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わるい王子とやさしい魔女(1/3)


 玄関の鍵が開いたのは、夜になり、朝になり、昼になり、二度目の夜が来ようとする頃合いだった。ぼんやりと黒に塗りつぶされていく空を見ながら、また厳しい夜の寒さが来るのだと覚悟をしていた私は、玄関で聞こえた金属音がなにを意味するのかを把握するのに時間がかかった。


 音がした方を見上げて、アリスさまが鍵を開けたのだと気づくと心臓が跳ねる。


 だが、どきどきしながら見守ったが、玄関が開けられることはなかった。ゆっくりと足音が歩き去っていくのを聞きながら、どういうことだろう、と思った。鍵を開けてくれたということは、入っても良いということだろうか。私は起き上がろうとしたが、冷えきった体は痛みを訴えていて、私は凍りついたかのような手足を動かすだけでも一苦労だった。


 ぎしりと痛む体をなんとか動かして立ち上がる。


 そっと玄関を開けると、懐かしい香りと温かな空気に涙が出そうになった。暖炉には火がくべられているのだろう。ちょうど食事の時間だったのか、温かなスープのような香りが鼻腔をくすぐる。そこにはアリスさまの姿がなかったから、私はとにかくリビングへと向かった。


 アリスさま、と。


 見慣れたリビングで、私は名前を呼びかけようとしたが、震える唇は言葉を紡げなかった。アリスさまの姿はない。どこにいるのだろうと思った瞬間に、アリスさまがキッチンの方から姿を見せた。彼女はじっと私を見る。その瞳にはなんとも言えないような色がある。顔は怒っているようには見えなかった。


「馬鹿じゃないの」


 どこか途方にくれたような声音ではあるが、聞き慣れた言葉ではある。


 私は何かを言おうとしたが、何を言えば良いのか分からなかった。震えている私を見て、彼女は暖炉の近くの椅子を引いてくれる。そうして暖炉の前に案内してくれたのは、最初にアリスさまの部屋に迷い込んできた時と同じだ。私が足を動かしてそこに向かうと、彼女は持っていたスープを手渡してくれた。それもあの時と同じで、私はやはり涙が出そうになる。


 私は温かなスープを震える手でつかんで、口につける。


 体の中から温まるスープと温かな暖炉の火が、これまで出会った何よりも温かくて、そしてそれを持ってきたアリスさまがあまりに美しくて、あの夜も一瞬で恋に落ちたのだ。森に住む恐ろしい魔女は、こうして人を魅惑して捕えて喰らうのではないかなどと思い、——これ以上の幸せな死に方はないとすら思えてしまった。


 死にそうな凍える寒さから、二度も天国のような場所にきて、このまま死んでも良いと思えるほどの感情に酔いながら、私は何とか唇を開く。


「アリスさま」


 だいぶ体が温まったのか、なんとか震えずに声が出せた。


「……アリスさまは、私がいなくなることが怖いのですか?」


 じっとアリスさまの瞳を見つめていたが、彼女は僅かにまつ毛を伏せただけで、それ以上の反応を見せなかった。驚いたり否定したりしないということは、私の考えも外れてはいないのだ、と思った。


 楽しそうにしながらもいつもどこか寂しそうなアリスさまは、もしかしたらこれまでも多くの人間との別れを経てきたのかもしれない。とかげは人間と一緒にいるのは疲れると言ったが、確かに大切な人々が自分よりも先に命を落としていくのを見続けるのは疲れるのではないだろうか。


 だから私を動物にして、かえるにして、あおむしにしたのだ。


 いつか来る別れが辛くなるほどの愛着を持ちたくなかったから、わざわざ人間から離れた小さな存在に変えていったのだ。嫌いなあおむしにしたのは、そうすれば彼女自身が私を追い出したくなると思ったからか、もしくは私にアリスさまを嫌いにさせたかったからか。あおむしにされてろくに動くこともできないというのはたしかに苦行で、アリスさまを諦めようとしない私に、二度とこの屋敷に来ようなどと思わせないようにしたのかもしれない。


