1.おはようございます
これは拙作「外に出なさい」の続編です。
広い教会の中で、パイプオルガンの重い音色が響き渡る。カーテンを閉め切った白い室内で、奏でられる音楽はその場にいる者全ての胸を震わせていた。壁際に並び立つ聖歌隊が本を広げ、口を揃えてこの世に生きる喜びを歌う。祭壇や廊下を挟むように並んだ燭台には全て炎が灯されており、時折音色や歌声に合わせるかのように揺らめいていた。カーテン越しに差す日の光のおかげもあって、教会の中は明るい。
礼拝に来る信者達が座るはずの長椅子には今、宣教師や修道女、牧師といった教会の関係者達が席を詰めて並んでいた。その人数はゆうに五十を超えている。彼等は音楽に耳を傾けながら、祭壇の後ろに立つ巨大な十字架を見上げていた。そこにキリストの姿はない。彼等はカトリックではなく、プロテスタントだからだ。
祭壇に立って指揮棒を振るい、教会を支配しているのは、指揮者ではない。階層構造を持たぬプロテスタントではあるが、この場で最も発言力のある年長の牧師だ。長いひげをくねらせながら指揮棒を一際大きく振り上げ、まっすぐ下ろす。
じゃん、と乱暴に鍵盤を叩く音が音楽を止めた。聖歌隊は一斉に口をつぐみ、聞く者全てが表情を一層険しくした。乱暴な音の余韻が教会全体を、ひいては音を聞く者全ての心に波を立てるように響き続ける。
ようやく静寂が訪れた頃、年長の牧師は祭壇に指揮棒を置き、この場にいる者達を見回して朗々たる声で語りかけた。
「兄弟達よ。これから私が、君達の心を騒がす事を許してほしい」
そう言うと、彼は数枚の紙を取り出し、そこに書かれた内容について話し始めた。
「二か月前、警察に所属する我等が兄弟が恐ろしい知らせを持ってきた。ある男についてだ。その男の血液を調べた所、人にあるまじき血液の持ち主だと分かった。彼は……、吸血鬼だ」
どよめきが起こる。
「何と!」
「まだ生き残っていたのか!」
次々に驚愕を口にする彼等を、年長の牧師は両手の手のひらを向けて制した。参列席にいる者達が言葉を呑み込む。
「……落ち着きなさい。無論、このまま黙っている訳ではない。我等は神に仕える者、神の許しを得ずして存在するものを、許すつもりはない」
彼がそう言うと、参列席にいた修道女が一人、すっくと立ち上がった。全ての目が彼女に集中する。彼女は布でくるまれた何かを脇に抱えており、それが他の修道女とは違う何かを見る者に感じさせた。
「彼女は代々続く吸血鬼狩りの一人だ」
おお、と感嘆の声が上がった。彼女の口元に、わずかに笑みが浮かぶ。年長の牧師は祭壇を降り、彼女のすぐ傍へと歩み寄った。彼女の肩に手を置き、周りを見渡す。
「必ずや彼女が、不浄なるものを打ち砕いてくれましょう。皆さん、ご安心なされよ」
誰からともなく、拍手が上がった。手を叩く音が聞く者の心を沸き立たせ、さらなる拍手を呼ぶ。そうしてできた万来の喝采が、教会を揺るがせんばかりに響き渡った。
その最中、年配の牧師は持っていた資料を修道女に渡し小声で言った。
「これが吸血鬼の資料だ」
彼女は紙面に目を落とし、それに貼られていた顔写真に眉をひそめた。
「……ずいぶんしまりのない顔ですね」
そこには、記念写真のつもりか、満面の笑顔を浮かべている男の姿が写っていた。ほっそりした顔立ちで、吸血鬼の例に漏れず美形である。
「それと、君にこれを」
牧師は隠し持っていたものを修道女のスカートのポケットに差し込んだ。修道女は腿の感触で、渡されたものが細いものだと分かった。
「念のための、銀のナイフだ。言っては何だが、君の玩具で必ず仕留められるとは限らないからね」
