第五話:クライマックス
「けいこ、やっと会えたね」
男性の声が夜の静寂を破った。
敬子は凍りついた。優しいのにゾッとする声だった。
「やっと会えたって…初対面ですよね?」敬子の声は震えていた。
男性は微笑んでいる。「そうだったかな?」
現在と過去の雨音が重なり合った。今は過去なのか、過去が今なのか、もう何もわからない。
男性の顔が街灯の光に照らされた。敬子は底知れない恐怖を感じた。
「違う!私は...私は...」
何が違うのかはわからなかった。しかし何かが間違っている。
その時、最後の記憶のピースがはじけた。
周囲の期待に満ちた視線に気を取られて、手が震えた。汗で傘が滑った。
「頑張れ!」
「慎重に引き上げろ!」
「もう少しだ!」
みんなの声が重圧となって押し寄せた。
期待されている。
みんなが見ている。
絶対に失敗できない!
しかし、緊張で手に汗をかき、傘の握りが不安定になった。
段ボール箱は再び川に流れていった。
「あああ!」
失望の声が上がった。
段ボール箱を追いかけてみんなが走り出した。
「急げ!」
「まだ間に合うかも」
みんなは必死に追いかけていた。
しかし敬子の足は動いていなかった。一歩も。
失敗の恥ずかしさ。みんなへの申し訳なさ。そして何より、自分への情けなさ。
誰にも言わずに、みんなとは正反対の道を敬子は帰っていった。
翌日、川下でケインの死体が見つかったと噂になった。
「もう少し早ければ・・・」
その「もう少し」は、敬子が追いかけていれば作れたはずの時間だった。
記憶の全容が戻った。
(私はケインを見殺しにした)
その言葉が心に戻った瞬間、現実と記憶の境界が消えた。
(私は期待に応えられなかった)
男性の声は親切なのか、遠い日の恨みなのかわからない。現在の恐怖と過去の罪悪感が絡み合って敬子を襲った。
「いやあああああ!」
敬子は叫んだ。
借りた傘を放り出して、雨の中を走り出した。
「Cain」と刻まれた傘が地面に転がった。
男性は追いかけてくるのか、それとも最初からいなかったのか。もうわからない。
雨に濡れながら必死で逃げる。しかし走りながらも、二つに絡みあったなにかが追いかけてくる。
足音が雨音に溶けていく。でもその足跡は自分のものか、男性の足音なのか、どっちなんだろう。
(ケインを見捨てたあの日と何も変わらない)
街灯の光は遠ざかり、暗闇が敬子を包み込む。
現実は完全に消えてしまった。何が本当で、何が幻なのか。男性は実在したのか、それとも罪悪感が作り出していたのか。
しかし確実に言えることが一つだけ。
あの日も今日も敬子は逃げた。
息が切れる。心臓が激しく打つ。
「ケイン...」雨音に混じって聞こえてくる。
暗闇の中で、敬子の意識は薄れていった。
最後に見えたのは、雨に滲む街灯の光だった。