1-5
「おかえりー!」
「……あぁ」
自宅に帰ると笑顔でリオンが出迎えてくれた。この鬱屈とした気分では、リオンの晴れやかな顔を素直に見ることが出来なくて、ただ視線を下に落としてしまう。
「って、元気ないね!? こんな美少女が出迎えてるのに!」
「お前は相変わらずだな」
リオンの横を通り過ぎてリビングのソファーにダイブする。慣れないことをしたせいでドッと疲れてしまった。人間と喋ると体力ゲージが減る。
「それで今日の成果はどうだったー?」
「成果なし」
備え付けのクッションに顔を埋めて答えた。
「ま、初日だしね! 明日また頑張ろうぉー! 愛する私のために!」
「なぁ、そもそもクラスで一番の人気者になる必要ってあるのか?」
リオンの軽口をスルーして、鬼崎との会話で思い至ったことを口にする。リングを集めるのは百歩譲って許容するが、もっとスマートなやり方もあるだろう。
「学校ではボッチなんでしょ、レオ。それだと人と接する機会がないじゃん!」
「ボッチではなく一匹狼だ。そもそも、その人と接するってのは何分、何十分、何時間が目安なんだ? もっと言えば対象との距離とか、それ次第では他にやりようもあると思うんだが」
一分程度で良いなら無理にでも一人ずつ話しかければいいし、教室という空間にいる全ての人間が影響範囲になるのであれば、会話をしなくとも定義上は接触していることになる。
「……どうなんだろうね?」
リオンは困った顔で苦笑いをしていた。
「おい、まさか何も知らないとか言うんじゃないだろうな」
「うーん、知らないと言えば知らないとも言えるし、知らないということがすなわち知らない状態を指し示すのであれば、端的に言えば知らないと言っても差し支えないと思うよ」
「変な構文で喋るな! そして、冷静に聞くと『知らない』としか言ってないだろ!」
つまりあれか。リング同士が近付けば何かしらの反応があるらしいが、その『近付く』の定義に関しては極めて曖昧なものでしかないと。
「で、でも! レオなら大丈夫! 私が見込んだ男の子だし!」
「あのな! たまたま僕がリオンのことが見えていただけで――ん、あれ」
そういえば、その手があったじゃないか。
「なぁ、リングを取り込んだ人間はリオンのことが見えるんだよな? だったら、リオンがその辺の駅前とかでウロチョロしていれば万事解決なんじゃ?」
「はぁ、やれやれ」
リオンは嘆息しながら肩をすくめた。
「なんだよ。そのウザい反応は」
「だって、そんなのとっくに試したし! おっきな公園の出入り口で張ってれば、私のことが見える人もいるんじゃないかって! 土日も挟んで三日くらい! それでも見える人はいなくて、もう無理だって思っていたところにレオが現れたって感じなのよ!」
そんなことは既に試したと呆れ混じりにリオンは語った。コイツはどうしてこんなにも偉そうなんだと怒りを覚えつつ、この話をもうちょっと深掘ってみる。
「リングを取り込んだ人間はリオンのことが見えるようになるんだろ? 欠けたリングがこの街中に散らばったのなら一人くらい遭遇しても――」
「だ・か・ら! リングの力はリング同士が一定時間接触しないと発揮しないんだって! ただリングを取り込んだだけじゃ私のことも見えないの!」
リオンは真っ直ぐ腕を伸ばして、とんとんと小気味よく鼻を突いてくる。
「いちいち触ってくるな! じゃあ、なんで僕は最初からお前のことが見えてたんだよ!」
「そこが謎なのよ」
うーん、と首を傾げるリオン。その仕草がいちいち可愛らしいのがムカつく。
「その辺の設定をしっかりしとけよ! とにかく、クラスで人気者になるってのは手段であって目的ではないわけだろ。明日、一緒についてこい。もしもクラスにリングの保有者がいるのであれば、何かしら反応があるかもしれない」
それで一度も話していないやつがリオンを視認しようものなら、直接的な会話がリング覚醒の必須条件ではないことが分かるはずだ。
その確認が取れれば、クラスで人気者になるなんて面倒なことをする必要はない。
「えー、でもそれって学校への不法侵入にならない?」
「僕の家に不法侵入しておいて何を今更!」
我が家に対しても、その常識を持ち合わせて欲しかった。
