『アホゾンビ!?貴様、言うに事欠いて……!』
にわかに騒がしくなるドアの向こうに、主人はにがにがしい顔になった。
『楽しそうだなオイ。私をすっかり忘れているだろ。……って、まさかこれも作戦の内か?』
主人の二人に対する呆れが、疑いから警戒に変わる。
ロジオンが不満げに低く唸った後、ふんと鼻を鳴らしたのが聞こえた。持ってきたらしい椅子に乱暴に腰を降ろしたのが音で分かる。
『……そうだ、私はアホゾンビ。ご主人様の世話もまともにできない、粗相ばかりのポンコツだ。自分の無能を痛感する度、動かんはずの胃が痛む』
ロジオンの発言に、主人は興味を引かれた。他の二人が主人と同様に続きを待つように黙り、ロジオンの独白が続く。
『実は私は、ご主人様に仕える歴代の使用人ゾンビの中でも新参の部類でな。数多くの先代と比べれば、私などまるで足元にも及ばないのだ。私が特に世話になったゴルドンさんなどは、所作の一つを取っても優雅で、同じゾンビとは思えん程だったよ……』
ロジオンの昔を懐かしむような語り口に、主人は黙ってうんうんと頷いた。
ゴルドンというのは、かつて主人に仕えていたゾンビの一人で、当時何人もいた使用人ゾンビをまとめる立場にいた男だ。威厳ある風貌と確かな品格とを兼ね備えており、人望も厚かった事から主人も一目置いていた。礼節に厳しく口うるさい性格であったが、思い付きですぐ動く性格の主人がどうにか貴族としての作法を覚えられたのは、一重にこのゴルドンの功績と言ってもよい。ロジオンを除く全てのゾンビが主人から離れたのは、このゴルドンが体の寿命を迎え朽ちて亡くなったのが大きな原因と言えた。
『ゴルドン……。確かに、あいつは優秀だった』
『あの方がいればと思う事は今でも多い。特に今のような状況ではな』
この発言に主人は思わず頷きかけ、我に返って口を開いた。
おいお前、それはどういう意味だ。
そう言いかけた瞬間、主人は慌てて口を押えた。
『危ない危ない、これがツッコミ待ちと言う奴か。強かな真似をする。……だが無駄だぞロジオン、私の機嫌を直したければ、結婚式の段取りでも引き合いに出すんだな』
口には出さずにそう思い、主人は一人勝ち誇ったかのように笑った。
なおも続く沈黙。やがてロジオンが小声で呟くのが聞こえてきた。
『……駄目か。ひっかかると思ったんだが』
主人の口元が緩んだ。
『ふふん、馬鹿め。何年来の付き合いだと思っているんだ』
主人が勝ち誇ったその時、驚いたようにマシェッタの声が上がった。
『あ、ああ、何だ、作戦だったのね。何言ってんだコイツって思っちゃった』
『なじるにしてもせめて繋げろ、演技が台無しだ』
ロジオンが咎めるように強く言う。しかし、マシェッタに怒ったり感情を荒げたりする様子はなかった。
『……あのさぁ、これだけやって返事が返らないならさ、いっそ向こうが何して欲しいのかちゃんと聞くのが筋じゃない?』
『あ』
『あ、じゃなくて。何でさっきからおびき出すのを前提にして動いてるのよ』
言われて、主人はそう言えばと思った。最初から誘いに乗るか否かといった、深いようで浅い心理戦の応酬が繰り広げられるのがそもそもおかしいのだ。
『私が聞いてみるから、ちょっと黙っててよ』
マシェッタの声の後、呼びかけるように強いノックが三度、扉を叩いた。
『ん、んん。聞こえますか?昨晩騒ぎを起こしたマシェッタです。夜分に不要に騒いだ事をお詫びしたく伺いました。お怒りはごもっともです。ですが、このまま扉越しに謝るのでは不義理極まります。直にお顔を見せていただいた上で頭を下げたいのです。お許しいただけるかどうか、せめて返事をください』
マシェッタのこの言葉に、主人は黙って聞き入った。彼女が申し訳なさそうに最後まで言った後、主人は少しばかり機嫌を良くした。
『流石マシェッタ殿、分かってらっしゃる。こう言われては、返事をせねば男がすたるな』
『許せないというのなら、私はこの城を去ります』
「え」
主人は思わず動揺を口にした。彼の声を聞きつけたように、ロジオンの声が畳みかける。
『そうだ、礼節をわきまえぬ客分など客分に非ず。荷物をまとめて、とっとと帰るべきだな』
『うぐっ……。え、ええ、最もね。そうさせてもらうから』
とんとん、とスケッチブックで机を叩く音。
『た、タウちゃんも結構きつい事言うのね……。でも、そう言うのも仕方ないか。じゃあ、あたし一旦部屋に帰るね』
「いやいやいや、待て待て!私まだ何も言ってない!」
