エロマンガみたいにはなりたくない
そこから先の展開は、正直奇跡に近い流れだったと思う。
まず体を翻し、月を確認するために上を見上げなければそもそもそれの方向を見ていなかった。
そして、月の光の僅かな反射が無ければそれに気づかなかった。
そう、それは音の方から来たものではなかった。頭上から飛んできたのだ。いや、降って来たというのが正しいか。
そして最後の奇跡が訪れる。
その光に気づいた瞬間、俺の足は即座に立ち止まり後方へ飛び退っていた。その結果背中を木にぶつけることになったが──上から落ちてきた何かは、立ち止まらなければ俺が居たであろう場所を通過して地面へと叩きつけられた。飛沫のようなものをまき散らしながら。
その飛沫のいくらかが、俺の体に降り注ぐ。
ちくっと痛みが走った。
その痛みに反射的に自分の体を見下ろし──そして目を疑った。
服が、ボロボロになっている?
恐らく飛沫を被ったところだろう、先程迄俺の体を唯一守ってくれていた白いダブダブのTシャツは、この一瞬の間にそこら中が虫に食われたようにボロボロになってしまっていた。
服が、溶かされた?
視線を前に向ければ、地面の上で何かぶよぶよしたものが蠢いていた。これが今落ちてきただろう奴だろう。暗いから少しわかりづらいが、アメーバのような存在に見えた。
一応まだ隠すべきところは隠せて入るが──服を溶かすって、エロマンガに出てくるスライムかよ。
そんな言葉が頭に浮かび、自分で驚く。
恐怖心がオーバーフローしたのだろうか。それともこれまでの形のない恐怖ではなく、目に見える脅威が現れたことで何かしらの心のスイッチが切り替わったのだろうか。或いは奇跡のような回避が出来たことが理由だろうか。少し、落ち着きができていた。
よくわからない。恐怖が消えたわけではない。だが、ほんの少しだけ心に余裕ができて、冷静に物事が見れるようになった。
「……っ」
そこで、体のあちこちが痛むことに気が付く。
激痛というほどでない、ヒリヒリした痛み。見れば体のそこかしこが赤くなっていた。
──先程の飛沫だ。
よく考えれば、一瞬でシャツをボロボロにしてしまうようなものだ。そんなものが肌に触れて平気である訳がない。ただ、耐えられない痛みではなかった。軽い火傷をしたような感じだ。
……頭からかぶっていたら不味かったかもな。
先程咄嗟に躱した自分を称賛したい。が、その前にいつまでもこの場に立ち尽くしているわけにはいかない。アメーバだかスライムだかよくわからない生き物は、まだ獲物をあきらめてはいないらしくじりじりとこちらへ向けてにじり寄って来ていた。
だが、その動きは酷く緩慢だ。なので俺はそいつから大きく迂回するようにして移動し、距離を取る。
とりあえずの危機は脱したらしい──なんて思ってしまった。
激しい恐怖の中、突然の出来事に逆に冷静になれたと思った。状況が見えていると。
だが見えているのは、目に見えていた範囲だけだった。
アメーバが振って来たのは頭上から。音のしていた方向からではない。
それに気づいたのは、背後で何かが折れる音がした瞬間だった。
俺はそちらを振り向こうとして……振り向けなかった。
気が付けば、足に、腕に、そして首にも何かが絡みついていた。
蔦? それは緑色の太い蔦のようなもの。それが俺の四肢に絡みついている。いや、四肢だけじゃない。腹部や胸元にまで絡みついてくる。
咄嗟に腕を振るってそれを払おうとした……が、ピクリとも動かない。ただの蔦に見えるのに、力強くつかまれているようだ。
そして絡みついた蔦は、蛇が獲物を締め落とすようにギリギリと腕や足を締め付けてくる。
痛い痛い痛い!
先程のアメーバの飛沫程度のものではない本格的な痛み。更には蔦が顔にまで絡みついてきて視界が塞がれる。それによって、少しだけましになっていた恐怖が再びぶり返す。
ついには口や鼻迄蔦が絡みついてきた。呼吸ができない。苦しい。
気が付けば闇の中にいて、ひたすら歩きまわった後アメーバーに襲われて。それをなんとかうまく回避できたと思えば蔦だか触手だかに襲われる。
あまりにひどすぎる。俺はここまでの目に会うようなことをしてきただろうか。
再び涙が出てきた。それと同時に意識が遠のいてきた気がした。
まずい。この蔦が何をしようとしているのかはわからないが、このまま倒れたら間違いなく無事ではすまない。それにあのアメーバだってまだ近くにいる。
必死になって体を動かそうとする。だが全身を覆う蔦はピクリとも動かない。
助けてという叫びすら上げる事もできない。もう何も──
「女神!」
え?
突然、声と共に蔦が締め付ける力が消えた。
必死に体を動かそうとしていた俺の力が急に解き放たれ、俺はそのまま勢いをつけて地面に倒れこむ。
その衝撃で、顔に絡みついている蔦も緩んだ。俺は慌てて顔を覆っていた蔦を剥ぎ取り、新鮮な酸素を取り入れる。
「ごほっ、ごほっ」
勢いよく行こうとしたせいか咽てしまい、咳き込む。するとそこに、
「大丈夫ですか、女神よ?」
声が掛けられた。
──そう、人の声だ。今の俺が尤も求めていたモノ。
そちらに視線を向けると、そこには鎧を纏った一人の角を持つ黒髪の女性が立っていた。
見知った顔だ。
彼女は俺が無事なのを確認すると、一度ため息を吐いてからこちらに背を向けた。
「しばしお待ちを。こいつを片付けます」
彼女は、奇妙なものと対峙していた。全身が蔦で包まれた、人型の何か。
そいつは蔦を放つ。目標は……彼女と俺の双方だ。だが彼女は手に持った剣を振るいその蔦を叩き落す。
更に彼女は間髪入れず突っ込むと一度上段からそいつを叩き切り、そして立て続けに反対側の手を掌底のように相手に叩き込んだ。
ただそれだけ。ただそれだけでそいつは千々に乱れ飛んだ。
俺はただその光景をぼうっと見ていた。滲んだ視界で。
「お待たせしました。もう大丈夫ですよ」
彼女が振り返る。うん、間違いない。滲んでいてもわかる。
現れた女性はルーティさんだった。2か月程前、アキツにやって来た異世界グラナーダの英雄。
即ち──ここは、アキツで間違いない。
ここが見知らぬ世界ではなかったこと、暗闇の中でずっと求めていた人の声、そして危険が去った事。
それらすべてが安堵として俺の心に押し寄せた瞬間──俺は声を上げて泣きだしていた。