「だ、だって……レオは特別だし……」
「しなを作るな! 目が笑ってるぞ、完全に!」
目は口ほどに物を言う、を地でやっていた。
それを指摘するとリオンは「あちゃー」と舌を出しながら片目を瞑る。
「とにかく! 明日は一緒に学校に――」
ピンポーン。
そんな風に言い合いをしていると、自宅のインターフォンが鳴った。
目の前に鏡があったら、苦虫を噛み潰したような顔をした自分が映ったはずだ。
思い出したくもない男の顔が浮かんでくる。
奴も自宅の鍵を持っているはずなんだが、僕に余計な気を遣っているみたいで、家に帰ってくるときは毎回インターフォンを鳴らしてくるのだ。
「どうしたの、レオ? 早く出ないと」
「あぁ、そうだな。はぁ……」
上目で見つめてくるリオンの視線を受け流して、インターフォンの画面ディスプレイに映し出されている人物をまじまじと確認する。
一応、配達員である可能性もゼロではないからな。
「――あ」
画面に映っていたのは想定外の人物だった。
そうか、その可能性もあるよな。最後に会ったのが春休みの期間だったし。
「はい」
「……七香です。お母さんが煮物を作り過ぎちゃって」
「……分かった。今開けるよ」
再三繰り返すが、僕は人間が嫌いだ。そして、その『人間』には自分自身も含まれる。
彼女と話をすると自分も大嫌いな人間の一人であること思い出してしまう。
「知ってる人?」
明らかにテンションの低い僕を見て、リオンはおっかなびっくりで尋ねてきた。
「ちょっとした知り合いだよ。ってことで、リオンは静かにしてくれよ。姿や声は見えないし聞こえないって話だけど一応な。頼むぞ」
「うん……」
しばらくして、もう一度インターフォンが鳴らされる。重い足取りで玄関に向かって鍵を開錠し、玄関先にいる人物を自宅の中へと迎え入れた。
「……久しぶり、だね」
「……あぁ、そうだな」
互いに目を合わせることなく、表面的な会話を交わす。
菊池七香。
死んだ母の妹、僕にとって叔母にあたる麻美さんの娘。一つ下の従妹。
美人と評判だった母や叔母の遺伝子を受け継ぐ端麗な顔立ち。
僕と頭ひとつ分しか変わらない高身長。手足はすらっと長く、美しい曲線を描いており、どの角度から見ても均整が取れたスタイルが目を引く。
長くツヤのある髪の毛は、後ろでふんわりと束ねられ、その先が軽やかに揺れている。
今年から僕が通う桜峰高校に進学した。従妹でもあり学校の後輩でもある。
歳が近い親戚ということもあり、昔はよく二人で遊ぶことも多かった。
――――そう、昔は。
「これ、煮物……お母さんから」
「……ありがとう。えー、お茶でも飲んでいく、か?」
貰うものだけ貰って「はいさよなら」というのは義理が立たない。
「うん。それじゃあ、お邪魔します……」
七香は丁寧に靴を揃えると、スッと立ち上がってこちらに向き直る。
一瞬、柑橘系の爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。
「そういえば、今日は部活ないのか……?」
中学時代から続けている陸上を高校でもやるつもりなんだと、前回会った際に言っていたような気がする。
「新入生は、今日オフなの」
「そっか」
僕が先導するような形でリビングへ七香を誘う。
繋ぎの会話はぎこちがないもので、空気を和らげるどころか二人の距離感を浮き彫りにしてしまう。どんよりと重い沈黙が空気の中に沈殿していく。
「カフェオレでいいか?」
「う、うん……」
食卓の前に七香を座らせて、スティックカフェオレの粉末にお湯を注ぐ。
手持ち無沙汰そうに指遊びをしている七香を視界に収めつつ、リビングのソファーに腰掛けている天使を一瞥する。
本人の言っていた通り、普通の人間にはリオンの姿が見えないらしい。絶対スルーできないような異物に対して、七香は何一つ反応を示さなかった。
「(ニコっ!)」
目が合うとリオンは得意げな顔で笑った。「私の言ったことに何ひとつ間違いはなかったでしょう?」と言いたそうな顔だ。
うぜぇ、と口に出しそうになったがそんなことをしたら七香に誤解される。
すぅーはぁーと深呼吸で言葉を飲み込んで、天使のことを視界から完全に消した。
