ひとりの王子と残ったとかげ(2/3)
私は供も連れずに森を歩き回っていた。
あの日のように雪は降ってはいない。だが、木の上や根元には溶けていない白雪が溜まっており、凍えるような寒さは変わらなかった。かつて女性からプレゼントしてもらった裏地付きの暖かいコートを身につけてもなお、体の震えが止まらない。もう半日も歩き続けているだろうか。分厚いブーツの中では足の指が凍りついたようになっているし、手の指先も感覚がない。
アリスさまの屋敷はいったいどこなのだろう。
前に迷った時には大吹雪で日も暮れていてろくに視界もきかなかった。どこを歩いているのかも分からなかったし、ずっと同じような景色の中を歩いていたのだ。アリスさまの屋敷の中にいた時にも、周りの森は似たようなものだった。屋敷の前にあった木は、いつも窓から眺めていたため枝の一本一本にいたるまで形を覚えているのだが、その木を見つけた時には屋敷は見つかっているに違いない。
だいぶ日が傾いてしまった、と私は空を見上げる。
こうして森を探索するのは今日でもう五回目だった。前にアリスさまの屋敷に辿り着いたのは、森に入って半日程度だったからさほど遠いわけではないのだろう。大きな屋敷だったから、近づけば必ずわかるはずだ。だが、どれだけ探しても屋敷は全く見つからなかった。
今日もそろそろ引き上げた方が良いだろうと思いながら、私は森の奥へと入っていく。そして暗くなったところで疲れて足を止めてしまった。
「アリスさまー」
叫んでみたのは、もしかしたらアリスさまの屋敷は、遭難者に対して開かれるのではないかと、そんなことを思ってしまったからだ。私は遭難してアリスさまの屋敷に迷い込んだのだし、父上も夜分に迷子になって迷い込んできた。また本当に私が遭難してしまえば、アリスさまが助けてくれるのではないか——と。そんな淡い期待を抱きながら、感覚のない足で暗い森を歩いてゆく。
だが、どこまでも続く深く暗い森は、風でざわざわと影が揺れて恐ろしかった。魔物が出てくるのではないか、獣が飛び出してくるのではないかと思うと、気が気ではない。あまりに暗くなり、足元がおぼつかなくなり立ち往生する。
「アリスさまー、本当に遭難してしまいましたよう」
思わず木の根元に座り込みながら、ううう、と涙を流す。
もう一歩も動けない。手先も足先も冷えて痛いほどだった。凍傷というのは何をどう気をつけたら良いのだろう。去年は柔らかな屋敷の灯りを見つけて痛みも忘れて駆け寄ったのだが、今は近くになんの灯りも見えない。
木の根元に少し地面が下がっているところがあり、風を避けるためにもそこに潜り込んだ。しっかりと前を合わせたコートの中で、自分の体をかき抱く。手袋やブーツを脱いで、痛む手足を自分の体に当てた。体はいっそうに冷えたが、手足の痛みは和らいだ。
死ぬ前にアリスさまにお会いしたかった。
そう思ってはらはらと美しい涙を流したかったのだが、それよりも寒さと恐ろしさで震えが止まらなかった。がたがたと歯を震わせながら、日が暮れる前に王宮に戻らなかった愚かさを猛烈に後悔はした。
「アリスさまー、助けてくださいー」
声が震えて自分でもなんと言っているか分からないほどの呟きになった。
馬鹿じゃないの、と言って呆れた顔をして現れてくれないだろうか。
王宮で美しい女性達に囲まれながら、美味しい食事と美味しいお酒と楽師たちが奏でる音楽に酔いしれ、そして女性の肌に触れて眠る——そんなものよりも、アリスさまにただただ会いたくて、意味もなくこんなところで凍死しようとしている馬鹿な王子を、笑いとばしてくれないだろうか。
暖炉の前に連れて行って温かいスープをふるまってくれてから、別にかえるに変えてもらってもいい。アリスさまの手のひらの上でなら、あおむしになって苦い葉っぱを食べてもいい。
私はぶるぶると震えながら、ひたすらアリスさまの家で過ごした日々や、アリスさまに変えられた色々な動物の記憶や、アリスさまの表情や仕草を思い出していた。悪魔のように笑う蠱惑的な口元や、不愉快そうに寄せられる眉や、楽しそうに笑う声、優しく差し伸べられる白い手、それから一緒にいてもいつもどこか寂しげに見える瞳。
だからアリスさまはきっと寂しいのだろう、と私はずっと思っていた。
何年も、もしかしたら何十年も何百年も、ひとりきりであんな森の奥で暮らして、誰とも話をすることができず、寂しくないはずがない。だから私を動物に変えて逃げられないようにして、いっときの話し相手としてそばに置いているのだと思っていたのだ。だが、それなのに彼女は私を王子に戻して王宮に返した。
私のことなど用済みとなったのか、それとも———なんなのだろう。少なくともアリスさまに嫌われてはいないと思っていたのだが、それは自分の一方的な思い上がりだったのだろうか。
だからアリスさまは私を助けにきてくれないのか、と思う。
私は黒い木々の間から暗く口を開けるような天を見上げる。そこは果てしなく続くただの闇だ。




