無限ババア
浦部ユキ江、御年75。
名前の通り、日本人──いや、元日本人というべきか。
今シーズンのSAリーグ優勝──というかここ数シーズンのSAランクの1位を独占しているチーム、ラブジャのエースだ。
彼女は5年前この世界に移住すると、当時地域リーグに属していたラブジャに加入。そしてその豊富な霊力と戦闘センスで僅か2年半でチームをSAリーグまで押し上げた。そしてそれから1年後にはSAリーグのトップに立ち、以降絶対王者として君臨している。
突如異世界アキツに現れたオールドルーキー、それが彼女──というわけではない。彼女は復帰者だ。
詳しい話は知らないが、彼女は昔まだ10代から20代くらいの頃にこの世界で精霊使いをやっていたらしい。それから結婚を機に一度この世界を離れたが、5年前にふらっとこの世界へ復帰し今度はそのまま定住してしまった。雑誌かなんかのインタビューでは旦那が亡くなったから向こうの世界には未練が無くなったとか言ってた気がするが。
ちなみに彼女のファンの間での通称は「無限ババア」または「無敵ババア」。当人の公認である。なんでも別チームのファンが侮蔑するつもりで言ったその言葉を当人が気に入ったとかなんとか。
そんな相手がこちらに向かって歩いてくる。その存在感というか、存在が持つ威圧感というか、そんなものを感じ、俺は思わず椅子から立ち上がっていた。
太ももの上でタマモが丸まっているのを忘れて。
突然立ち上がった俺にタマモは当然落ちそうになり、すぐ側にあったベルトに。
あっ、ダメ、ベルトはダメ、さすがにズボンがずり落ちたりしないだろうけど俺割と緩めに締めているから不安になるからやめて!
慌ててベルトに捕まっているタマモを抱え上げ胸元に抱きなおすと、タマモが胸をぺちぺち叩いてきた。いかん、怒っておられる。よーしよーし。
「──話しかけていいかい?」
あ。
声に顔を上げると、浦部さんはすでにすぐ側にやって来て、俺の事を見下ろしていた。
彼女は俺と視線が合うとニカッと笑みを浮かべて言った。
「浦部ユキ江だ。貴方がエルネストのユージンってことでいいかね?」
「はっ、はい、そうです!」
あやべ、声が上ずった。
「はは、緊張してるのかい? 同じ精霊使いだ、楽にしてくれていいさね」
そう言って彼女は、右手を差し出してくる。
一瞬の間の後、それが握手を求めているのだと気づいて俺も手を差し出すと、彼女は俺の手を優しく握って来た。
「フフ、孫娘の小さいころを思い出すねぇ。っと、これはちょいと失礼だったかい?」
「いや、大丈夫です」
実際俺の手小さいからな、彼女位の年齢ならそういう感想を持ってもおかしくないだろう。それに俺は成長が遅くてこうなったのではなく強制変換を喰らってこの姿なので、特にサイズに対してコンプレックスは持っていない。
「そう言ってもらえると助かるねぇ」
彼女は握っていた手を離すと、先程の秋葉ちゃんと同じように俺の全身を眺め見る。
「しかし元の姿の方は映像でみたけど、同一人物には見えないねぇ。肌の色も違うし、一緒なのは髪と瞳の色くらいかい?」
「そうですね。最初の頃は鏡を見ても自分の姿とはとても思えませんでしたよ」
「相変わらず物理崩壊は出鱈目さね。まぁでも人の姿であっただけ良しとすべきだろうね」
「というと?」
「アタシは何人か物理崩壊を見たけどね、完全な人の姿を維持できているのは皆無だったよ」
「あ……」
そうか、彼女が以前この世界にいたのは確か50年前前後、大浸攻と被っている。彼女はその当時も精霊使いだったはずなので、その戦いに参加して体が変質した精霊使い達を見て来てるんだ。
そしてその姿を思い出してしまったのだろう、先程まではニカッと笑っていた彼女の顔に影が落ちる。が、それも一瞬だった。すぐに元の笑顔に戻ると彼女は俺に手を伸ばし、ぽんぽんと頭に手を乗せて撫でてきた。
「ま、とにかく無茶は2度としない方がいいさね。幸運が二度続く可能性は低いからねぇ」
「……そうですね。肝に銘じます」
確かに別人と呼べる姿に変貌し性別まで変わったとは言えあくまで人の姿で収まり、多少の変化があるとはいえこれまでと変わらない日常生活を送れている俺は冷静に考えればとても幸運だといえるだろう。
あの時は物理崩壊の事をあまり認識していなかったし、ああしなければミズホ達が不味かったんだからあの時の行動を後悔する気はない。が、もしあの時と同じような事をすれば今度は全てを失う可能性が高い、それは頭に入れておかないといけない事だな。
