第二話:相合傘の始まり
傘の下で、敬子は傘の男と並んで歩いている。二人の距離は微妙だった。近すぎず遠すぎず、しかし確実にお互いの存在を意識せざるを得ない距離だった。
雨音が変化していく。少し前まではパラパラと軽やかだった音が、今ではザアザアと重厚になり、ポタポタと大きな水滴が傘から落ちていく。その音の変化は敬子の心拍リズムと重なっているようだった。
「この辺りは昔から知っているんです」男が話し始めた。声は穏やかで少しも威圧的なところはない。「小さい頃からよく通っていた道でした」
敬子は頷きながらも、心に小さな引っかかりを感じていた。話が唐突だ、そして漠然としている。「昔から」「よく通っていた」―どれも他人の敬子には相槌のうちようがない。
「そうなんですか」敬子はとりあえず当たり障りのない返事をした。
男性は話し続ける。「昔はもっと店が少なくて、夜になると静かでした。今はコンビニもできて便利になりましたが」
敬子は男性の横顔をちらりと見た。親切そうな人だ。しかし、なぜか視線を感じる。期待されているような、何かを求められているような。その感覚がきりりと苦しい。
雨音がまた強くなった。その音は、あの日と同じ音だった。
敬子が中学生だった頃。ある雨の夕方。
段ボール箱が川を流れて岸辺に止まっている。そう、白い段ボール箱だった。
敬子は記憶から現実に戻るときに胸がざわついた。なぜ今突然にあの日のことを思い出したんだろう。
「大丈夫ですか?」男性が心配そうに声をかける。
「ええ、すみません」敬子は答えた。
男性は相変わらず話し続けているが、敬子には頭に入ってこなくなっていた。雨音だけが耳に響く。足元の水たまりを避けながら、敬子はどこを歩いているのかもはっきりしなくなっていた。
「子どもの頃は、ここでよく…」男性の声が途切れた。そして「kei…」という音が混じった。
敬子は立ち止まりかけた。「今、何と言いました?」
男性は少し戸惑ったような表情を見せた。「何でもありません。すみません、何を言いかけたんだろう?」
しかし敬子の耳には確かに「kei」」という音が残っていた。自分の名前の最初の音。偶然だろうか。
街灯の光が二人を照らし、また影が包む。灯りの下では現実に戻るが、暗がりに入ると記憶が蘇りそうになる。そのリズムは敬子を惑わせる。
「あまりお話をしませんね」男性は観察するように言う。
「引っ越してきたばかりで、まだこの辺りのことはよくわからないんです」敬子は正直に答えた。
「そうでしたか。それは心細いでしょうね。多分すぐに慣れますよ。皆さん親切ですから」
その言葉が敬子の記憶の奥底をまた刺激した。
橋の袂のみんな。
心配そうに川を見下ろすみんな。
「頑張って!」と声援を送るみんな。
期待に満ちた視線を向けるみんな。
敬子は傘を握る手に力を入れた。なぜ、あの日のことを思い出すのだろう。
「その傘、小さい割に重くないですか?」男性が気遣うように言った。
「いえ、大丈夫です」
しかし本当は重かった。物理的な重さではなく、何か別の重さ。記憶の重さ、期待の重さ。
雨音に混じって、遠い記憶の中の声が聞こえてきた。
「頑張って!」「届きそう!」
何を頑張っていたのだろう? なぜ今それを思い出すのだろう?
男性は相変わらず親切そうな表情で隣を歩いている。そして敬子の心の中は、現在と過去の境界がぼやけ始めていた。