修道女が何か言い返そうとするが、牧師は踵を返し祭壇へと返っていった。修道女は歯噛みし、脇に抱えたものに目を落とす。布にくるまれた、クラリネットでも収めらそうなサイズの四角いものだ。言うまでもなく、彼女の商売道具である。
「……大きなお世話よ」
誰にも聞かれないように、彼女はぼそりと呟いた。
1.おはようございます
ロジオンは目を覚ますと、まずはいつもそうするようにじっと天井を見上げた。日の光の届かぬ天井には雨漏りによって黴が繁殖して広がっており、築年数の長さを如実に表すように黄ばんだ漆喰の壁には黒ずんだ雨だれの跡がある。見れば見る程陰湿な有様であり、お世辞にも綺麗とは言い難い。彼が本気で掃除に取りかかれば大分マシにはなるのだが、そうした場合今度は彼自身が部屋に居辛くなってしまうのでこのままにしているのだ。死して久しい自分の体を思えばこそ、こうした部屋に居心地の良さを感じてしまうのである。
ロジオンは寝そべったまま、まずゆっくりと両手の指に力を入れた。合わせて十本の指が曲がったのを確認し、次いで肘を曲げると、その肘で上体を支えるようにして身を起こす。隙間風は冷たかったが、カーテンのかかった窓の向こう側から差す日は明るい。彼はのろのろとベッドから足を降ろし、ゆっくりと背筋を伸ばした。立ち上がった後で上体を左右に曲げ、両肩を回す。最後に首を回すと、彼は自分の体が動く事に支障がないのを確認できた。
「異常なし、と」
カーテンの隙間をそっと覗き込み、東の山の陰から日が昇ろうとしているのを見つける。片方しかないロジオンの目が大きく見開かれ、瞬く間に彼は部屋を飛び出した。廊下を大股で走りながら、廊下に沿って並ぶ窓の全てに目を向ける。どの窓も急造の木の蓋でふさがれており、わずかな隙間からは光も差していない状態だ。そのせいで石造りの廊下は薄暗く、慣れているものでなければ道に迷いかねないほどである。
急ぐ理由は、彼が寝過ごした事と、彼の主人に原因がある。
目当ての扉の前まで来ると、彼は足を止めた。呼吸はすでに止まっているのだが、生前の習慣からか荒れてしまった呼気を整え、彼は扉を三度ノックした。
「ご主人様、起きてらっしゃいますか?」
扉越しでも聞こえるように声を張ると、何者かが声に驚いたようにうろたえる様子が聞こえてきた。
「うおぅ、とおっととと、だわあっ!」
ずだん、と床に重いものが落ちる音が上がった。ロジオンはすぐに、部屋の主がバランスを崩してこけたのだと分かった。
「脅かすなロジオン!よりにもよってズボンを脱いでる最中に!」
「大の大人が呼びかけ程度で転ばないでください」
無愛想に返しながらも、ロジオンは内心安堵していた。扉の向こうの相手が、今日も勝手にカーテンを開けていないのだと分かったからだ。
「いいから早くお着替えください。私が部屋に入れません」
「それもそうだが、尻の痛みが引くまで動けん」
「早くしないと入りますよ」
せかすように、ロジオンはドアノブに手をかけた。わずかに回ったノブに、うろたえる声が上がる。
「ま、待て待てロジオン!すぐに着替える!だから入るな!」
ばたばたと忙しない音が上がり、ロジオンはノブから手を離した。物音が立たなくなるのを待ち、静かになった頃再びノックをする。
「よいぞ」
返事を聞き、ロジオンは扉を開いた。
分厚いカーテンの下ろされたその部屋は薄暗いが、それでもカーテンの隙間から漏れる朝日が部屋に明るさを与えている。赤い絨毯の敷かれた広い部屋の中心、年季の入った豪華なクローゼットの前に、一人の男が立っていた。