「はい、熱いから気をつけてな」
「あ、ありがとう……」
七香はふぅふぅと口先を尖らせて、熱を冷まそうとマグカップに息を吹きかけていた。
そういえば昔から猫舌だったよな、七香って。配慮に欠けていたことを悔やむ。
「その、なんだ。慣れたか、学校は」
「うん、それなりに……」
「……そっか」
八分の一は血が繋がっているわけだが、他人行儀な二人だった。
まさしく、遠くの親類より近くの他人……いや、それは違うか。結構近所に住んでいるし、僕にはそもそも近くの他人が存在しない。
「その、お兄――玲和……さんはどうなの?」
「僕は……うん、普通だよ」
「そうなんだ……」
七香が『お兄ちゃん』から『玲和さん』と言い直した事実が、今の僕たちの関係を端的かつ残酷に表していた。
自分で言うのもなんだが、昔はそれこそ兄のように慕われていたと思う。
こうなってしまったのはいつからだろうか……いいや、そんな事はすぐに分かる。
僕の母親が死んでから。
それから、僕と七香の間には埋められない溝が出来てしまった。
「その、なんだ。慣れないうちは色々と大変だと思うけど頑張ってな。って、そんなことは僕に言われるまでもないか。なな……香……さんは、なんか大人になったもんな」
心の距離が遠い親戚をなんて呼べばいいのか分からない。
菊池さんはいくらなんでも、だけど名前を呼び捨てにするのも憚られる。
結果、近すぎず遠すぎない呼称で彼女の事を表現した。
「そうだよね……」
「え?」
「もう昔みたいには呼んでくれないんだね」
「……っ、なな――」
「ごちそうさま! わたし帰るねっ!」
猫舌の七香は『アツっ!』と目に涙を浮かべながら、勢いよくカフェオレを飲み干す。
僕はただパクパクと口を動かすだけで、静止の言葉が音になることはなかった。
「…………」
部屋には僕一人が取り残される。脱力して立ち上がる事すらできない。
「レオ……」
そういえば、コイツがいたんだっけ。
「ま、これが僕だよ。親戚の女の子ともまともに話せない。こんなんじゃ、クラスで人気者になるなんてのは夢のまた夢だよな」
口の端をだらし無く吊り上げて自嘲気味に笑った。
ただ情けないと嘲笑ってほしい、僕は自分の人間的な部分が大嫌いなんだから。
「大丈夫」
そんな泣き言を漏らした僕の頭に、天使の小さな手がポンと添えられた。
直立していれば身長差の関係からそんなことは起こり得ないのだが、今は椅子に腰掛けていることもあり、目線の高さがリオンとほとんど同じになっている。
「大丈夫だから」
リオンは優しく、労わるように、慈愛に満ちた手付きで髪を撫でる。
心地よい。じんわりと自分以外の体温が伝わってきた。
「……っ、何が大丈夫なんだよ……!」
意味が分からない。だけどもっと意味が分からないのは、リオンの言葉で涙を堪えることになっている女々しい自分自身だった。
「特に意味はないよ。ただ、なんとなく」
「なんとなくかよ」
「リング集めもさ、レオが辛いならやめてもいいんだよ?」
「やめるって……。そしたらお前と手を切れないだろ」
「ううん、心配しないで。そうなったら、私一人で頑張ってみるよ」
リオンは大人びた顔で寂しそうに笑った。
なんだよ、それ。話が違うじゃないか。昨日はあんな強引に迫ってきたのに。本当に自分本位だ、コイツは。くそ、何だかムカついてきたぞ。
「…………るさい」
「え、なに?」
「うるさいって言ったんだ! 乗りかかった船だし、最後までやるっての!」
僕の言葉を受け、リオンはぱちくりと何度も瞬きする。
それから、『ニンマリ』という擬音が相応しいようなイヤらしい表情を浮かべる。
「あれだねー」
「な、なんだよ?」
「レオってあれでしょ、ツンデレってやつだ!」
「は!? ち、違うっての!」
「ほれほれ愛いやつよのぉ。よちよち、撫で撫でしてあげまちゅよー」
「おい、バカ! ふざけんなっ!」
抵抗虚しく、意地悪な顔をした天使にくしゃくしゃと頭を撫でられ続ける。出来の悪い弟を揶揄うような仕草と言動がいちいち癇に障った。
……でも、どうしてだろうか。人の体温、正確には天使のだけど。それが思いの外、悪いものではないと思ってしまう自分がいた。