第四話:恐怖の増幅
男性の行動が、だんだんとエスカレートしてきた。最初は「kei...」という曖昧な音だったものが、はっきりと今は聞こえる。
「けいこ」
敬子は立ち止まった。「私の名前は敬子ですが、なぜご存知なのですか?」
男性は戸惑ったような表情を一瞬見せて、それから微笑んだ。
「ああ、そうでした。敬子さん...でしたね」
その訂正の仕方はとても不自然だった。まるで最初から知っていたかのような口ぶり。
どこで敬子の名前を知ったというのだろうか。
二人は、いつの間にか人通りの少ない方向へ向かっていた。
男性が誘導しているのか、それとも偶然なのか。
街灯の間隔が広くなり、薄暗い場所が増えていた。
敬子の警戒心は明らかな恐怖に変わり始めた。
「この辺りは静かになりました」男性が言う。
敬子は頷くしかできない。逃げたい気持ちもあるけれど、借りた傘は小さく、男性の大きな傘なしではずぶ濡れになってしまう。豪雨の中を一人では歩きたくない。
手に持つ傘の重さが、あの日の記憶を蘇らせた。
みんなが「頑張って!」「届きそう!」と叫んでいた。
川に流れるケインの段ボール箱。橋の上から見下ろす敬子。
「誰か棒とか持ってないかな!」*
敬子は持っていた傘を逆さに持ち、持ち手の部分を段ボール箱に引っ掛けようとした。川岸のギリギリまで身を乗り出して、必死に手を伸ばした。
傘の先端が段ボール箱の縁に触れた。
「やった!」という歓声が上がった。
みんなの期待の視線が敬子に集中する。
「すごい!」
「あとちょっとだ」
「頑張れ!」
現在に戻ると、男性の視線が記憶の中のみんなの視線と重なった。
期待に満ちた目。何かを求めている目。
男性の話し方も、だんだんと個人的になっていった。
「昔、この近くで小さな子犬を見たことがあるんです」
敬子の背筋が凍る。
「雨の日でした。とても可愛らしい子犬でした」
敬子を窺いみるように男性は続けた。
「けいこ...いえ、敬子さんもご存知かもしれませんね」
なぜこの人は、あの日のことを知っているのだろう。
「けいこ」とケインの名前が、敬子の頭の中で錯綜し始める。
現実の男性が「けいこ」と呼んでいるのか、それとも記憶の中でケインの名前を聞いているのか。区別がつかなくなっている。
敬子の呼吸が荒くなる。手が震えた。
傘の持ち手が段ボール箱を捉えた瞬間、みんなの期待が頂上に。
「引き上げろ!」
「慎重に引き上げて!」
周囲の期待が敬子にのしかかった。
みんなが見ている。
みんなが期待している。
もしも失敗したら!
敬子はそのとき手に汗をかいていることに気づいた。
傘がわずかに滑った。
街灯の光がぼんやりと光り、現実感が薄れていく。男性の声も雨音もすべてが現実のものではないように聞こえる。
今なのか、あの時なのか、わからない。
男性の存在も曖昧になり始めた。本当にそこにいるのか、幻なのか、それとも記憶の中なのか。
「けいこ...けいこ...」
敬子を呼ぶ声が反復する。男性の声なのか、過去の記憶の中の声なのか、もう何もわからない。
敬子は立ち止まった。息が切れている。心臓が激しく打っている。
「大丈夫ですか?」男性が心配そうに声をかける。
その声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
記憶の中の期待の視線と、現在の男性の視線が完全に重なり合う。
(あの時、確かに傘はケインの箱に触れた。みんな喜んだ。でも)
その後に何が起こったのか? 敬子は思い出すことに必死で抵抗しているようだった。
雨が強くなり、現実と記憶の境界が溶け始めた。街灯の光も、あの日の記憶の中の光なのか、今この瞬間の光なのか、わからなくなっていた。