2話 はじまりの部屋
翌朝、ルミエリア・ブランシュは、いつもより早く目を覚ました。
瞼を開いた瞬間、昨夜の出来事が胸の奥に重く沈んでいるのを感じる。夢ではない、あれは確かに、私が思い出した記憶の一つなのだ。
ここが、『星辰のアストレア』の世界であることを。
起きる気にもならず、しばらく天井を見つめていた。静かに息を吐く。混乱は未だ消えず、彼女の思考を掻き乱す。しかし、時間は待ってくれない。
今日は、王立アストレア学園の寮に入る日だ。
ベッドから身を起こし、なんとなく、鏡に映る自分の姿を確認してみる。黒く長い髪が、柔らかな曲線を描いて肩に重なっている。深い海を閉じ込めたようなラピスラズリの瞳は、猫のような鋭さと愛らしさを同居させている。白磁のような滑らかな肌が、黒髪との鮮烈な対比を成している。
――モブキャラで、この容姿なのか。
他のキャラクターをまだ目にしていないので断定はできないが、モブキャラにしては容姿が整っている。私の中で、モブキャラの容姿といえば全体的にぼんやりとしている印象なのだが、そうではなさそうだ。
鏡の中に映る自分は、いつもと同じはずなのに、どこか別人のように見えた。……それが、どこか寂しかった。
――モブ。
その言葉が、まだ胸の奥に引っかかっている。だが今は考え込むよりも、目の前の一日をこなすほうが先だ。ルミエリアは、使用人を呼ぶ鐘をチリン、と鳴らした。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、エミリア」
彼女は、エミリア・ロッセ。私の専属メイドで、明るく世話焼きな性格ゆえに、私の両親からも信頼されている。彼女が屋敷にやってきた時、名前が少し似ていたからか、すぐに親近感が湧いた。彼女はエミリアの専属になって以降、ルミエリアの事を第一に考え、いつだってルミエリアの味方をした。彼女は、ルミエリアにとって、心の拠り所のような存在だった。
「はぁ……今日でお嬢様とお別れだなんて、寂しいです」
エミリアは、丁寧な手つきでエミリアの髪をとかしながら、ため息をつくように言葉を吐いた。――どうやら、私が思っている以上に、私と離れるのが悲しいらしい。
「そんな悲しい顔しないでよ、夏季休暇には会いに来るし」
「夏季休暇って……数ヶ月後じゃないですか! 私、お嬢様不足でやっていけるか心配です」
「もう、何言ってるの。エミリアは優秀なんだから、私がいなくてもうまくやっていけるって」
そう、エミリアはブランシュ家の中でもかなり優秀な使用人だ。手先が器用なため、どんな仕事もそつなくこなして見せた。ルミエリアにとって、自慢のメイドだ。
「とにかく……今日からいよいよ学園生活ですね。任せてください、私がお嬢様を学園一の美女に仕立てますから!」
「……もう、好きにして」
こうなったエミリアは、もう誰にも止められなかった。
身支度を終え、朝食をとるために階下へ降りると、両親が既に待っていた。母はいつもより少し寂しそうで、父はいつも通り穏やかな笑みを浮かべている。
「寮生活は自立の第一歩だ。困ったことがあれば、すぐに手紙を書きなさい」
「無理はしないでね。あなたは少し……頑張りすぎるところがあるから」
彼らは心配そうに、そっと私の手を握った。手のぬくもり、言葉……その温かさが胸に沁みる。
――この人たちは、ゲームの背景なんかじゃない。
そう思うと、昨夜抱いた“世界が作り物かもしれない”という感覚が少しだけ揺らぐ。そして、入学前最後の朝食を、両親と共に過ごした。
朝食をとり終えると、ルミエリアは丁寧に礼をし、両親や使用人たちと別れの挨拶を交わした。屋敷を出ると、門前には学園行きの馬車が待っている。荷物はすでに昨日のうちに運ばれていた。
御者が扉を開ける。ルミエリアは一度だけ振り返った。見慣れた屋敷。幼い頃から過ごしてきた庭。そして、こちらを見つめる両親や使用人の姿。胸の奥がきゅっと締めつけられる。けれど――馬車はゆっくりと動き出した。
石畳の振動が、規則的に身体を揺らす。窓の外を流れる景色を眺めながら、ルミエリアはぼんやりと考える。
この道も、学園も、これから出会う人々も、すでに“物語の軌道”の上にあるのだろうか。もしそうなら、自分はその外側を歩けるのだろうか。
――答えはまだ出ない。
やがて、白亜の塔が見えてくる。王立アストレア学園。星を模した紋章が、朝日に照らされて輝いていた。馬車が寮の前で止まる。
大きな石造りの建物は、思っていたよりも荘厳で、少しだけ圧倒される。寮母に案内され、階段を上り、廊下を進む。
「こちらがあなたのお部屋です」
扉の前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。ノックをしてから、そっと扉を開けた。