大きな声を扉の向こうに向け、そこで主人ははっとした。
『……ホントに聞こえていたのね』
『だから行ったろう、ご主人様はこういう方だ』
自分がしてやられたのだと分かり、主人は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……図ったなロジオン」
『何年来の付き合いですか』
主人は何も言えなくなった。
「で、何で拗ねているのよ?」
マシェッタが扉の向こうに問いかけると、主人が観念したように返事をしたのが聞こえた。
『……あなたがここに来てから、あなたはどうもロジオンと一緒にいる事が多い。城主として正直に言わせていただくと、非常にやりづらいのですよ』
こう言われ、マシェッタはここに来てからの行動を思い返した。
警戒する相手として特に強く意識したのは確かにロジオンで、彼に比べると主人は後回しにしていた覚えがある。向けていた意思は敵意なのだが、曲解とはいえこうも機嫌を損ねられるとかえって良心が痛んできた。なまじ相手の姿が見えないだけに、ばつの悪さはひとしおだった。
「……そ、そうね。あたしが悪かったわ。あなたの機嫌を損ねた事は謝るから。お詫びをしたいのは本当よ、出来る事はない?」
ようやく本題を切り出せた事にほっとしながら、マシェッタは主人の返事を待った。彼女がロジオンにちらりと目をやると、彼は「良くやった」とばかりに彼女に親指を立てて見せた。その隣で、タウもまた『Good job』と書いたスケッチブックを手に親指を立てた。マシェッタも思わず二人に親指を立て返してみせた。
『……ん?』
その後彼女は自分の状況に疑問を持つが、その直後扉の向こうから主人がこんな事を言い出すのが聞こえてきた。
『あなたがどれだけ長くここで過ごしても、私は一向に構いません。どのような事をして過ごしても、私があなたの邪魔をする事はないでしょう。ですが、ここで過ごす以上、あなたにはいくつかの決まりを守って頂く必要はある。その点、ご理解いただきたい』
「……?ええ、その通りね。あたしにはそうする義務がある」
『でしょう?話が早くて助かります。私があなたにお願いしたいのは、ただ一点』
何の事だろうかと、マシェッタがロジオンを見る。彼は首を横に振った。主人の言葉を、三人は黙って耳を澄ませて待つ。
『……使用人に用があるなら、せめて私を通してください』
その日の夜、主人は三番目の自分の部屋でお気に入りのロッキングチェアに腰かけ、暇を持て余すように何度も前後に揺れていた。椅子の前にある暖炉には火がくべられており、時折パチパチと薪の割れる音が上がる。ロジオンは主人の傍に立ち、深々と彼に頭を下げた。
「本日働いた数々の無礼、お許しください」
「構わんぞ。私は寛大だからな」
そう言いながらも、主人の目はロジオンには向けられていない。たき火を見ていながら、その実、この場にない何かを見るような遠い目をしていた。ロジオンは主人のおざなりな返事に疑問を抱き、彼に尋ねる。
「どうかされたのですか?心この場に非ず、といった風ですが……」
「んん?あー……。ふ、ふっふっふ」
我に返った主人が、いきなり不敵に笑いだす。主人の得意げな様子にロジオンは安心しながらも、いつものように諦観する時の目を彼に向けた。ロジオンは経験から、主人がこうして笑うのはろくな事を考えていない時だと知っていたからだ。
「今日の事で、マシェッタ殿と私とが直に話をする機会はぐんと増えた。これはもはや進展したと言っても過言ではないな」
その口ぶりは本気そのもので、ロジオンははあ、と気のない返事を返した。
「マシェッタ殿はしばらくここに滞在するのだな?」
「らしいです。手ぶらのままでは帰れない、とかなんとか」
「大胆な方だな。ますます気に入ってしまったよ」
「……趣味が悪くないですか?」
「良いか悪いかは、私が決める。こればっかりは口出し無用だ」
そう言うと、主人は揺れるのをやめ、サイドテーブルの引き出しを開いて刺繍をいくつも取り出した。膝に布の山を置き、一枚一枚を手で開きながら改め始める。
「やはりこれが良いかな?いやいや、これも捨てがたい。案外、彼女にはこういうのが似合うかな……」
自作の刺繍をいくつも見比べながら品評を始める主人。ロジオンはと言うと、以前した自分の助言を主人が聞き入れている事と、今なお主人がマシェッタを気に入っている事とに複雑な思いを抱き、やがてはあ、と重い息を吐いたのだった。




