かえる王子とわるい魔女(3/3)
なれないと感じる両足を動かしながら部屋を出て、彼女の部屋へと向かう。ノックをすると、中からアリスさまの声がした。いつ聞いてもお美しい声ではあるが、人間の耳で聞く彼女の声は格別に美しかった。ゆっくりとドアを開けると、彼女は肘掛け椅子に座って私を見上げていた。
「何か用なのかしら?」
「王子様からのキスは要りません?」
ふっと笑みを浮かべて、私は彼女の前に膝を付く。白いレースの手袋をした彼女の手を取り、そこにそっと唇を落とした。彼女は冷ややかな青い瞳でこちらを見下ろす。
「本当に何を考えているのかしら? わたしの気が変わらないうちに、出て行ったほうが身のためよ」
そうして彼女はもう片方の手に持ったステッキを私の額に付けた。私はにっこりと笑いながらゆっくりとそれを外し、彼女に近づいた。革張りの椅子の背に手をかけ、一年前と同じように、薔薇色の唇に口を寄せる。そして、愛の言葉を投げかけた。
「どうして私が、アリスさまをひとり置いて外に出て行けましょう?」
去年はここで問答無用で豚に変えられた。だが、今度は彼女がステッキを私に向ける事はなかった。——が、代わりに口を開く。にっこりと、悪魔のするような蠱惑的な笑みを浮かべた。
「キス。しても良いけれど、その瞬間にカエルに戻るわよ」
言われた瞬間、息が止まる。
が、すぐに目を細めて口の端を上げた。
「それは怖いな」
言ってから、彼女の唇に口を寄せる。
柔らかな唇に軽く口付けた。
***
「馬鹿じゃないのかしら」
彼女はそう言ってステッキを振った。くるりと振られたそれは机の上においてある花に向けられる。私が花弁を重ねて作った薔薇が、瑞々しい花の飾りとなった。まるで本物の花のように瑞々しく、美しい髪飾り。彼女はそれを手に取ると、自らの金髪に留める。
なんてお美しい。
「変態ね、あなた。そんなにカエルが好きだったの」
失礼な。私が好きなのはアリスさまですよ。ぴょんぴょんと跳ね回りながら、そう抗議する。アリスさまも私が好きで好きでたまらないくせに。
「毛虫にしてもらいたいの?」
彼女はそう言って眉間に皺を作る。そんな表情すら美しいというのは、どれほど神様に愛されてるのだろう。アリスさまはステッキをこちらに向けたが、それが振られることはなかった。
彼女が私をわざわざ外に出られない動物に変えるのは、外に出したくないからだ。
豚の姿では外に出る事も出来ないし——王子が人間に食べられては目も当てられない——鶏では飛んで逃げることも出来ない。ねずみにしたのはかごの中で飼いたかったからであるし、冬になれば屋敷の外に出られないかえるにされた。私を帰したくないから、人間の姿にするのが怖いのだ。
彼女は、寂しいのである。
人間に隠れるように、一人でこんな森の奥の家に住んでいる魔術師。彼女の生はいつ果てるとも知れず、ただただ悠久の時をひとりで刻んでいる。
「想像力豊かね、フロー。わたしは一人で楽しく生きてるわ」
くすくすと笑ってアリスさまは口元に手を当てる。金髪に赤の薔薇を挿した彼女は、いつもよりもずっと機嫌が良さそうに見えた。そんな笑顔に、私の方がプレゼントを貰った気分になる。
でも、ふたりの方が楽しいですよ!
私はぴょんぴょんと飛び回りながら、力一杯訴える。
これからも、ずーっとずーっと一緒にいましょうね。
私の言葉にアリスさまは呆れたような顔をしながらも、やはりくすくすと楽しそうに笑う。
それにとても満足をしながら——ふと、キスをする前に彼女の体に触れなかった自分の愚かさに気づいて十日ほど本気で後悔をした。