16.沈む夕日
久々にイギリスに帰って来れた喜びは誰にも分かってもらえないだろう。
あのままサルスジャミン諸王国から抜け出せないのでは? と不安に思っていたミハエルは、以前と変わらない街並みを見ることが出来て、本当にほっとした。
ジャンが用意してくれたホテルは最上階で、こんな上層階からの景色は初めてのことだったが、それでも長年親しんで来た街には違いなかった。
「もし、何処か行きたいなら行って来て良いよ? 俺は邪魔だろうからホテルで休憩してるよ」
そう言ってジャンは数室ある部屋の一室へ向かった。
彼と同じ部屋を使うことになったが、ゲストルームも合わせて、全部で六室も部屋があり、三人で宿泊するには十分過ぎるほどで、ミハエルは金額を聞いて目を回したくらいだ。
「どうされますか?」
「え?」
不意に聞かれて何のことだろう? と思っているとエラルドが、「何処か行かれますか?」と聞いて来る。
「そうだなー、大学に行って見たい」
「分かりました。ではタクシーを呼びます」
エラルドが移動手段の提示をしてくるの聞いて、「出来ればバスに乗って行きたい」と訴えた。
こちらの要望に難色を示すことなく、「分かりました」とエラルドが頷き、出かける準備をし始める。
ふと、ジャンが部屋から顔を出し、エラルドだけに用事だと言って呼びつけた。
もしかして、ミハエルと結婚する話をエラルドに言う気なのだろうか? と不安に思う。もちろん、隠すつもりはないけど、出来れば自分の口から彼に伝えたかった。
話が終わったエラルドがミハエルの元へ戻って来るが、相変わらずの無表情で、分かり難い顔をしていた。
「何か用事を言いつけられた?」
「はい、ミハエル様を責任を持ってお守りするように……、と」
「そんなこと今さらだと思うけど……」
瞬時に嘘なのだと気が付いたが、どれだけ訊ねても彼は、先ほど言った言葉を永遠と繰り返すだろうと思ったミハエルは口を閉じた。
ホテルを出て数十分歩くとバスターミナルが見えてくる。大学行きのバスに乗り込むと、一気に懐かしい気分になった。
この国を離れて半年しか経っていないのに、バスに乗れただけでも自由を手に入れた気分になるのだから不思議だ。
流れる景色に心を躍らせていると、自分が通っていた大学が見えて来た。
「あ……」
思わず出た吐息にミハエルは固く口を閉ざす。
バスを降りて久々に見る大学に、何とも言えない感情があふれてくる。入学した時のこと、研究室の前で緊張しながらフジタに挨拶をしたこと、気の合う友人に囲まれて、嫌々出席した講義など、本当に何もかも遠い日のことのようだった。
「中へ入られますか?」
「ううん……、遠慮しておく」
今さら大学の門を潜った所で戻れるわけじゃないし、虚しくなりそうで嫌だった。
「家に行って見ようかな……」
ぽそっと言ったミハエルの言葉にエラルドは珍しく眉根を寄せた。
「住まわれていた家は、既に人手に渡っております」
「あ……、そっか、そういえば、あの人達は何処へ?」
「彼らは監視員でしたので、サルスジャミン諸王国の政府機関の公務員として現在は勤務しております」
子供の頃から過ごして来た彼達が、公務員でミハエルが成長するまでの二十年間、ずっと監視していたという事実が、未だに信じられなかった。
だから、あの家に行けば、まだ母も父も居るのでは? と淡い想いを抱いてた。
「グレン兄さんが、あまり期待はするなよって言ってたのは、そう言うことか……」
兄はミハエルが、現実を受け入れてないことに気が付いてたのだろう。エラルドが、「ショックですか?」と聞いて来る。
「そうだね、ここに帰って来たら、元通りに戻れるかも知れないって、何処かで思ってたかも」
「……すみません、気の利いた言葉がかけられなくて」
気にしないで、という意味を込めてミハエルは頭を振った。少し歩こうと提案をして、エラルドと一緒に大学周辺を歩くことにした。
カフェ、コンビニ、大通りの向かいにはマーケットもある、と説明をしながら歩き、近くのベンチに腰掛けた。
「あのカフェはよく通ったんだ。皆はカフェのバイトの子が目当てで通ってたけど、俺は――」
「ミハエル様……」
