春の辞令は、博多の潮風
第一部 東京の春、その確かなぬくもり
第一章 三軒茶屋、午前九時の光
春の光は、いつも決まってブラインドの隙間から差し込み、白い壁に細い縞模様を描き出す。それが、美緒の一日の始まりの合図だった。目覚まし時計が鳴る七分前。この七分間が、一日で最も穏やかな時間かもしれない。
住み慣れた三軒茶屋の1Kの部屋は、彼女の城だ。27歳の会社員、入社5年目。東京での女性の平均年収が400万円を超える中で、大手メーカーに勤める美緒の給与はその少し上をいっていた 。だからこそ、都心へのアクセスも良く、おしゃれなカフェと昔ながらの商店街が共存するこの街で、少し背伸びした暮らしができていた 。譲れなかった条件は、バス・トイレが別であること。一日の疲れを湯船でゆっくりと癒す時間は、東京で戦うための儀式のようなものだった 。
クローゼットには、IENAやMila Owenといった、派手すぎず、けれど洗練されたデザインの服が並ぶ 。今日はライトグレーのジャケットに、顔周りを明るく見せる白のインナーを合わせた。鏡に映る自分に「よし」と小さく頷き、玄関のドアを開ける。
会社は丸の内にある。満員電車に揺られる時間も、今ではすっかり生活の一部だ。周りを見渡せば、同じようにスマホを眺めたり、本を読んだりしている人々。この大都市の歯車として、自分も確かに回っている。その実感は、心地よい緊張感を与えてくれた。
オフィスに着くと、空気が引き締まる。5年目ともなれば、後輩の指導も任されるし、責任のあるプロジェクトも増えてくる。周囲からの信頼が、仕事のやりがいだった。
夜、部屋に戻ると、恋人の海斗が合鍵で先に入って待っていることもあった。同じ年の彼は、IT系の企業で働いている。二人でキッチンに立ち、他愛もない話をしながら夕食を作る。彼の作る出汁巻卵は絶品で、美緒の作る豚の生姜焼きは、彼の大好物だった。食卓を囲む穏やかな時間。仕事の成功も、この温かいプライベートがあってこそだと、美緒はいつも感じていた。
キャリアも、恋も、すべてが順調だった。この完璧に構築された日常が、これからもずっと続いていく。美緒は、そう信じて疑わなかった。春の柔らかな日差しのように、彼女の世界は安定した光に満ち溢れていた。
第二章 白い封筒の重み
その日の午後、美緒は部長に呼ばれた。応接室のドアを開けると、いつもは厳しい表情の部長が、珍しく穏やかな笑みを浮かべていた。
「まあ、座りなさい」
勧められるままソファに腰を下ろすと、部長は一枚の白い封筒をテーブルに置いた。辞令。その二文字が、美緒の頭をよぎる。まさか。
「君も入社して5年。本当によくやってくれている。特にこの一年間の成長は目覚ましい。そこで、会社としても君のキャリアをさらに後押ししたいと考えている」
部長の言葉は、誇らしげだった。それは美緒にとっても、これまでの努力が認められた瞬間であり、胸が熱くなるはずだった。
「福岡支社への転勤を命ずる。役職は主任。支社のマーケティングチームを率いてもらいたい」
福岡。その地名が、鼓膜を通り抜けて脳に届くまで、数秒の時差があった。東京から出るなんて、一度も考えたことがなかった。
部長は続けた。「福岡は今、アジアの玄関口として非常に重要な拠点だ。天神ビッグバンという再開発も進んでいて、ビジネスの活気が違う 。君の力を、あの場所で試してほしい。これは、将来の幹部候補としての育成プログラムの一環でもある」
会社が自分に大きな期待を寄せ、投資してくれているのは明らかだった 。断れば、この会社でのキャリアは停滞するかもしれない。それは、これまで仕事に情熱を注いできた自分自身を裏切ることになる。誇らしさと喜び。それと同時に、足元から冷たいものが這い上がってくるような、底知れぬ恐怖。築き上げてきたすべてが、この一枚の紙で崩れ去ろうとしていた。
女性だからといって、キャリアを諦めたくはない。けれど、この決断がプライベートに与える影響を考えないわけにはいかなかった 。
「ありがとうございます。精一杯、頑張ります」
