9.豚のエサ・インシデント
都市国家マノーは周辺を列強国に囲まれながらも精強な軍隊による鉄壁の守りと人材派遣や貿易を中心とした外交政策により安定した治世を実現している。
女王であるアブリィ・イクリプスはこの地の豪族でもなければどこかの王の血脈でもない。単なる一介の魔法使いだった女性だ。ひとえに魔法使いとしての高い実力、それによる幾度かの戦功によって彼女はこの国家をまとめる一廉の人物となったのである。
マノーにジェイドがやってきたのは食文化が発達したこの地で料理修行をする為だった。まずは料理人ギルドへ登録して地道に活動するつもりだったのだが、偶然にも街路を歩いているところをアブリィに見初められ(ジェイドの美貌は目立ち過ぎていた)、城へと招かれた。
アブリィは単にジェイドを城で囲って愛玩するつもりだったのだが、彼の料理人としての腕前を見るにつけ、いたく感心し、城内のシェフの一人として雇用することを決めたのだった。
ちなみにジェイドがガルガルの森を訪れていたのは、ヒスイら同様、ユニコーンの角が目当てであった。森に棲む生き物と心を通わせる能力を持つミームゥが同行していれば、ユニコーンから安全に角を獲得できる。もっとも、荒事になったとしてもジェイドとミームゥのコンビであれば何ら問題はない。
ユニコーンの角には毒素を浄化する作用がある。その為古来より、上層階級の者の食事の前に、食べ物に毒が入れられていないかを確かめ、それを浄化する用途に重宝されてきた。
ジェイドはアブリィの食事を用意することもあるが、毒見役をしているわけではない。アブリィに毒見は必要ない。彼女の持つ人ならざるレベルの魔力はいかなる毒素とてたちどころに治癒させてしまう。ちなみにジェイド自身も毒に対する耐性は高い。水魔法と闇魔法は体内に侵入した毒素を簡単に分解、排出させ得る。
むしろ彼は、王国兵団に振る舞われている食事の中に含まれる毒素を調べるために角を獲得したのだ。
今、城内ではある深刻な問題が持ち上がってきていた。だがその問題にほとんど誰も気がついていない。
廊下を厨房へと進むジェイド。向こうからでっぷりと肥え太った二人の兵士が歩いてきた。
「ぷっはー! 今日も食った食った! こんなに旨い食事が毎日たらふく食べられるなら、俺はもうマシマシ教に改宗しようかな」
「あぁ、俺も同じ事を考えてたぜ! ヤサイマシマシ・アブラマシ・カラメ・ニンニクチョモランマ!!」
兵士の口から忌まわしきマシマシ教の呪文が飛び出す。ジェイドは顔をしかめた。廊下には強いニンニク臭が漂っている。
「ひゅう~! おめぇ、そんなこと言うなよ!また腹減ってきちまうだろがよぉ!」
「へへへ、マシマシ教のジロリア神の加護で胃がどんどんデカくなってきている予感がするぜ。新しい料理長のメニューは最高だな! げえぇーっぷ!」
兵士の下品なゲップがすれ違い様、ジェイドを襲った。強烈な悪臭。ジェイドは息を止めて軽く会釈し通過する。
兵士達の歩き方が悪い。胴当てに押し込められているものの、装備を外せばだらしない腹が姿を見せるに違いない。
「参ったな……」
ジェイドは頭を抱えた。
厨房へ顔を出すと、豚骨特有の鼻を突き刺す臭みが充満していた。デカい寸胴鍋でグツグツと煮えている豚骨スープ。それをまるで長槍のように巨大なヘラでかき混ぜているのはオーク族の料理人にして城の料理長、ロカボである。彼は全身から汗をダラダラ垂らしながらヘラを操り豚骨を砕きスープを力一杯かき混ぜていた。ちなみに彼の汗は容赦なくスープの中にも落下している。実はこれが隠し味である(!?)。
「こんにちは、ロカボさん」
いつもながら凄絶な調理風景に嫌気が差しつつ、ジェイドは平静を装って挨拶した。
「を゛、その声はジェイド! こ、こ、こんにちはなんだな」
オーク族特有のダミ声。彼らの声帯にとって人語は発声が難しいらしく、普通にコミュニケーションが取れるレベルまで人語を話せるオークは珍しい。たどたどしい喋りに思えるが実は語学堪能なエリートオークなのである。
「精が出ますね。何人前ですかそれ?」
「ひゃ、百人くらいなんだな。別の鍋にも、ス、スープのストックが入ってるんだぁ」
「じゃあ200人前くらいなら提供できるわけですね」
「みんながオデの、ラ、ラー麺を楽しみにしてるんだぁ。たーくさん、腹一杯食べてもらうんだど」