ぽろっと零れる涙が、頬を伝った。
「あ……、久しぶりに山にも登って見たいな」
会話を続けていないと、溢れる涙が止まらなくなりそうで、おかしなことをエラルドに言ってしまいそうだった。だから、ミハエルは適当な言葉を吐き出し続けた。
「ミハエル様、移動しましょう。ここは人目が多いです」
「……」
うなずくと、彼に腕を取られた。
痩身に見えるのに意外に逞しく大きな背中、そして掴まれた手の大きさは、あの日を思い出させた。
迷子になった路地で、自分の目の前に現れた彼、あの瞬間ミハエルは、今と同じように強く思った。
――このまま、何処かへ連れて行って欲しい……。
結婚なんてしたくない、出来るならエラルドと二人、誰も知らない所へ行きたい。今まで生きて来た中で、自分の中にこんなにも強欲な部分があるとは思っても見なかった。
「エラルド、もう大丈夫だから」と、ミハエルは歩くのを止める。振り返った彼は、心配そうな顔と言うよりは、困った顔をしていた。
何度もこの街で見た夕陽が彼の顔を照らし、彼の周りにだけ光が集まっているような錯覚を起こした。
「俺ね、エラルドが好きだよ」
何の躊躇もなく好きだという言葉が出た。思いを口にする時は胸が苦しくなるのかと思っていたけど、意外と冷静な自分に驚いた。
告白を聞かされたエラルドは、何をどう返事するべきか考えているのか、少しだけ固い表情をしている。
「あの、深く受け止めないで欲しい、気持ちを伝えたかっただけなんだ。どうやら、これが俺の初恋みたいだから……」
きゅっと目を細めたエラルドは、「はい」とだけ返事した。
「それに、ジャンと結婚することに決めたから、きっとエラルドは俺の護衛から外れると思って……、違う?」
「今朝、その件についてグレン様から連絡をもらいました」
ジャンと結婚することを知っていたと言うエラルドは言葉を続けた。
「グレン様は引き続き護衛をと仰ってました」
「そ、そうなの? てっきり……、結婚したら俺の護衛じゃなくなると思った」
だったら、慌てて告白しなくても良かったじゃないか、と急に恥ずかしくなった。
熱くなる頬を腕で顔を隠しながら、ふと疑問が頭を過った。
結婚相手を決めたのに、護衛が必要なのはどうしてだろう? と不思議に思う。おそらくエラルドはミハエルが逃げ出さないように監視も兼ねているはずで、結婚が決まれば護衛の必要はないはずなのに……、と考えているとエラルドが、「ミハエル様が護衛に就くなと仰るのなら」と遠慮がちに言う。
「ごめん、このイギリス旅行が最後になると思ってたから、自分の気持ちを伝えたかったんだ。だから、俺としては続けて護衛してくれるなら嬉しいけど……」
不意にエラルドが不思議そうな顔をして口を開いた。
「……あの、どうしてですか?」
「うん?」
「私はミハエル様に好かれるような人間では無い気がしたので、どうして私を好きになったのか分からないのです」
ミハエルは思わず、ぷっと吹き出し笑いが出た。
「人を好きになるのって理屈じゃない見たいだよ? だから俺もよく分からないんだ。エラルドは口数が少ないから、考えてることは分かり難いし、結構、頑固だし、何処を好きって聞かれても答えられないけど、一緒に居たいと思う人だよ」
それを聞いたエラルドは、「それなら私もミハエル様を好きなのかも知れません」と言う。
「え……?」
「一生、貴方の護衛をしたいと思っていますから」
真剣な顔で言われて、一瞬ミハエルは固まったが、すぐに大きな溜息を吐いた。
「……ハァ、エラルドの〝好き〟は絶対に俺の思い描く好きとは違う気がする」
「そうでしょうか?」
まさか自分以上に恋愛に鈍い人間がいるとは思っても見なかった。
けれど、生まれて初めての告白は、彼のおかげで重くならずに済んだし、今後もミハエルの護衛を続けてくれると聞いて、嬉しさでいっぱいだった。
この恋は成就しないと最初から分かっていた。だから、エラルドには何も望んではいない。けれど、もし、自分を連れ去ってくれる人間がいるのなら、彼に連れ出してもらいたいな、とミハエルは叶うことの無ない願いを心に秘め、宿泊しているホテルへと戻った――――。




