【002】
「いつか」なんて、永遠に来ないのと同じだ。
「いつの間に」なんて、存在しないことと同じだ。
私を母親に似ていると言ったのは、中学の副担の先生だった。だがそれ以外の人たちは、私を父親似だという。
まさしく同族嫌悪みたいな?
(いやいや、相性、最っ悪でしょ?!)
有難いことに覚えていないが、私が子供の頃は何かやらかしては殴られたんだか蹴られたんだかしたらしい。母親に庇われたらしいが、「頭はやめて!」と。
(えー、ソコですか、お か あ さ ま)
小学校の高学年の頃、叔母に子供が生まれ、私の父は大層可愛がっていた。それはあなたの孫ですか?ってくらいの可愛がりようだった。
中学になって逆らっちゃいかん、と学習した私は食事時以外は自室からは出なかった。チャンネル争いなんてして叩かれたくないしね。
高校は週末ごとにバイトに行って家にいる時間すら減らした。一緒にいたら、頭にくるから。でも、争いたくない。争うなら負けたくないけど、多分まだ力負けするよね?と思うから、接触を避けた。
ずっと、私と父はそんな距離だった。
いつか 『おとな』になれば こいつを 見下ろせるのか?
だけど 『いつか』なんて来ない。
だけど そうと知る日は、突然に来る。
「は? 何、どういうこと?」
「原因が解らないのよ。詳しく調べるためにM市の大学病院に検査入院するんだけど…」
この10年以上を合計しても10分と話していない父が不調を訴えているらしく、母から電話があった。しかも内容があまりにも要を得ない。曰く、年末から咳がひどく、胸部も痛むらしい。まずは最寄りである隣の市にある日赤病院で検査を行ったが、原因不明。さらに私が住んでいる市のPET検査ができる病院で調べても不明。
何度も経過を聞かされているが、ずっと理解できない説明をされるたが、症状を訴え始めて2か月も過ぎたころ、大学病院で検査した結果、この辺りでは前例があまりに少なく、原因として思いつかなかった、みたいな説明があった。
(地域性がある病気?なんかの熱病じゃあるまいし、何なの?)
「あと、半年ももたないかもしれないって…」
「なに…」
「中皮腫って、アスベストが原因だって言われてるんだけど、そんなの何時…」
20年も前に担当していた部署でもしかしたら、という心当たりがあるらしいが、余命宣告を受けるまでどうにもならなかったのかと、名前を付けられない感情に言葉も出てこない。実際、潜伏期間にも10年単位で個人差があるらしく、判った時にはだいたい手遅れらしい。
春になって姪の入学祝に私も実家に行き食事会に加わった。父も入院先から外泊してきていたが、寿司をひとつしか食べれなくなっていた。瘦せ方も酷かったが体は頑丈だったこともあり、まだしっかりしているように見えた。
症状は確実に悪くなっていく。
自分の子供のころは、封建的で怒ってばかりで怖った人が弱って、正に死にかかっているわけで…。
人間の正しさというか、苦しいだけなら楽にしてやりたいと思うのは正しいことだろう。ただ、苦しんでいる父親が楽になるには死ぬしかないのだから、看ているこちらは矛盾に苦しめられる。
死んでほしいわけじゃないのに、楽にしてやれる方法が無い。
泣くのはどうしようもないからだ。
でも、ホントにどうしようもないのか?どうにかならなかったのか?と、誰かを悪者に仕立て上げなくては、遣り切れない気分を持て余す。
私の誕生日、これが最後の外出になると、無理をして実家に帰ってきた。着いても、結局は車を降りることも叶わず、高くもない普通の家のお茶を一口だけ含み、「(後を)頼む」と。
泣いてたまるかと、口をつぐんでいたけど…
それでも、私が付き合っている人に会いたいと言う。
…親として。
「(娘を)お願いします」
あの人が泣いているのを見たのは2度目だった。
1週間後、父は逝った。
半年後、実家の、かつて父が自分の趣味に使っていた部屋でノートを見つけた。
『胸が痛い』
2月のある日に走り書きがあった、そんなこと少しも言わなかったのに。
あの人を嫌っていた。
口を利かなかった。
意地があって困っても頼らなかった…諦めていた。
愛されたかったと思ったことはなかったけど、顧みられた覚えがなかったことを納得できない気持ちはあった。いい年して、と時間をかければ距離が縮まるかも、とは思った。
あの人を解ることはことは 出来なくなった。