声が震えなかったのは、奇跡だったかもしれない。美緒は立ち上がり、深く頭を下げた。手渡された白い封筒が、ずしりと重かった。それは、彼女の未来そのものの重さだった。
第三章 二人の間の沈黙
その夜、美緒の部屋には重い沈黙が流れていた。向かい合って座る海斗の顔を、まともに見ることができない。
「福岡、なんだ」
美緒が切り出すと、海斗は「そっか」と短く答えた。彼の表情からは、感情が読み取れなかった。
「主任に、昇進。期待されてるって…」 「すごいじゃん。おめでとう」
彼の言葉は、心からの祝福に聞こえた。けれど、その後に続く言葉が見つからない。二人の間には、東京と福岡という、あまりにも具体的な距離が横たわっていた。新幹線なら5時間、料金は片道2万2千円以上 。飛行機を使っても、空港までの移動や手続きを考えれば、結局半日は潰れてしまう 。会いたいときにすぐに会えない距離。
「遠距離、か…」
海斗がぽつりと呟いた。その言葉が、避けていた現実を突きつけてくる。遠距離恋愛が、どれほど難しいものか。会えない時間が心の距離を生み、日々の連絡が義務になったとき、関係は脆くも崩れ去るという話は、嫌というほど聞いてきた 。
美緒の心の中に、暗い考えが芽生え始めていた。「いずれ、会社を辞めて東京に戻るべきだろうか」。キャリアを犠牲にするという選択肢。多くの女性が直面するであろうその問題が、今、自分の目の前に突きつけられている 。海斗が何も言わないのは、心のどこかで、彼女がそう決断することを期待しているからではないか。そんな疑念が、胸を締め付けた。
「大丈夫だよ。なんとかなるって」
海斗はそう言って美緒の肩を抱き寄せたが、その声には確信がなかった。慰めの言葉が、かえって二人の間の溝を深くする。その夜、二人はいつものように同じベッドで眠ったが、背中合わせのまま、互いの寝息を聞くことはなかった。
第二部 博多湾から吹く、慣れない風
第四章 新しい鍵、空っぽの部屋
福岡での生活は、部屋探しから始まった。東京の感覚で物件情報を見ていると、その家賃相場の違いに驚かされた。天神や博多へのアクセスが良い薬院エリア。おしゃれなカフェや雑貨店が点在する、東京で言えば三軒茶屋に少し似た雰囲気の街だ 。そこで見つけた1LDKの部屋は、新しくて広く、東京の1Kよりも家賃が3万円以上も安かった 。
がらんとした部屋に、段ボール箱がいくつか置かれているだけ。窓を開けると、東京とは違う、少しだけ潮の香りが混じった風が吹き込んできた。美緒はノートパソコンを開き、これからの生活費を計算し始めた。
項目
東京(三軒茶屋 1K)
福岡(薬院 1LDK)
備考
家賃
110,000円
75,000円
部屋は広くなったのに大幅な節約 。
光熱費
12,000円
10,000円
若干の減少。
食費
45,000円
40,000円
食材が新鮮で安い。
通信費
8,000円
8,000円
変わらず。
交通費
10,000円
6,000円
コンパクトな街で通勤時間が短い 。
交際費・雑費
40,000円
30,000円
当初は交友関係がないため減少。
合計
225,000円
169,000円
貯蓄
増加
大幅に増加
昇進による給与アップもあり、可処分所得は格段に増えた。
数字の上では、生活は豊かになるはずだった。昇進で給料も上がり、貯蓄に回せる額は東京時代よりもずっと多い。客観的に見れば、この転勤は紛れもなく「成功」なのだ。
しかし、パソコンの画面に映る数字の羅列と、この空っぽの部屋の静寂との間には、埋めようのない乖離があった。スーパーで耳にする「なんしようと?」という柔らかな方言が、自分が異邦人であることを突きつけてくる 。経済的な余裕という現実と、心の空虚感。そのアンバランスさが、美緒の胸を重く圧し潰していた。新しい鍵を握りしめながら、彼女はこれから始まる孤独な生活を思った。
第五章 天神ビジネスセンターからの眺め
