17.夢
エラルドは片目を開け、耳元で煩く鳴るアラートを止めた。
目覚ましなどなくても、毎朝同じ時間に目が覚めるが、今日は珍しくアラームで目が覚めた。
起きて直ぐに携帯を確認する。顔を洗うより先にすることであり、それこそ毎日の日課だった。特にメッセージも入ってない携帯をぼーっと眺めて思う。
――夢……?
ミハエルから告白をされたが、それが現実だったのか夢だったのか分からなくなっていた。
何故なら先ほどまで彼の夢を見ていたからだ。
夢の中の彼は泣いていた。エラルドは何も出来ず、ただ彼を見つめるのが精一杯で、手を伸ばせば涙くらいは拭き取ってあげれたのに、と夢の中のミハエルに対して何故か罪悪感を抱いた。
支度を整え部屋から出ると、丁度ルームサービスが運ばれて来るところだった。
「エラルド、おはよう」
「……おはようございます」
ミハエルだけではなく、ジャンにも頭を下げた。
彼の顔を見て、昨日、出かける時にやり取りしたことを思い出した。
『ミハエルの周りに変な奴がいたら、あとで報告してくれ』
『変な奴ですか?』
『そ、君の主は危ないオメガだから』
『仰っている意味が分かりません……』
急に呼び止められて何を言うのかと思えば、ミハエルの周辺を気を付けろと言い、彼が危ないオメガだと言う。
『自分が王族だという自覚がないし、それにアレの件も』
苦笑するジャンに言われて、ああ、例のことかとエラルドも瞬時に理解した。
彼から何度も警告されている〝突発性のフェロモン〟のことで、それに関しては雇い主のグレンから常に気を付けるように言われていた。
綺麗に整った眉を歪ませるジャンは、男から見れば小綺麗な顔で、ドライな雰囲気を漂わせているが、割と独占欲も強いようで、時折みせる男っぽい発言が意外に映ることも多かった。
『本人がまったく気が付いてないから問題だ。ミハエルはちょっとした動揺でアレが出る時がある。俺達はともかく属性転換した事情を知らないアルファなら、発情していると勘違いするだろ?』
属性転換の症状に関しては事前にグレンから説明を受けている。だから、エラルドは完璧な抑制剤をあらゆるところに仕込んでいた。
ピアスはもちろんのこと、指の爪先にも抑制剤が仕込まれており、強く拳を握れば体内に流れる。それとは別に、自主的に奥歯にもカプセルが仕込んであった。
『分かりました。その為の護衛ですから、お任せ下さい』
『……本当なら、エラルドにも近付いて欲しくはないんだけどね』
意外な言葉を聞き、ジャンの顔をまじまじと見た。
『護衛とはいえアルファだ。四六時中一緒居るわけだし、間違いが起こらないとも限らない』
厳しい口調でエラルドのことも牽制してくる昨日の彼のことを思い出しながら、割り切った結婚だと思っていたが、そうでもないようだと思う。
ジャンの思惑がいまいち計れないが、どちらにせよエラルドがするべきことはミハエルを守ることだけだった――。
二人から少し離れた場所にあるサイドテーブル席に座り、コーヒーを口に含むと、数分も経たないうちにミハエルが近付いて来た。
「今日は山に登ろう?」
「はい、分かりました。でも私は登ったことは無いのですが?」
「大丈夫、ハイキングコースだよ、スニーカーで十分だからさ」
屈託なく笑う彼はいつでも、弱気になりそうな心を必死に奮い立たせている。
今もそうだ。せっかくイギリスへ帰って来ても、帰る家も無いと知ってショックなはずだ。
それこそ、属性が変わり情緒が不安定にも関わらず、決して誰にも弱みを握らせまいと前だけを見つめている。
昨日、大声で泣きたいのを必死で堪える姿が美しいとさえ思った。
――それにしても結婚を決めた理由は……何だったのか。
ジャンとは年齢も近く、一緒に居ると友人のような関係が築くことが出来るのは分かるが、それだけの理由で彼との結婚を望んだとは思えなかった。
猶予はまだ半年もあるのに、こんなに急いで決めなくても良かったのでは? と納得がいかない感情が湧いた。
――何故……。
主の結婚を喜んであげられないのはどうしてなのか、と今度は自分の感情を不思議に思う。
どちらにせよ、彼が結婚してからも自分は護衛に就くことになっている。必要ないと言われるまでは、ミハエルを守ることが出来ることを嬉しく思った。
「ね?」
彼の『ね?』の意味が分からず、「すみません、考え事をしていて聞いてませんでした」と正直に伝えた。
「珍しいこともあるんだね……」
「すみませんでした」
エラルドは頭を下げて謝罪した。
「それで、何のお話でしたか?」
「スーツじゃない服装に着替えてって言ったの、その格好で山登りはいくらエラルドでも無茶が過ぎるよ?」
ミハエルが胸元のスーツの合わせ釦の辺りを指さしてくる。その仕草に何故か、そわっと落ち着かない気分にさせられたが、理由は直ぐに分かった。
――動揺している……?