浦部さんは俺に忠告したかったのか、それとも過去の戦友と同じ事象にあった存在を見ておきたかったのか、そのあとはもう少しだけ俺達と言葉を交わし去って行った。
更にその少し後、秋葉ちゃん達もそろそろ戻らないととチームメイトの元に戻っていく。
当然俺達も安全地帯にずっといるわけにもいかず(というか一人で応対していたナナオさんが若干こめかみをひきつらせつつ俺達を引っ張り出しに来た)結果メディアやリーグ戦関係者に取っつかまったり軽く食事をとったりしているうちに、気が付けばそれなりに時間が経っていた。
そして時間が経っていけば当然来るものがあるわけで。
「うっ」
リーグ戦のスポンサーに捕まったミズホを見捨てることでようやく一息ついていた俺は、下腹部にとある感覚を覚え手に持っていたグラスをテーブルに置いた。
「ユージンさんどうしたっスか?」
「トイレ行きたい……」
この姿になってから何かトイレ近くなったよな。元々俺水分大分取るタイプだから猶更。
そんな俺に対してレオが呆れ顔で言う。
「いや、行けばいいじゃないっスか」
「途中で抜け出して大丈夫なもん?」
「いやトイレいっちゃダメってことは無いでしょ。それにさっきから外に出て行ったりしてる精霊使いもいるっスよ」
「じゃあ大丈夫か」
「っス」
「そしたらちょっと行って来るわ」
「あ、俺もいくっス」
レオのその言葉に、歩き出そうとした俺の足がピタッと止まる。
そしてジト目を向けていってやった。
「一応言っておくけど俺は女性用トイレに入るからな?」
「いや連れションしたい訳じゃないっスよ。なんか話聞いたら俺も行きたくなっちゃったただけで」
「さよか。まぁ好きにせい」
とりあえずまた別の誰かに捕まると面倒なので、俺はそそくさとホールを出る。出る時に入り口の所にいたスタッフが特に何もいってこなかったので確かに問題なさそうだ。そりゃそうか。
一応ミズホかナナオさんに断っていこうと思ったが、二人ともまだ捕まったままだったのでやめた。まぁすぐ戻ってくるしな。
トイレの位置は事前にちゃんと確認してあるので、ホールを出た俺はレオと一緒に人気のない通路を進んでゆく。
その途中でちょっと気になっていたことがあったのでついでとばかりにレオに聞いてみた。
「おいレオ」
「なんすか?」
「さっき秋葉ちゃん達が来た時妙におとなしかったけど、どうしたんだ?」
「あー……」
俺の問いに、レオは困った顔で頭をぽりぽりと掻きながら答える。
「その、あの二人元推しなんですよね」
「はい?」
「ほら、あの二人いつも仲良さそうだから、その」
「お前そういった目で見てたのかよ!」
「大丈夫っス! 今はユージンさん達単推しっスから!」
別に嫉妬してるわけじゃねぇよ! そういう関係じゃない(ないよな?)知り合いの若い女の子を同僚がそういった目で見てたら反応で困るだろ! あでも俺が犠牲になることで秋葉ちゃん達にそういう視線が向かなくなったんだからいいことなのか!?
「あ、ユージンさんトイレ過ぎたっスよ!」
「ごまかすな」
「いや真面目に通り過ぎたっス!」
「俺が人気の少ないトイレ使ってるの知ってるだろ。この先にもう一個トイレあるんだよ」
「あ、それまだ続けてたっスか」
「やめる気はねえよ」
切羽詰まってる時やそもそもトイレがない時は諦めるけど、これに関してはずっと続けるつもりだった。自分が落ち着かないというのもあるが、それ以前に元とはいえ男が自分の隣の個室で用を足していたなんてしったら嫌な気分になる人もいるだろうし。
「というか、お前はそこのトイレで済ましていいんだぞ」
「過ぎちゃったし、俺もその先の方に行くっスよ」
……さっきも言ったけど連れションする気はないからな?
結局レオは施設の端っこにあるトイレにまで着いてきたので、「待ってなくていいからな」といってそこで別れて俺は女子トイレの方に入った。
幸いというか予想通りというか他に利用者はいなかったので、俺はタマモを洗面台の上に降ろすと安心して一番奥の個室へと滑り込む。
男子トイレの方へ入っていったレオの姿に男の時は楽でよかったよなーと思いつつ、ベルトを緩めてズボンとショーツを膝上まで降ろし便座に腰を降ろそうとしたまさにそのときだった。
急に視界が闇に包まれたのだ。