美緒の新しい職場は、天神の中心にそびえ立つ、ガラス張りの近代的なオフィスビルだった 。福岡支社は活気に満ちており、任されたチームのメンバーも優秀で意欲的だった。新しい役職、新しい責任。それは困難であると同時に、大きなやりがいをもたらした。東京の本社とは違う、地方拠点ならではの裁量の大きさに、仕事の面白さを再発見する日々。この転勤がキャリアにとって大きなプラスであることは、疑いようもなかった。
しかし、仕事が充実すればするほど、プライベートの空虚さは色濃くなった。午後6時を過ぎ、同僚たちが「お疲れ様ー、飲み行こう!」と連れ立ってオフィスを出ていく。その背中を、美緒は一人で見送る。誘われないわけではない。ただ、慣れない土地での飲み会に、まだ心を完全に開くことができなかった 。
夜、部屋に戻ってからの海斗とのビデオ通話が、唯一の心の支えのはずだった。だが、その時間も次第にぎこちないものになっていった。
「今日は何してた?」 「新しいプロジェクトが始まって、結構大変で…」
互いの日常を報告し合うが、共有できる背景がない。画面越しの笑顔はどこか張り付いたように見え、会話はすぐに途切れた。連絡を取り合うことが、いつしか喜びではなく義務のようになっていた 。些細なテキストメッセージの言葉尻を捉えて、小さな誤解が生まれることもあった 。
充実した仕事。深まる孤独。そして、少しずつすれ違っていく大切な人との関係。天神のオフィスから見下ろす街の夜景は、宝石のようにきらめいていたが、その光は美緒の心には届かなかった。
第六章 大濠公園の、ある日曜日
福岡に来て、三度目の週末。このまま部屋に引きこもっていては駄目だ。そう思った美緒は、無理やり自分を奮い立たせて、電車に乗った。向かった先は、市民の憩いの場として親しまれている大濠公園 。
広大な池の周りに整備された遊歩道を、ゆっくりと歩く。ジョギングをする人、犬の散歩をする人、ベンチで語らうカップル、芝生で遊ぶ家族連れ。誰もが穏やかな日曜の午後を楽しんでいる。その平和な光景が、ナイフのように美緒の心を抉った。ここにいる誰もが、自分の居場所を持っている。自分だけが、この風景から浮いた存在のように感じられた。
池を眺めながら、これからのことを考える。このまま福岡でキャリアを積み上げていく人生。それは、プロフェッショナルとしては輝かしい道かもしれない。でも、そのために海斗との未来を諦めることになるのだろうか。
いっそ、すべてを捨てて東京に帰ってしまおうか。
その考えが、抗いがたい魅力を持って美緒を誘惑した。夫の転勤に付き従う「転妻」という言葉があるけれど 、自分のキャリアのために恋人を振り回している今の状況は、それと同じくらい身勝手なのではないか。 ambition(野心)なんて、この寂しさに比べたら、なんてちっぽけなものだろう 。
スマホのフォルダを開き、海斗と一緒に撮った写真を見返す。東京タワーを背景にした笑顔、近所の公園で撮った何気ない一枚。あの完璧だった日々。もう一度あの場所に戻れるなら、今の仕事も、役職も、惜しくはない。
「もう、限界かもしれない」
ぽつりと呟いた言葉は、公園のざわめきの中に吸い込まれて消えた。美緒の心は、重く、暗い決意に傾き始めていた。
第三部 二人で選ぶ、これからの未来
第七章 五時間の隔たり
海斗が初めて福岡に来る日、美緒は朝から落ち着かなかった。博多駅の新幹線の改札口で彼を待つ時間は、永遠のように長く感じられた。5時間という物理的な距離が、これほどまでに心理的な壁を作るとは思わなかった 。会うこと自体が一大イベントになってしまう関係性の脆さを、改めて思い知らされる。
やがて、人波の中から見慣れた姿が現れた。 「久しぶり」 「うん…」
再会は、少しだけぎこちなかった。画面越しに毎日顔を合わせていたはずなのに、同じ空間にいるという現実感が、すぐには掴めない。
その日は、美緒がガイド役となって福岡の街を案内した。複合商業施設のキャナルシティ博多を歩き、夜は福岡タワーからの夜景を見にいった 。
「すごいね、福岡って。都会だけど、空が広い感じがする」
