第三話:記憶の浮上
街灯の下を通り過ぎるたび、敬子は男性の視線をより強く意識し始めた。それは単なる親切心を超えた何かだった。
期待されている? 何かを求められている? 重圧は徐々に息苦しさに変わっていった。
足音のリズムが微妙にずれる。敬子の歩調は不安定になり、男性がそれに合わせようとする男性とで、二人の歩く音は不協和音を奏で始めた。
「この先に小さな公園がありました」男性が話し続ける。「子どもたちがよく遊んでいました」
また昔の話が始まった。頷きながらも、男性の話がより個人的な思い出に近くなっていることに敬子は気づいた。
最初は「この辺り」だった。それが「小さな公園」になり、そして「子どもたち」。だんだんと具体的になっている。
「kei…そうですね、懐かしいものです」
敬子には確かに自分の名が混じった気がした。
「今、何と言いました?」敬子は立ち止まって尋ねた。
男性は曖昧に笑ったが、その笑みはどこか張り付いたものに見えた。「ああ、すみません。昔のことを思い出していて、つい…」
はぐらかされた。
敬子の曖昧な不安が確信に変わっていく。偶然ではない。きっと何かある。そうに違いない。
期待の視線がさらに重くなる。まるで何かの答えを待っているかのように。
その感覚は、あのときと同じだった。
段ボール箱に、きれいな大人の字で何かが書かれていた。
誰かが覗き込んで声に出していた。
「ぼくはケインです。どなたか かわいがって ください」
ケイン。ただそれだけなのに、胸のざわつきが止まらない。段ボール箱の中で震えている小さな存在。
太いマジックで丁寧に書かれた文字が読まれると、ただ「守ってあげなきゃ」という使命感だけが、そこにいたみんなと敬子の心を占めていった。
男性がじっと敬子を見ていた。
「大丈夫ですか? 急に黙り込んでしまって」
「ええ、大丈夫です」声が少し震えていたが、敬子は慌てて答えた。
男性の話はさらに個人的になっていった。
「この辺りで可愛い動物を見かけたことがあったんです。ずっと昔のある雨の日でした」
まさか。偶然の一致だろうか。
「動物?」
「小さな子犬でした。とても愛らしい子犬でkei…」
まただ。明らかに意図的だった。男性は敬子の反応を窺っているのだろうか。
雨の音、傘を持つ手の感触、隣を歩く人の気配。すべてが過去の記憶と重なり始める。
現在の男性の声と記憶の中のみんなの声が混じり合う。
「頑張って!」
「届きそう!」
「敬子ちゃん、できる?」
みんなの期待の視線。
期待に応えられるだろうか。失望させてしまわないだろうか。大丈夫かな?
敬子の呼吸が荒くなる。歩調はさらに乱れる。
今なのか、あの時なのか、それすらわからなくなってくる。
「あの…」敬子は立ち止まった。
男性も立ち止まった。
街灯の光が二人を照らし、二人の表情がくっきりと浮かび上がった。男性の目に期待が込められているかのように。
「どうかしましたか?」
敬子は答えられない。男性の親切は今では重荷になっている。
大人の計算された善意への恐怖。
(期待には応えられないと思う)そんな予感が敬子の胸を締め付けた。
(逃げたい。――けれど、傘の下を離れることは、雨に打たれることよりも怖かった)
「いえ、何でもありません」
言葉とは裏腹に敬子の心が揺れていた。記憶はより鮮明になろうとしていた。
しかし敬子には、その記憶の先にある真実を受け入れる準備はまだできていない。
「ぼくはケインです」
段ボール箱に書かれた丁寧な文字は敬子の脳裏に焼き付いていた。
ケインに何が起こったのか? あの時の私は何をしたのか?
雨音があの日の記憶を呼び覚まそうとしていた。期待の視線の先にあるはずの、忘れたかった真実を。