かえる王子とわるい魔女(2/3)
ぽっかりとした丸い月の浮いたカップを覗きながら、小さな蝶ネクタイを整える。首をひねって顔の角度を変えてみるが、何処からどう見てもかえるだった。
ふう、と思わずため息をつく。
ぴょんと窓枠まで飛び上がり、透明な窓にぺたりと手をついた。大きな窓の外には、私の体の大きさくらいあるのでは無いかと思うほど、大きな白雪が舞っている。ふわふわとした綿のような雪は暖かそうにも見えるが、実際は凍える寒さだろう。一年前の事を思い出して、私はぶるると体を震わせた。
アリスさまに初めて会ったのは、ちょうど一年前の今日である。
雪兎を狩ろうと一人で森に入った私は、あまりの豪雪にあっさり遭難していた。何故、王子が一人でとは聞かないで欲しい。夢中だった隣国の姫に雪兎の毛皮をプレゼントしようと、供が止めるのも聞かずに飛び出した——あぁ、聞かないでくれと言いながら自ら喋ってしまった。お喋りはアリスさまに嫌われてしまう。
視界を埋める雪に翻弄されつつ、何とかたどり着いたのがこの屋敷だった。
中から出てきた女主人を見て、私は一目で恋に落ちた。それは、隣国の姫が単なる町娘に見えてしまうほどに、美しい、美しすぎる女性だったのだ。アリスさまは、凍えていた私に温かいスープと一夜の宿を与えてくれた。だが、私は彼女の正体を知っていた。森の奥には美しい魔女が住んでいると噂になっていたのだ。人を食らうとさえ噂され恐れられていた、美しい、不老不死の魔女。
しかし、私にとって魔女だろうが何だろうが、障害でも何でもなかったのだ。何せ私の祖先は、白鳥さえ嫁にするような王である。王子が不老不死の魔女に恋に落ちて何が悪い。
夜が明けるのを待って、私は彼女に迫った。
これまでの経験で身につけた美辞麗句と口説き文句を駆使して、迫って迫って迫りまくった。その結果がこれである。
彼女は私の愛の言葉に頷く代わりに、ステッキを一閃させて私の体を子豚に変えた。天地がひっくり返ったような驚きと、いつ食べられるかと戦々恐々とする日々は、きっと説明なんかしなくてもお分かりいただけるはずである。それ以来、彼女の機嫌の如何によって、色々な動物に変えられつづけて今に至る。どうせなら立派なたてがみをもつ白馬や、世界一美しいとされる彩鳥などにしてもらいたいのだが、アリスさまはどうにもアルマジロやウミガメの方がお得意らしいのだ。
と言うか、それこそ彼女の乙女心の為せる業だと私は思っている。
「乙女心? 気味の悪い事を言わないでもらえるかしら」
いつからいらっしゃったのだろうか。足音も立てずにやってきたアリスさまは、やはり今日もお美しかった。出来れば抱きしめたい所だが、どう頑張っても私の両腕は、彼女の人差し指くらいしか抱きしめられない。
「近寄ったら叩き潰すわよ。気持ち悪い」
自らかえるにしておきながら、その言い草。
私は傷ついた表情をしたのだが、彼女には伝わらなかったらしい。ふう、とため息をついてから、私はぴょんと机に飛び移る。そしてその上に置いていた白いハンカチを引っ張り落とす。私は自信満々にそれを示して見せた。
中から現れた赤い花に、アリスさまが青い瞳を瞬かせる。
「何これ」
彼女へのプレゼントである。彼女の家に来てちょうど一年。この国では恋人同士は付き合って一年目の記念日を祝うのが普通なのだ。
彼女は指を伸ばしてきた。無造作に花を摘もうとしたので、私は大声を出して慌てて止めた。
「何よ、うるさいわね」
机の上に咲いている花は一見すると薔薇のようである。が、幾重にも重なった真紅の花弁は、実のところ糊でくっつけただけのものだった。乱暴に扱うと、はらはらと花びらが散ってしまう。
そう大声で訴えると、彼女は瞳を丸くしてまじまじと花を覗きこんだ。硝子のような青い瞳に、真っ赤な薔薇と自分の姿が写っているのが見えて、私は非常に満足した。
苦労して、本当に苦労をして作ったかいがあると言うものである。
雪が降る寒い外に飛び出て、地面に散って凍り付いている赤椿の花弁を持って帰ってくる。人間だった頃ならば、いや、砂ねずみだった頃ならば楽な作業だったのだろうが、今の自分はカエルである。屋敷の中は暖かいから忘れていたが、冬は冬眠せねばならないのだった。凍える体と猛烈な眠気と戦いながら一枚一枚の花弁を集めてきて、一枚一枚を糊でくっつけてなんとか薔薇を作ったのである。糊はなんども体について、床や壁にくっつき魚拓ならぬカエル拓になりそうになったが、その甲斐のある素晴らしい出来である。美しい彼女に似つかわしい、美しい冬の薔薇。
おもむろに細い指が伸びてきて、私の両腕を掴んだ。ぶらぶらとぶら下げられ、ぎゃー、と叫ぶ。白い腹を晒した間抜けな姿で、アリスさまの視線の高さまで持ち上げられた。
お、お気に召しませんでしたか、アリスさま。
「仮にも王子様が、こんな所で何をやっているのかしらね。フローをカエルにしてる悪い魔女のために、こんなものを作って何か楽しいの?」
ひどい言い草ではあるが、それこそ惚れた弱みと言うやつである。
「あぁ、わたしの機嫌を取って、早くもとの姿に戻してもらおうってことね」
私の言葉の何処をどう聞けばそうなるのか。全く素直でないアリスさまである。にっこりとした笑みはいつも通りの悪女であったが、何処か寂しげな色が見えた気がして、私は慌てて言葉を付け加えた。いつも強気な彼女のそんな瞳を見るのは初めてである。何か、気に入らないことでもあったのだろうか。
そうそう、アリスさまにはもう一つプレゼントが。
「何よ」
それは、もちろん王子様からのキスですよ。
「潰されたいのかしら。カエルに口付けされるくらいなら、死んだ方がマシ」
それならば大人しく王子様に戻してくれないだろうか。人間に戻れれば、きっとアリスさまも気に入ってくださる男ぶりであるのに。そう言うとアリスさまは眉間に皺を寄せた。でも、そんな表情もお美しい。
「そんなに人間に戻りたいのなら、素直にそう言ったらどうかしら? 王宮には素敵なお姫様が待っているんでしょう」
彼女は心の篭らない声でそう言うと、ステッキを私に向けた。氷のように青い瞳が冷たく私を見つめる。と、同時に彼女の指につままれていた両足が離された。きゃーと叫び声を上げて為すすべもなく落ちていたが、気付けば家が随分と小さくなっていた。両手を見下ろすと、ちゃんと「人間の手」がついている。
「おぉ」
一年ぶりに出す人間の声である。腕から胸、足を見下ろして、紛れもなくそれが自分の体である事を確信した。もちろん服も着ている。ここに紛れ込んできたときの格好、そのままである。その時、バタンと戸が閉まる音がして、私は慌てて顔を上げた。
既にアリスさまの姿はそこになかった。