海斗は楽しそうに振る舞ってくれた。美緒も、久しぶりに二人で過ごす時間を楽しもうと努めた。けれど、心の奥底では、ずっと同じ不安が渦巻いていた。この楽しい時間は、週末だけの仮初めのもの。月曜日になれば、彼は東京に帰り、自分はまた一人になる。この訪問は、問題を先延ばしにしているだけに過ぎない。
表面的な楽しさとは裏腹に、二人の間には見えない壁がそびえ立っていた。本当に話さなければならないことから、お互いに目を逸らしている。その緊張感が、博多のきらびやかな夜景を、どこか遠い世界の出来事のように感じさせていた。
第八章 意外な答え
その夜、美緒の新しいアパートで、ついに沈黙は破られた。
「ねえ、海斗。私、もう無理かもしれない」
堰を切ったように、美緒の口から言葉が溢れ出した。一人の夜の寂しさ、仕事とプライベートの板挟みになる苦しさ、そして、遠距離恋愛への絶望。
「だから、決めたの。今のプロジェクトが一段落したら、会社、辞めようと思う。それで、東京に帰る。私、海斗のいない生活なんて、やっぱり考えられないから」
それは、彼女がこの数週間、悩み抜いて出した結論だった。キャリアを投げ打ってでも、守りたいものがある。自分のすべてを差し出す覚悟で、海斗の顔を見つめた。
彼は、黙って美緒の話を聞いていた。そして、彼女が話し終えるのを待って、静かに口を開いた。
「ありがとう、美緒。そう言ってくれて、すごく嬉しい。でも、それはダメだ」
予想外の言葉だった。
「美緒がどれだけ今の仕事を頑張ってるか、俺が一番よく知ってる。それを、俺のために辞めるなんて言わないでほしい。美緒のキャリアは、美緒だけのものじゃない。俺にとっても、二人の未来にとっても、大切なものなんだ」
海斗はそう言うと、自分のスマホの画面を美緒に見せた。そこには、彼の会社の就業規則のページが開かれていた。コロナ禍以降、リモートワークの制度が拡充されているという記述があった 。
「俺も、色々考えてたんだ。うちの会社、結構フレキシブルでさ。上司に相談したら、月に一週間、福岡でリモートワークさせてもらえることになった。だから、これからは毎月会える」
それだけではなかった。彼は続けた。
「それに、これを『美緒の福岡生活』と『俺の東京生活』って分けるの、やめない? これからは、『俺たちの二つの拠点』って考えよう。次に俺が来たときは、レンタカー借りて糸島までドライブに行こうよ。綺麗な海があるんだって 。福岡のこと、もっと一緒に知っていきたいんだ」
それは、問題からの逃避でも、どちらか一方の犠牲でもない、二人で未来を築いていくための、創造的な提案だった。距離を嘆くのではなく、距離を乗りこなしていく。その発想の転換が、美緒の心を縛り付けていた重い鎖を、一瞬で解き放った 。
涙が、頬を伝った。それは、寂しさや不安の涙ではなかった。
第九章 福岡の朝焼け
翌朝、窓から差し込む光は、昨日までとは全く違う色をしていた。隣で眠る海斗の穏やかな寝顔を見ながら、美緒は満たされた気持ちで胸がいっぱいになるのを感じていた。物理的な距離は変わらない。けれど、心の距離は、もうどこにもなかった。
その日、二人は観光客としてではなく、この街で未来を生きるパートナーとして、薬院の街を散策した。お気に入りのパン屋で朝食を買い、公園のベンチで並んで食べる。これから毎月、こんな週末が待っている。そう思うだけで、世界は輝いて見えた。
博多駅のホームで、新幹線に乗り込む海斗を見送る。
「じゃあ、また来月」 「うん。気をつけてね」
交わす言葉はシンプルだったが、その裏には、揺るぎない信頼と愛情があった。遠ざかっていく新幹線を見つめる美緒の心に、もう寂しさや不安はなかった。あるのは、これから始まる新しい挑戦への期待と、それを共に乗り越えてくれるパートナーへの感謝だけだった。
月曜日の朝。美緒は、いつものようにオフィスへ向かった。窓の外には、朝日に照らされた福岡の街並みが広がっている。この街は、もはや自分を孤立させる異郷ではない。自分の力を試し、成長するための舞台であり、そして、大切な人と新しい未来を築いていくための、大切な場所だ。
美緒は深く息を吸い込んだ。博多湾から吹いてくる潮風が、確かな希望の香りを運んできた。




