緊急避難
女と目が合った瞬間、俺は後ろ手にめくれ上がったスカートを抑えつけた。
いや、そうじゃない。そんなことはどうでもいい。相手は女だし、振り向いた結果背中を向けたので隠さなくても見えないし、そもそも今はそんな事を気にしている状況じゃない。
俺はそんな俺の姿を見て、女はケラケラと笑う。
「可愛い反応ね。もう完全に中身も女の子になってるのかしらね? ユージンちゃん」
その言葉を聞いた瞬間、俺は後ろ手に回した右手を左手で握りしめた。
こちらの世界で、俺をユージンと呼ぶ人間はいない。ユージンという名を知る人間はこちら側出身の精霊使いと、後は尾瀬さんのように何らかの理由でこちらへやってきている極わずかのアキツ人だけ。その中の少なくとも俺と直接面識がある人間は、俺の事をこちらでユージンとは呼ばない。村雨か有人呼びだ。
そして日本側の知り合いは誰一人として俺のユージンという呼び名を知る人間は──あいや、オンラインゲームとかで使ってたから顔見知り以外ではいるかもしれないけど。でも今の姿と結び付けられる奴はいないハズだし、何よりこちらの人間は俺の事を元から女だったと認識しているハズだ。
だから彼女はアキツ側の人間のハズで、だが俺は彼女の姿にまるで見覚えがない。
更には、玄関の鍵は掛けてあったはずし、俺の住む部屋はセキュリティがしっかりしている。そう簡単に入り込めるはずがないのだ。
なのに女は、そこにいた。声を掛けられるまで、俺に気配すら感じさせずに。
背筋に寒いものが走る。やはり、こいつは──
「……誰だ、あんたは」
口から出る声が、少し震えた。それを聞いて、女はまたケラケラ笑う。
「おやおや怯えちゃって、本当に可愛いわ。それは人気も出るわよね」
女がこちらに一歩を足を進める。
女はさすがに俺よりは大きい物の、女性としては平均的な身長で肉付きも筋肉質というわけでもない。目に付く範囲には武器のようなものも見当たらない。
なのに、頭の中の警報音が止まらない。女は薄い笑みを浮かべたままこちらへ一歩一歩ゆっくり足を進めてくる。
そうして女がこちらの方に手を伸ばそうとしている事に気づいた瞬間、俺は握りしめた左手の中、指輪の感触を感じながら叫んだ。
「コネクト、シフト!」
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「うわっ」
体を包んだのは一瞬の浮遊感。そして次に襲ってきたのは落下する感覚だった。
落ちたのは、多分ほんの50cm程度。だがほんのわずかとはいえ空中に投げ出されるとは思っていなかった上、あの女が近づいてきたときに反射的にのけぞってしまっていた俺は当然綺麗に着地することなど不可能だった。足をついた瞬間俺は後方にバランスを崩し、結果派手に尻もちを搗くことになった。
「あいっ……たぁ」
落下からの転倒だったため思いっきり勢いがついていた上、下がフローリングだったため打ち付けたお尻がめっちゃ痛い。
「ううっ……」
あまりの痛みに思わずちょっとだけ涙が滲む。ここ2年で怪我やらなにやらが結構多い俺だけど、これ骨にダメージ行ってないだろうな。尾てい骨骨折とか勘弁してくれ。
痛みが響いて動ける気がしない。それでもなんとか周囲を見回すと、女の姿がなかったのでほっとする。無事逃げおおせたらしい。
「はぁ。指輪ちゃんと付けててよかった……」
俺は右手の人差し指にはめた指輪に視線を落とす。
この指輪は、以前俺が誘拐された後にセラス局長に護身の為に渡された指輪だ。グラナーダの一件が片付いたときに一度返却しようとしたんだけど、そのままもうしばらく身に着けていて欲しいと言われているので、外出するときは身に着けるようにしていた。
ただ、あくまで身に着けているのは外出している時だったんだ、先週までは。
先週末の事、この指輪の事でセラス局長より連絡があった。
その内容は、
『近日中に恐らく事態が動きます。その際貴方が狙われる可能性もあります。なので指輪を常に身に着けて、何かあったら即座に使用してください』
というものだった。一度俺は攫われているから明らかに存在を認識されているし、そもそも俺は対論理崩壊に関しては有力な駒なので、相手のターゲットになる可能性があるのはわかる。
『本来ならずっと私の側にいて頂きたい所なんですが』
それまでは強くそういう事を言われる事はなかったので、恐らく動き出す気配をその時点である程度の事は掴んでいたのだろう。ただ一両日に事が起こるとかならともかく、"近日中"のレベルではそういう訳にもいかない。それにもし俺がターゲットなんだとしたら俺がそこにいる間は相手が動かず、結果緊張状態が続いてしまう可能性がある。その先に待っているのは疲弊だ。
来るのが確定しているなら、とっとと起きて貰った方がいい。いや起きないのが一番いいんだけど!
ということで、俺はこれまで通りに暮らす事になった。ただし、預けられた指輪は常に身に着けておくことを約束して。そして俺はその約束に従い、風呂に入っている時以外は常に指輪を付けていたわけだ(風呂の時もビニールに入れて側に置いておいた)。
結果、それが大正解だったわけである。
ここは恐らく解析局の施設の一角かな? 一面何もおいてない無機質な部屋で、窓もなく扉が一つあるだけ。その向こうに人の気配は感じないが……セラス局長はこの指輪を使用した場合は感知できるといっていたので、局長なり職員さんが駆けつけてくれるだろう、多分。
それまではここを動かない方がいいのかな? その辺もちゃんと確認しておけばよかったな。
……ふう、お尻の痛みひいてきたかな。あざとかになってないといいなぁ、まぁ人に見せるような場所じゃないけどさ。
お尻をさすりつつ、俺はゆっくりと立ち上がる。下がフローリングだから座ってると冷たいんだよね。
それにしても、あの女はなんだったんだろうか。鍵のかかっている部屋へ中にいる俺に気づかれず不法侵入。間違いなくまともな奴ではない。
単純に考えれば今回の一件の黒幕、もしくはその部下か。こんなだいそれた事をやらかしている黒幕がわざわざ俺の所まで出張ってくるとは思えないから、部下の線が濃厚かな。
ただ、結局逃げて終わっちゃたのは少し痛いな。この指輪一応迎撃能力があるハズだし、俺は体格は小柄だけど力は男の時のままだから、抑え込むことはできたかもしれない。尤も向こう側じゃあその後どうにもならなくなっただろうし、あっちがどんな力を持っているかわからない以上逃げの一択しかなかったわけだけど。
今回の動きが大きな動きと連動しての動きだったら単純に向こう側の目的を一個潰せたことになるんだけど、例えば俺の誘拐を一連の動きをトリガーにしていた場合今回の向こうの動きが不発になるだけで、今後また同じ動きが起きる可能性がある。
……それは勘弁して欲しい。というか一度事が起きた以上、しばらくは日本側には返してもらえないかも。黒幕が日本側にちょっかい出せるのが確定しちゃったわけだしなぁ。
その辺も含めて相談か。お迎えまだかしら──
「いや参ったな、こっちの手を潰す手段を用意していたとは。おかげで追跡に手間取ったわ」
……は?
再び背後から聞こえた声。つい先ほど聞いたばかりのような聞き覚えのある声に、俺の動きは一瞬固まり、そして──
次の瞬間、俺は背後を振り返ってその姿を確認する事もなく、扉に向かって駆けだした。
この展開は聞いてないよ、セラス局長!
おかげさまでついに4桁ブクマ(&総合評価4000)を達成できました!
本当にありがとうございます!




