第六話:余韻
敬子は自分のベッドで目を覚ました。
いつ帰ったのか記憶がない。
雨は上がっていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、清澄で優しく部屋を照らしている。
窓から鳥の鳴き声が聞こえる。穏やかな音だった。
敬子は起き上がり、着替えた服を見た。雨に濡れてまだ乾いていなかった。
濡れた服は物語っていた。昨夜のことは夢ではない。何かが起こったのだ。
男性は本当にいたのか?
あの会話は現実だったのか?
断片的で曖昧な記憶は、まるで夢の中の出来事のようにも感じられる。
しかし、ケインのことは確かに思い出した。忘れた記憶が蘇ったのは間違いない。
(借りた傘はどこ?)
「Cain」と刻まれた傘はどこを探しても見つからなかった。
(そうだ、怖くなって捨てたんだ)
それとも、そんな傘は存在しなかったのだろうか。
現実と幻想の境界線が不明のままだった。
(ケインを助けられなかった私は、そこから逃げた)
敬子は鏡を見た。自分の顔に、嫌悪感を覚える。
昨夜のことが現実なら、私は見知らぬ人の親切からも逃げた。
幻想なら、私は自分の心さえ信じられない。
敬子は窓際に立ち、コンビニのある方角を見やった。
傘を探し出して、返しに行くべきなのだろうか?
男性が実在するなら、どう説明すればいいのだろう?
突然逃げ出した理由をどう話せばいいのだろう?
窓からは朝日が差し込んでいるのに、昨日の雨が心の奥でまだ降り続いていた。
日常は戻った。
街は朝の活動を始めた。
人々が歩いている。車が走っている。すべてが普通のまま。
敬子だけが、見えない雨の中を歩き続けていた。
敬子は窓を開け、朝日に目を向けた。
眩しかった。もちろん、雨音は聞こえるはずもない。
しかし心には、あの日と同じ雨が降り続けていた。
敬子は着替えて、出かける支度をした。
コンビニに向かうために。
傘を返すために。
それとも、真実を確かめるために。
玄関のドアに手をかけたとき、敬子は小さくつぶやいた。
「今度は、逃げない」
その声は、昨夜の雨音よりもずっと小さかったが、自身の耳にしっかりと届いた。
(完)