「アリスさま、私は」


 口を開いた瞬間に、マフラーからぽたりととかげがテーブルに落ちた。肌の上でも寒さで凍えて冬眠しかけていたとかげが、暖かさに目を覚ましたのだろうか。きょろきょろと首をめぐらせたとかげは、アリスさまの姿を見つけて大声を出す。


『アリス! たのむ、一生のおねがいだ、魔法使いに戻してくれ!』


 話の腰を折られた気分で私はとかげを見下ろし、アリスさまは伏せていた瞳を騒ぐとかげに向ける。彼女は何を思ったのか、どこからともなくステッキを取り出した。


 瞬間、とかげの姿が消えていた。


 と思った時には、アリスさまと私の中央に黒づくめの男が登場していた。男は一瞬だけぽかんとした顔をして、アリスさまを見て、それから私を見て、そして自身の黒い服を見下ろした。彼は懐からアリスさまのものとよく似た木の棒のようなステッキを構えると、不敵に笑った。


「ふははははは、ここであったが百年目だ! 実際には百年目か二百年目か忘れてしまったが、人をトカゲだのイグアナだのに変える悪い魔女はここで成敗して」


 私は男の言葉を聞きながらカップをテーブルに置き、ゆっくりと椅子から立ち上がっていた。


「くれ——る?」


 中年の魔法使いは言いながら、宙に浮いた。


 距離を詰めて男の足を払った私は、魔法使いの腕を持って背中から床に叩きつけていた。手から取り落として床に転がっていくステッキを見ながら、私は男の顔を間近で見下ろす。中年の魔法使いは自分に何が起こったのかわからない顔で、目を白黒させたままこちらを見上げた。


「ここまでの道案内をありがとう。私のアリスさまにそんな物騒なものを向けないでもらえるだろうか」


 そして懐に入れていた万年筆をすっと取り出すと、ペンの後ろを男の喉仏に触れさせる。


「——私は別に修行などしなくてもあなたを殺せる。あなたもそろそろ憂世に飽きて死にたいのなら、私が協力しようか」


 男の黒い瞳が凍りついたように見開かれる。ぱくぱくと口を開く男を見下ろしてから、私はゆっくりと立ち上がった。だが男は、腰でも抜けたのか立ち上がろうとはしなかった。私がアリスさまを見ると、彼女は驚いたような顔でこちらを見ていた。


「お騒がせしてすみません」


 アリスさまの表情に怯えは見えないが、私が魔法使いに対して「あなたも」と言ったことに気づいただろうか。


「……王子さまのくせに、随分と動けるのね」

「護身術と一騎討ちは王子の基本ですからね。いつアリスさまを巡って他の王子と決闘が必要になるか分からないでしょう。そのために一応は他の王子以上に鍛錬はしています」


 私がそういうと、アリスさまはなんとも言えない顔をした。彼女は中年魔法使いの攻撃に対抗しようとしたのか、いつの間にか右手にステッキを持っていた。


 私はにっこりと笑って見せる。そして不意を打つようにぱっと跳んで、彼女との距離を一気に詰めた。アリスさまの驚いたような顔と宝石のような青い瞳が近づいた時には、彼女が握っていたステッキを叩き落としていた。代わりにステッキを握っていた右掌にゆっくりと触れる。


「それにね、人間に戻ればいつでもアリスさまの唇を奪えるし……アリスさまの体も命もね。もちろん紳士的にとは言えませんけれど」


 右手に触れた指をそのまま腕に滑らせて、そして彼女の細い首に触れる。さらりとして温かいそれは、だが冷たい雪のように白くて儚い。


「ねえ、アリスさま。ひとりでいることが寂しくて、こんな魔法使いに殺してほしいと頼むくらいなら、私に頼んでもらえませんか? 誰かに奪われるくらいなら、私はアリスさまの全てが欲しい」


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