09.ルイード
翌日、隣国のゼビアナ王国の王子であるルイードに誘われた。
流暢な英語を話す彼は、あの日〝政治を円滑に進めるための結婚だ〟と言っていた男だ。
顔合わせの時も少々傲慢な部分を見せていたので、それなりの対応を覚悟していたけれど、まるで壊れ物を扱うように接して来るので意外に思った。
「昨日はジャンと出かけたと聞いたのですが」
「ええ、アクアパッツァを食べに行きました」
「そうですか、ジャンとは年齢も近いので楽しめたでしょうね」
対応はいかにも紳士だが、事前にどのような値踏みをされていたかを知っているミハエルとしては、魅力的には映らなかった。
会話が途切れてしまったので、適当に気が付いたことを口にした。
「スーツ姿もお似合いですね」
「ありがとうございます。ドレスコードがなげれば着る機会がない物ですから、ネクタイを結ぶのに手間取りました」
言われて彼の首元へ目を向けると、ワイシャツで見え隠れする赤い痕を見つける。皮下出血の痣を見て、性交渉の経験がないミエハルにも、それがキスマークだと気が付いた。
なかなか大胆な性格のようで、真新しい赤い痣をわざわざ見せたかったのか、そんな物を隠す必要がないのか、どちらだろう? と考えてから素知らぬ顔をして正面を向いた。
エリートアルファがモテるのは当たり前だし、それこそミハエルに操を立てて禁欲などされても困る。結婚後、必要以上のスキンシップはしないで済むことを考えると、彼は政略結婚の婿としては適任なのかも知れないなと思った。
「足元に気を付けて」
車から降りる際、軽いエスコートを受けると同時に、ルイードはチラリとエラルドへ目を向け、「彼は何処まで付いて来るのです?」とミハエルに尋ねて来る。
「兄の命令ですので、何処までも付いて来ると思います」
それを聞き、ルイードは微笑した。裕福な人間が醸し出す特有の気怠い感じが、グレンにそっくりだと思った。
いや、中東の人間ならではなのか、どちらにせよ、警護をするエラルドを疎ましいと思って言っているのではなく、単純な疑問を口にしたのだろう。
なぜなら――。
「困りましたね。ボックスシートですので彼の席は用意出来ないのですが……」
彼が用意したオペラの舞台は有名な演者の公演なので指定席しかない。当然エラルドの席は用意して無いので彼は入れない。
「私はここでお待ちしております」
待っていると言ったエラルドは、会場外の分厚いガラス扉の前に立った。
座る場所も無い所でミハエル達が帰って来るまで待つと言った彼に思わず声が出た。
「こんな場所で……?」
「気遣いなら必要ありません」
「……分かった、じゃあ、行って来ます」
彼も仕事なのだから、自分が気にすれば余計に気にする。仕方なく彼に背を向けると会場へ足を運んだ。
用意されたボックスシートに腰掛け、隣に座ったルイードは長い脚を組み、公演のパンフレットを開いた。
「ミハエルと呼んでも構いませんか?」
「ええ、どうぞ好きなように」
「……ふむ、警戒されてますか?」
「え?」
「いえ、ずっと表情が硬いのが気になりました」
意外なことを言われて、ミハエルはすくすく笑った。
アルファである彼がご機嫌を伺うなんて、変な気分だった。雰囲気がグレンに似ているせいで、余計に可笑しくなってしまう。
「そんなに面白いですか?」
「あ……、ご気分を害されたのであれば謝罪します」
「いえ」
彼は無愛想に謝罪の必要はないと言ったが、ちょっと笑い過ぎたことを反省して、正直に笑った理由を彼に話した。
「ルイードさんと兄は雰囲気が似ているので、あの兄がそんなふうに相手の顔色を窺うような気遣いをしたら、ちょっと気持ちが悪いと思ってしまって……」
説明している側から、また笑みが零れてしまう。
「……なるほど、では普段通りで構いませんか?」
