7.最悪の日
平時であれば澄んだ水が流れ小魚が泳ぐ憩いの場である。しかし、降り続く雨は急峻な山々を猛スピードで下りながら木々を薙ぎ倒し土砂をかき混ぜ、茶色いシャーベットのような濁流となって押し寄せていた。
あくまで自然に形成された川であり人の手が加えられていない為、雨量が多ければ容易に氾濫する。
そのあまりにも絶望的な光景に、ヒスイは立ち竦んだ。泥を含んだ水飛沫が飛び顔にかかるも、頭上から叩きつけてくる雨に紛れて気付かない。
これにそって、下っていくと言うのか。
川幅は普段であれば精々5メートルといったところ。それが今は、巨岩や巨木を大量に含んで暴れまわる優に15メートルはあろうかという大河と化している。もちろん、転落すれば命はない。ここに流れているのは単なる水ではない。土石流だ。一瞬で全身をズタズタにされてしまうだろう。
足下がぬかるんでいて状態が悪い。油断すれば滑落しそうだ。
背後で、虹色の竜巻が消滅した。もう、師匠の姿は見えないところまで走ってきてしまった。エヴァがどうなったのか、ヒスイとジェイドにはわからない。しかし遠方から男達の声が微かに響いてくることからして、追っ手はやがてここまでやってくるだろうと思われた。
「進むしかない、ね」
ジェイドを見る。彼は憔悴した顔で虹の消えた空を眺めていた。雨は彼の長髪をべったりと濡らしている。顔に張り付いた髪をかきあげ、
「うん」
弱々しく頷く。
繋がれた二人の手。ヒスイは今一度、固く握る。この手を決して離さないように。これからは、二人で生きていかなくてはならないのだ。師匠はもういない。ここから逃げ切って、ジェイドと一緒に……。
どちらともなく、歩き出した。ヒスイの右手側に荒れ狂う川。左手側は急斜面。もとより人の歩く道ではない場所だ。単なる森の中。足場は極めて悪いがそれは追っ手にとっても同じ。この豪雨、そして夜闇、更に濁流の轟音も合わさり明かりを持たない相手を追うのは至難の業の筈だ。
後方に火の手が上がる。いや、あれは火球だ。魔法使いが火球を操り周囲を照らしている。人の動く気配がいくつか。
「大丈夫、きっと逃げられる。師匠がそう言ってたでしょ」
未来視が出来るなら師匠はきっと、自分たちの未来を見通していたのだろう。この場で死ぬわけはない。ヒスイはそう強く信じた。直感に従う。
「真っすぐ進めば、必ず光は見えてくる」
自分に言い聞かせるように、ジェイドを勇気づけるように、言った。
山の傾斜に沿って低木や木の根っこが至る所に存在している。水場が近いから苔むしている場所も多い。気を付けなければこの雨の中、簡単に足を滑らせかねない。斜面を滑り落ちた先には、確実な死が待っていることだろう。
しっかりと足場を確かめ、進む。しかしどうにも思うように動けない。傾斜はどんどんキツくなり、登ったり下りたりと繰り返さなければ下流へと進めなくなってきた。そして濁流が山肌を削ってどんどん広がっていく。
川を挟んだ対岸は、樹木も少なく傾斜もなだらかに見えた。あちら側へ渡れれば逃げやすそうだ。しかし不可能だ。風の魔法でも使えれば、それに乗って浮遊することも出来ようが。
ヒスイは火、そしてジェイドは水。火はこの場では全く役に立たない。水の魔法使いでも高位の者ならば荒れ狂う濁流をコントロールして渡ることが出来るが、もちろんジェイドにそこまでのスキルは無い。
つまり二人は自分の足で、進むしかないということだ。
体は既に冷え切っている。長時間風雨に晒されているから当然だ。ふいに、ヒスイがクシャミをした。それは最悪の行為だった。彼女の足下、地面が大量の雨水を含んで柔らかくなっていた。そこへ来てクシャミと共に踏み下ろした右足が地面を滑った。
「えっ」
一瞬の出来事。
