第一話:邂逅
雨が降っていた。コンビニの明かりがぼんやりとアスファルトに映っている。
今井敬子は、一週間前に引っ越してきたばかりの街を急ぎ足で歩いていた。
雨は予想以上に強くなっていく。
この街にはまだ馴染みがない。知り合いもいない。コンビニでさえも、ありそうな場所にはなかった。そのコンビニも、レジの位置、雑誌の並び、すべてが微妙に違っているようだ。
コンビニの自動ドアが開き、買い物を終えた敬子は傘立てに向かった。来店時に差しておいた傘を取りに。
「あれ?」
自分の傘が見当たらない。半透明の黒いビニール傘、特に特徴はないが確かにここに差したはずだ。
「あれ?あれ?」
敬子は傘立ての中を探す。どれも同じような傘で、どれも自分のものではない。間違えて誰かが持っていってしまったのだろうか。
「どうかしましたか?」
振り返ると、四十代くらいの男性が心配そうにこちらを見ていた。濡れた髪を手で軽く払いながら、親切そうな表情を浮かべている。
「私の傘が…ちゃんとここに差しておいたのに、ないんです」敬子は困惑しながら答えた。
男性は理解を示すように頷く。「無邪気な傘泥棒ですね」」
「そうですよね…」敬子は雨音を聞きながら途方に暮れた。この雨では傘なしでは歩けない。
「だったら」男性は鞄から白い小さな傘を取り出しながら言った。「よろしければ、私の予備の傘をお使いください」
敬子は驚いた。「そんな…見ず知らずの人に」
「困った時はお互い様です」男性はにっこりと笑いながら傘を差し出した。「返すのはここの傘立てに差しておけばかまいませんよ。明日にでも、通りかかった時で」
とても自然に渡されたものだから、つい傘を受け取ってしまい、敬子はふとその傘のブランド名に目が留まった。持ち手の部分に小さく「Cain」と刻まれている。無機質なはずの英字が、なぜか頭から離れない。まるで誰かの名前を呼んでいるかのように。
その文字がなぜか気になった。自分の名前と少し似ている音。それ以上に何か引っかかるものが。
「ありがとうございます」敬子は微笑んで礼を言った。
男性も微笑む。「どういたしまして」
傘を手にした瞬間、敬子の胸に微かな違和感が走った。何かが、遠い記憶の扉を叩いているような気がした。
コンビニを出ると、夜の空気は湿ってひんやりとしていた。車のヘッドライトが濡れた道路を滑るように走る。雨は予想以上に激しく、借りた傘ではいささか心もとない。
男性は敬子と同じ方向へ歩き出す。
「あら、さっきはありがとうございました」
男性は振り返る。「ああ、傘の…同じ方向でしたか」
「はい」敬子は借りた傘を見下ろした。
「その傘ではこんな豪雨では役立たずでしたね」
男性は大きな傘を持ち上げながら言った。「よろしければ、一緒に歩きませんか」
敬子はしばらく迷った。見知らぬ男性との夜道。普通なら断るべき状況だ。でも、この人は傘を貸してくれた親切な人だ。そして、この雨ではとなりに人がいるほうが濡れないかもしれない。
「では…ありがとうございます」
男性は傘の角度を調整し、敬子に向けて微笑む。「遠慮なさらず、これも何かの縁でしょう」
敬子は小さく息をつき、男性の大きな傘の下に身を寄せた。手には「Cain」と刻まれた傘。なぜか、この文字が心に引っかかり続けていた。
雨の音、車の通る音、夜の静けさ。それらがすべて、少しだけ非日常的な時間の始まりを告げていた。
傘の下で二人の距離は思ったより近い。男性の存在を意識せずにはいられない。善意の人なのか、それとも警戒すべき相手なのか。
雨音が強くなる。
その音は、なぜか遠い記憶を呼び起こそうとしていた。