金髪碧眼のほっそりした顔立ち。華美に過ぎない装飾を施された服装はその男の身分の高さを表している。長い指の先には、わずかに先端を尖らせた爪が生え揃っていた。男は今しがた着替えを終えたばかりだとでも言うように、どこかわざとらしく襟元を払ってみせていた。
「おはようございます、ご主人様」
ロジオンはいつもそうするように男に頭を下げた。主人と呼ばれた男はこれに軽く片手を上げて応じる。
「うむ、苦しゅうない」
落ち着いた態度を取っている主人だが、ロジオンは先ほどまで彼としていたやり取りを思い出し、半ば呆れた顔で尋ねた。
「お尻はどうです?」
「まだちと痛い」
思った通りの正直な回答に、ロジオンは渋面を作った。
「少しは恰好付けてください。威厳が見られません」
その言葉に、主人の目が大きく見開かれた。
「そんな馬鹿な。一人で着替えたんだぞ?」
本気で驚いているらしい返事に、ロジオンはさらに呆れた。
「そんなの私もそうですよ」
主人の発言は子供の自慢も同然である。ロジオンはいつものようにはあ、とため息をついた。主人がどこか世間とずれているのは、決して人けのない山奥に住み続けているせいだけではない。
頭を押さえるロジオンに、主人は怪訝な顔をして首を傾げた。
「何だ、気分が冴えんのか?」
「お気になさらず。いつもの事です」
「そうか。ならば聞くがロジオン、来客の予定は?」
「あるとお思いですか?」
「ないからお前に聞いたんだ」
主人が思いつきでぽんぽん喋るのはいつもの事なので、ロジオンはもはやため息も出なかった。
「まあ実際、こうして静かに暮らすのも久しぶりだな」
主人はどっかとベッドに腰を降ろし、足を組んでくつろぎ始めた。見上げられ、同意を求められたロジオンはこれに首肯する。
「ですね。リズ様のお部屋探しが一段落したのが一週間前ですし」
主人とロジオンはしみじみと、これまでの出来事を思い返した。
主人と古くからの知己である魔女のリズが新しい住まいを探そうと二人の元に訪れたのが半年前。彼女に付き合わされて世界中を回る生活は、実に先週まで続いていたのである。
「なかなかにスリリングな生活だったな。機会があればまた行きたい」
「冗談じゃありませんよ。おかげで私は、何度肝が冷えたか分かりません」
「お前は元から冷たいだろう」
主人の言う通り、ゾンビであるロジオンの肝に血が通っていたのは遠い昔の話である。それでも未だ生きていた頃の習慣が抜けない彼としては、先ほどの主人の言葉は少々癇に障るものだった。
「誰のせいだと思ってるんですか。いちいち危険な真似ばかりなさるから、本当に骨が折れました」
「二つの意味でか」
「『うまい事言った』みたいな顔をやめてください」
ロジオンは話を終わらせ、窓へと歩み寄った。これを見て、主人が眉をひそめる。
「また窓を開けるのか?別にしなくて良いだろう」
「換気は大事なんですよ。いいから図書室なり衣装室なりにでも行って、時間を潰してきてください」
主人は不満げにむう、と唸ったがすぐに立ち上がった。このままじっとしていれば、彼にとって望まぬ事態になると分かっていたからだ。
「早くすませろよ」
「善処します」
主人はロジオンのおざなりな返事を気にも留めず、軽い足取りで部屋を出て行く。ロジオンはそれを見送ると、カーテンを一気に引き開けた。暗い部屋に一気に光が差すと、床に敷かれた絨毯の色が一層鮮やかになり、ニスの塗られた木製の家具達はその光沢と木目とを鮮明に浮かび上がらせる。ロジオンはというと極力日の光に当たらないように窓の傍に近づき、影から腕だけを伸ばして窓の鍵を開けた。そして腕を引っ込めて影に戻すと、光に晒した腕の具合を見ようとその手に目を落とした。