ヒスイは、勢いをつけて斜面を滑り落ちてしまったのだ。
「ヒスイ!!」
落ちてゆくヒスイの体を留められるほどにジェイドの腕力は無い。呆気なく繋いでいた手がスルリと抜けた。暗闇の先へ、轟音と共に荒れ狂う濁流へとヒスイが飲み込まれてゆく。
「嫌あぁっ!!」
何の躊躇もなくジェイドは、川へ飛び込んだ。両手に魔力を。この雨、この川、どちらも水。ヒスイは抗えない。しかし、ジェイドなら万に一つ、可能性が残されているかもしれない。
「水よ!!」
長々と呪文は詠唱しない。無言で魔法を使えるようにトレーニングはしてきた。大規模な範囲の水を操ることは無理だ。そこまでの能力は現時点ではジェイドには無かった。
何が出来るか。
何をすべきか。
最も大切なもの。
(僕にとって最も大切なものは一つしかない。ヒスイ、君だよ)
汚泥の大河へ飛沫を上げて落下したヒスイ。ジェイドは着水と同時に両手で水面を強く叩く。青色の魔力が水面で跳ねて水の中から巨大な腕のようなものが屹立した。ジェイドの魔法によって流水の一部が凝結したもの。それが、ヒスイの体を握っていた。
「ダメっ、ジェイド!!」
何が起こっているのかを即座に理解したヒスイは腕の中でもがく。ジェイドは、死ぬ気だ。
腕は大きく振りかぶられてヒスイの体を対岸へ、思い切り放り投げた。
「ジェイド!!!!」
ヒスイは絶叫した。彼女の体は飛ばされて宙を舞った。
ジェイドの姿は、押し寄せてきた倒木と共に濁流の中へと消えた。
次の瞬間、全身に強い衝撃を感じ、ヒスイはそのまま気を失った。彼女は対岸の広葉樹の枝に叩きつけられてそこに絡まったまま、翌朝、目を覚ますことになる。
空は晴れ渡り、小鳥のさえずりが聞こえていた。眼前の川は未だ濁っていたがその流れは穏やかなものだった。全て、終わった。何もかもを押し流して、惨劇は終わりを迎えた。ヒスイは育ての親のエヴァと、大切な友達であり家族でもあったジェイドを一度に失った。
この後、ヒスイは偶然にも山道を通行していた隊商に発見され、彼らの計らいによって近くの町まで連れて行ってもらい、そこで修道院の雑用係として働くことになる。
そして料理と魔法の腕を独学で磨きながら、18歳になった年に冒険者としての生活をスタートさせたのだった。
「だから……私はジェイドは死んでいると思っていたの」
長い昔話を語り終え、ヒスイは向かいに座っているフローラの方を見た。すると……。
「ううぅ……うぐっ……ぐむむっ……ひぐぅ……」
深窓の令嬢は泣いていた。滂沱滂沱と滝のような涙を流しながら、嗚咽していた。ついでに言うと鼻水も出ていた。眼鏡を外し、両手で顔を覆い、さめざめと泣いた。
「そんな……おえっぷ……悲しいことが……あったなんて!! あんまりですわぁ!!」
ダン、と拳でテーブルを叩き、フローラはハンカチで涙と鼻水を拭った。
「ごめんなさい、ヒスイ。とてもつらい過去を思い出させてしまったわね」
珍しく意気消沈した風な令嬢はまじめな顔してそう言った。
「ううん、いいの。あなたに話して私もちょっと落ち着いたよ。いきなりジェイドが現れたものだから、動揺しちゃって」
「今夜は眠れないのでは?」
「うん、多分ね。ジェイドのことが、頭の中をグルグル回ってるよ。一人になるとまた思い出しちゃうと思う」
「わかりました。この私が一肌脱いで……いえ、脱いでから人肌で温めて差し上げましょう。同じシーツにくるまって身を寄せ合い眠りません?」
(ふふっ……過去のつらい出来事を思い出して意気消沈している今が手籠めにするチャンスですわ。ヒスイちゃんと肌を重ねて慰め合ってい「たらいつの間にかなし崩し的に勘違い甘々百合エッチの好機到来ですわね……」)
「途中から心の声が漏れてるよ」