ロカボは寝る間も惜しんでスープの仕込みをし、麺を打ち、具材を準備している。他の料理人が手伝うのは提供時の具材の盛り付けか洗い物くらいだ。それ以外の仕込みはほとんど彼一人で行われていた。味のブレを無くす、クオリティを保つ、その事にロカボは真剣に取り組んでいる。彼は純粋に、自分が作ったラー麺を兵士たちが旨い旨いと言いながら食べてくれることに喜びを感じているのだ。
それだけに、ジェイドは危惧している。兵士たちがどんどん肥満体になっていくことを。ロカボのラー麺は明らかにカロリーオーバーなのだ。
ロカボが沸騰した湯の中から次々と極太の麺をすくい器へ投入してゆく。そしてすかさずドロドロの茶色いスープをぶっかける。器を滑らせ別のシェフのところへ。塊の肉がいくつも載り、野菜が山のように積まれ、トドメにこれでもかと背油がふりかけられる。
無駄のないコンビネーションでどんどんラー麺が完成してゆく。その手並みはさすがとしか言いようがない。同じ料理人としてジェイドはロカボを尊敬してはいる。しかし彼は、栄養バランスのことにはまるで無頓着なのだ。
この世界には貧困が蔓延している。毎日ちゃんとした食事が取れること、それはとても幸運なことだとされている。マノーの兵士たちは過酷な任務につく代わりに、非常に高い賃金と一日三食の食事を保証されていた。
町人誰もが栄養不足で痩せ細っている時勢である。ふくよかな人間はとにかくモテる。それは彼の人物が裕福である証拠だからだ。
兵士たちは毎日しっかり食べているし厳しい訓練を積んでいる為とても頑強な肉体をしていた。故にモテた。そこへ来て食べれば食べるほど太れるしどんどん異性にモテるようになるメニューが登場したとあっては、彼らには食べないと言う選択肢は無かったのである。
街路を行進する度に乱れ飛ぶ黄色い悲鳴。脂肪を積載すればするほど美女たちが群がってくる好循環。兵士たちは他のメニューを食べずにこぞってロカボのラー麺を注文するようになった。
しかも、しかもである。ロカボのラー麺は旨かった。男盛りの兵士たちにとってカロリーの化け物であるこってりとした豚骨ラー麺は最高に旨い食べ物だったのである。空腹の胃にガツンとくる太麺、大量の脂質が攻めてくる特濃スープ、一見健康的に見える山盛りの野菜、好みによって赤身か脂身か選ぶことの出来る巨大なブロックチャーシュー。
「ところでジェイド、今日はい、一体何の用なんだな? もしかしてオデの“豚のエサ”、く、食いに来たのか!?」
豚のエサ、なんというネーミングであろうか。これがロカボのラー麺の名称だ。
「いえ、すみません。僕にはロカボさんのラー麺は少し重すぎました」
試食した時、思わず盛大に顔をしかめてしまったジェイドだった。彼は様々な美食に触れ舌が肥えていた。ひたすら濃いだけの旨味のヘビーブロウには耐えられなかったのだ。
「実は先日置かせていただいた脂解水の評判を確認しに伺ったのです」
「あ゛ー!あのスースーする水かぁ~!? オデはほとんど飲んでないど」
脂解水とは、ジェイドが考案した、ミントといくつかのハーブを細かく砕いたものを混ぜた水のことである。伝統的に二日酔いや食べ過ぎによる消化器官の不調に効果的とされてきた薬草をミックスして、内蔵の働きを助け脂肪の吸収を抑える飲料水としたものだ。
「あとみんなも、あんまり飲んでないどぉ」
やはり、とジェイドは思う。清涼感のある飲み物はジャンキーなラー麺の後味を消してくれるが、こってりとした食べ物に味覚をやられた兵士たちはこの爽やかな脂解水を毛嫌いしていた。こんなもん飲んだら痩せちまう、と面と向かって言われたことすらある。
太ることは富の証。皆がそう考えている。町人ならそれでもいい。だが国家を守る立場の兵士たちがブクブクと太ってしまっては四方に陣取る他国にたちどころに侵略されてしまうだろう。アブリィは強力な魔法使いだが彼女一人ではどうしようもない。
兵の肥満問題を何とかせよ、とジェイドはアブリィから指令を受けた。今の彼はギルドから派遣されたシェフの一人に過ぎない。だが国家を統べる女王直々の指令とあっては無下にも出来ない。
「水だけではダメだ……兵士の意識改革と同時に、あの“豚のエサ”自体も改良しなくては」
ふいに脳裏に過ったのは、懐かしい顔。
(ヒスイなら、こんな時どうするだろう……)
ヒスイの事を忘れようと思っても、ふとした瞬間に思い出してしまう。だが彼女に近付くわけにはいかない。ジェイドは闇、ヒスイは光。交わってはならぬ存在。
(僕は闇だ……あの子には不要な人間だ……)