「そうして下さい」
彼は肩の力を抜く様に、ふと笑みを浮かべ、「実は俺も自分で言ってて気持ち悪いと思ってた」と言って、ルイードは片目を瞑る。
「じゃあ、俺も普段通りに話しますね」
「そうだな、そうしてくれ」
互いに丁寧な言葉を止め、その後は普通に話をした。
オペラの公演が終わり、会場の外へ向かえば、最後に見た時とまったく変わらぬ姿勢で待っているエラルドが目に飛び込んで来る。
それを見てルイードが「ふぅん……」と意味ありげな吐息を吐いた。
「どうかしました?」
じっとエラルドを見る眼差しが気になり、ミハエルは声を掛けた。
「あ、いや、君は彼のことをどこまで知ってるのかと思っただけだ」
「どこまでって、俺の護衛ですよ? プライベートまでは知らないです」
「そうか」
なるほどね、と彼は何処か安心したような顔をした。
そういえば、顔合わせの時、彼はエラルドのことを知っているような素振りを見せていた。
二人の関係を聞いて見ようかと悩んだが、結局は聞かないことにした。アルファならではの交流くらいあってもおかしくないし、聞くならエラルドに聞いた方がいいと思ったからだ。
西の間の前で、ルイードは軽く腰を落とし、ミハエルの手を掴むと、その手にもう片方の手を添えた。
「今日はとても楽しめたよ。ミハエルがこんなに魅力的だと知っていれば、グレンに候補者として選ばれる前に口説いていた」
「あなたのような人に、そんなことを言われるなんて光栄だよ」
「それでは、また」
「うん、また」
心の底では何を思っているのやら、と笑いを必死で堪え、身体を反転させると、自室へ向かった。
自分の部屋へ戻る際、エラルドに「ルイードと知り合い?」と聞いた。
「はい、存じてます」
「そっか、説明し難い関係?」
「……」
「探っているわけじゃないよ」
弁解するような言葉を言い残し、自分の部屋へ戻ろうとした時、「私には女性の友人が――」と言った。その後の沈黙でピンと来てしまった。
「あ、もしかして、ルイードと付き合っていたとか?」
「……随分と勘が鋭いのですね」
「そりゃ……っ」
堪え切れず吹き出し笑いをしたミハエルは、エラルドへ顔を向けると、「知ってた?」と自分の首筋に指を差しながら言葉を続けた。
「今日、彼の首筋に鮮度の高そうなキスマークが付いてたよ。なかなか大胆だよねぇ、花婿候補だって言うのにさ」
「……グレン様にご報告をしておきましょうか?」
「そんなの報告しなくてもいいよ。最初から彼には興味なんてないし、まあ、興味と言えば誰にも興味を抱けそうにないけどね」
くすくすとミハエルは笑った。
「左様ですか」
「俺が相手に関心ないんだから、相手だって俺に関心ないよ」
「……それならば」
何かを言おうとして、彼は口を閉じた。言うのを迷っているのは、あまり良い話ではないからなのか、それとも単純に言葉に詰まっているだけなのか、とにかくミハエルは彼が続き話してくれるのを待った。
いつまでも流れる沈黙、本当はこちらが諦めて部屋へ戻って行くのを待っていたのかも知れない、けれど根負けしたのか、彼は静かに口を開いた。
「あなたを大切にしてくれる方を選んで下さい……」
いつも口数が少なくて、仕事優先の人間のエラルド。そんな彼の言葉だから、とても心に沁みた。
おそらくルイードは婿に選ばない方が良いと遠回しに忠告してくれたのだ。
「分かった。ありがとう、おやすみ」
自分の部屋へと入り、リビングのソファへ腰を落とした。
エラルドの知人とルイードが恋人同士だったとしても問題では無かったし、軽く流せることだったのに、『ルイードと付き合ってたの?』などと確認の言葉を放ってしまった。
――言うべきじゃなかった……。
咄嗟に浮かべたエラルドの焦りに似た表情を思い浮かべて、ミハエルは小さく溜息を吐いた――。