青白い手は所々薄皮が向け、骨の見えている部分まである。細かい傷が重なり、かつ治癒せずに積み重なった結果だ。かつてはこれを見る度自分の体がすり減り、ついには消えてしまうのではないかという恐怖を感じた事もある。しかし今やそれにも慣れ、彼の心配はむしろ日の光で肉が温まり腐敗が進む事に移っていた。天気は晴れてこそいるが、さほど暖かくはない。肉が熱を持っていないのが分かると、彼はためらう事なく日向へと出た。
両開きの窓が開かれ、外気が部屋に流れ込む。肌を撫でる風が冷たく、ロジオンはふう、と安堵のため息を漏らした。
「昔は寒いのが嫌いだったっけなぁ」
生前の生活を思い出してそう一人ごち、彼は別の窓を開きにかかった。
主人は暗い廊下を慣れた調子で進み、目当ての部屋へと向かっていた。どの窓もふさがれているので光源に乏しく、石造りの無骨な造りのせいで廊下の暗さは昼間にしては深い。しかし彼は夜目が利くので、足元の絨毯が踏まれる度に埃を巻き上げている様子まで見る事が出来た。
「やれやれロジオンめ、掃除が足らんぞ」
実際には城が広く、ロジオン一人しか諸々の手入れの出来る者がいないせいであり、ロジオンに非はない。そんな事に気の回らない主人は、この場にいないロジオンにやれやれ、と肩を竦めて足を止めた。ちょうどそこが目的地だったのである。
開きっぱなしの扉の奥には火の無い暖炉があり、部屋の中には大きな椅子が置かれていた。背もたれが大きく、そして大きく湾曲したソリの刃を思わせる板の上に乗っている。主人のお気に入りであるロッキングチェアだ。その傍にはサイドテーブルが置かれており、その上には数枚の布や小箱、輪の形をした木の枠や様々な色の糸の束が積み上げられていた。
「さーて、どんなのをやろうかねぇ、と」
弾むように椅子に座り、主人は木の枠と布とを手に取った。輪に付いたねじを緩め、輪の径を広げる。慣れた手つきで布を枠の内側にはめ込むと、ねじを締めた。布の張り具合を確かめると、小箱を開く。箱の中には布にくるまれた針山が詰まっており、蓋の裏には何本もの針が規則正しく並んでいた。針の一本を手に取ると、彼は机の上に転がる糸の束に目を迷わせた。もちろん、部屋の中が暗いからではない。
「むう、今日はどの色もぴんと来んな。ひらめきが降りれば十も二十も傑作が出来るんだが」
主人は針を持ったまま、悶々としながらロッキングチェアを前後に揺らした。くつろいでいるというよりはむしろ、彼の言うひらめきが降りるまでの退屈しのぎといった風である。しばらく主人は揺れ続けていたが、やがてそれにも飽き、針を小箱に戻した。
「うーむ、駄目だ。降りてこない。昨日などはなかなか良いのが出来たんだがなぁ」
言いながら主人はサイドテーブルの引き出しを開けた。そこにはかつて主人が縫い上げた刺繍の数々が詰まっていた。一番上に置かれた、七色の花弁を付けた薔薇の刺繍に目を落とす。リズをして「女として立つ瀬がないんだけど」と言わしめる程の出来栄えなのだが、今の主人本人の眉間には皺が寄っていた。
「……今見ると陳腐だな。やはり、これが一番かな」
言いながら彼が引っ張り出したのは、薔薇のものよりも大がかりな刺繍だった。これをロジオンが見たとしたら、深くため息をついていたかもしれない。
その刺繍は幼いキリストを抱く聖母マリアを描いたものなのである。
「うむ、よく出来ている。美しい。しかし何故かな、見る度に背筋がぞくぞくしてしまうのだが。まあ、それだけこれがよく出来ているという事だろう、うん」
そう言って、主人はうんうんと一人頷いた。
お久しぶりです。
悲しいながら、見切り発車だったりします。
定期的には困難かもしれませんが、今度も最後までお付き合いいただければ幸いです。