アルファの脳を揺さぶるほどではないが、花に似た華やかな香がミハエルから漂う。
発情期のような強烈な物ではなく、閉まっているはずの蓋から仕方なく漏れ出すような感じなので、当人ですら自分がどういう状態なのか気が付かないだろう。
何に動揺しているのか分からないが、属性転換の不安定な症状は、エラルドが思っている以上に深刻な物だった。
とくにサルスジャミン諸王国を出てからは、時折、今の様にふわりと漂って来ることが多くなっていた。
グレンが片時もミハエルから離れるなと命令された時、「災難に遭わせたくない」と言っていたが、最初は大袈裟な話だと思っていたし、態度とは裏腹にグレンが過保護だとも感じたが、そうでもないのだと実感する。
こうも頻繁に感情が揺れ動き、誘惑香が流れるのであれば、当人に症状の話を詳しく説明して診療も視野に入れた方がいいとエラルドは思う。
ただ、その治療は屈辱と苦痛を伴うこともあるので、本人にその強い意思がなければいけない。どちらにせよ、彼が苦しむ姿をエラルドは見たくなかった。
部屋に戻り、着替えを済ませると、取りあえずグレンに報告をした。
「ミハエル様が山へ登りたいと仰ってます」
「そうか、好きにさせてやれ、街中に居るよりは危険も少ないだろう」
「分かりました」
報告が終わるとエラルドへ部屋を出た。ジーンズにトレーナーという動き易い格好で外へ出ると、ミハエルが無言でぼーっとこちらを見ている。
――そういえば、この間もこんな顔をしていたな……。
余程、スーツ姿じゃないエラルドの姿が不思議なのか、初めて見る人間だと認定しているようなミハエルの眼差しは、あまり嬉しくなかった。
いつも一緒にいるのに、他人のような感覚にさせられて、居心地が悪くなる。
「やっぱり、そういう格好の方がいいね」
「……そうでしょうか?」
「うん、似合ってるよ」
「ありがとうございます」
コホっとミハエルの背後で咳払いが聞え、「なんだか、いい雰囲気だ、妬ける」とジャンが言った。
「やっぱり、俺も行こうかなぁ……」
「仕事があるって言ってなかった?」
ミハエルに痛い所を突かれて、言葉を詰まらせたジャンは――、
「兄さんが急にこっちに仕事を回して来たんだよ。本当なら、今日は二人っきりで何処かに行きたかったのに……」
そう言ってジャンが恨めしそうに、ソファーの上に放り投げているノートパソコンへ目を向ける。「今さら、文句を言っても仕方ないな」と言った後、彼はミハエルを抱き寄せた。
「ちょ……っ……」
「気を付けて行って来なよ」
まるで、ペットの犬や猫を愛でるかのようにミハエルの頭を撫でながら、ジャンの視線はエラルドに真っすぐ向かって来る。
彼が言いたいことくらい分かる。護衛としてしっかりミハエルを守れと言いたいのだろう。言われるまでもないことだが、何故そんなに挑発的な目で自分を見て来るのかエラルドは不思議だった。
彼は唇をミハエルの額に押しあてると、名残惜しそうな顔で、「じゃあ、楽しんできて」と送り出しながら、こちらに目配せをしてきた。
ジャンに深くお辞儀をし、「行ってまいります」と声を掛けると、エラルドはミハエルの後を付いて行った――。




